2020年7月28日火曜日

「言ってはいけないひと言」

 神は侮られるようなお方でありません。聖書はたびたび「神を恐れる」ことを私たちに教えています。私はクリスチャンになって37年になります。長きにわたってクリスチャンでいると、神さまがどういうお方かじんわりとわかってきます。神を恐れるという一点において、言ってはいけない言葉というのが確かにあるのです。 

 第一列王記20章は、イスラエルの王アハブとアラムの王ベン・ハダテとの戦いを書いています。両者は敵対関係にありました。圧倒的にアハブが劣勢でした。しかし預言者が来て、勝利を語るとアハブは奮い立ち、アラムを打って大損害を与えました。 

 ところがこの敗北に、アラムの家来はこう言いました。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう」。 

 一年後、再び両者は戦うことになります。そこに預言者がやって来てイスラエルの王アハブに言いました。「アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう」(20節)。 

 両軍は互いに向かい合って7日間、陣を敷き、それから戦いを交えた所、イスラエルは一日のうちにアラムの歩兵10万人を打ち殺し、大勝利を収めたのです。一日で10万人というのは神でなければできない数字です。山の神、地の神というのは、真の神・唯一絶対の主を知らない者が語ることばであって、主は自らこれをくつがえされたのです。 

 第二列王記7章にも、神への恐れを持たない者の、愚かな幕引きが記録されています。その後、ベン・ハダテは全軍を招集し、サマリヤを包囲しました。そこでイスラエルはひどい食糧難に陥り、子どもを食べることさえ行われていました。 

 この状況に王は憤っていました。しかし、預言者エリシャは、こう言います。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる」。 

 ところが、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が口答えします。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」。 

 預言者は「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言いました。 

 そして迎えた翌日。主がアラムの陣営に戦車の響き、馬のいななきを聞かせたため、彼らは陣営をそのまま置き去りにして、命からがら逃げ去って行きました。そこで民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことば通り小麦1セア大麦2セアが1シェケルで売られるようになりました。侍従はその管理にあたりましたが、門で民が彼を踏みつけたので彼は死にました。神を知らないのに、軽々しく神と口にした侍従のひとことは見逃されるものではありませんでした。 

 神は、私たちの言葉のすべてを聞いておられます。そしてご自身に挑戦する言葉には自らをあらわし、正しい裁きをなさいます。人はその人生の土台に神を恐れるということを持たないのなら、やがて滅びの道を歩むようになります。しかし、神さまを正しく恐れて語る言葉は主からの祝福を受け豊かな実を結びます。 

 言ってはいけないひと言、それは神を恐れないで口にするあらゆる無駄な言葉です。私たちは、生ける神を恐れましょう。 

 MIKOE NEWSから転載」 2020年7月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年7月23日木曜日

「イエスが愛された者たち~ザアカイ篇」 

 エリコの町にある取税人がいました。名をザアカイと言います。当時エリコは交通の要所でにぎわっており、ザアカイは取税人の頭でした。彼は私腹を肥やし、大金持ちでしたが人々から嫌われていました。けれどもそんなことはザアカイにとってはどこ吹く風で、彼は気にも留めませんでした。 

 イエスさまがエリコに来られたと聞くと、ザアカイはうわさに聞くイエスを見たいと思いました。ところが彼は背が低く、人だかりに呑まれてしまうので道沿いのいちじく桑の木に登り、そこからイエスを見ようとしました。 

 するとちょうどそこにイエスさまが来られ、ザアカイを見上げて言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家にとまることにしてあるから」ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエスさまを迎えました。これを見て皆は、イエスさまは罪びとの所に行って客となられたとつぶやきました。 

 しかし、イエスさまに出会ったザアカイは、一変しました。宴たけなわになると、ザアカイはやおら立ち上がりイエスに言います。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」。 

 イエスさまもこれを喜び、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を探して救うために来たのです」と言ってくださいました。恐らく満面の笑みを浮かべてのおことばであったでしょう。 

 サムエル記第一16章7節に「人はうわべを見るが、主は心を見る」という一文があります。祭司長・律法学者は当時のエリートです。しかしそれはうわべだけのことであって、心はむしろ罪人ザアカイが神の目にかなっていたのでしょう。 

 ルカの福音書15章で、羊飼いは一匹の迷った羊を探すためには、99匹の羊を置いたままにして見つけるまで捜し歩くと書かれています。ザアカイはそんな羊の一匹であったのです。 

 私たちもまた、失われた羊、失われた人です。イエスさまは私たちを探し出し、悔い改めを導き、救いに与らせるために世に来られた救い主です。主はあなたの心をご存じです。イエス・キリストを信じましょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年7月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年7月13日月曜日

 「イエスが愛された者たち~幼子篇」

 当然のことながら、子どもは大人とは違っていて、独自の世界に生きています。足手まといになると大人から邪険にされても、聞いているのかいないのか、つかず離れずの距離を保ってそこここにいるのが子どもです。 

 さて、イエスさまが来られた時、人々はイエスさまに触っていただこうとして、子どもたちをみ元に連れてきました。ところが、弟子たちは子らを叱りました。大人の世界に子どもが立ち入るな、ということでしょうか。あっちへ行けと言われたかもしれません。 

 しかしイエスさまはこの様子をご覧になると、憤って彼らに言いました。 

 「子どもたちを、私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです」 

 「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」(マルコの福音書10章13~16節参照)。 

 神の国は、子どもたちのものであり、子どものように神の国を受け入れるのでなければそこには入れないとイエスさまは言うのです。 

 子どものように、というのはどういうことか考えてみました。 

 子どもには、無条件で天のお父さんに抱き着く心の低さがあります。着ている服が泥だらけであっても、ぬぐうでもなく、身元に飛び込んで来る、その全き信頼。これが神の目には尊いのです。 

 ありのままで、というのが子どもたちの強みです。多くの大人は、高いハードルを自分で作ってしまい、神の国を自ら遠くしてしまいました。 

 イエスさまが、子どもを愛したのは、その偽りのない心を尊ばれたからです。イエスさまは弟子たちをお叱りになると、子どもたちを抱いてやって、1人1人に手を置いて祝福してくださいました。 

 イエスさまは、子どもを愛されました。私たちもまた天のお父さまの前には子どもです。悩み苦しみを包まず述べて、すがりましょう。主は平安を下さり、あなたを守って下さいます。       

MIKOE NEWSから転載」 2020年7月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年7月4日土曜日

サウルとダビデ 

 聖書の箴言に「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(29章25節)という一文があります。人を恐れて失敗した代表的な器は、サウルでした。

 サウルは初代のイスラエルの王です。その当時イスラエルは、神自らが裁きつかさたちを通して治めておられていたにもかかわらず、民はそれを好まず、他国同様「王」がほしいと言い出し、大いに御心を損ねました。しかし神は、イスラエルに王を与えられます。それがサウルであったのです。サウルは容姿端麗でまた戦士でした。王になるにふさわしいと人々が思うような人物であったのです。

 ダビデは、召し出された頃は少年で、紅顔の美少年であったようです。神を恐れる人物で、彼もまた戦士でした。イスラエルの戦陣をなぶる大男ゴリアテを一つの石で倒した話はつとに有名です。女たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌っては踊り、サウルの妬みを引き出しました。 

 二人とも罪を犯します。サウルは、アマレクとの戦いで、聖絶せよという主の御声に聞き従わず、良いものを惜しみ、価値のないものだけを聖絶し、さらには自分のために記念碑まで立てました。彼は主に聞き従っているつもりでいました。しかし、そうではないことをサムエルに告げられるとこう言いました。 

 「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」いささか弁解じみているように聞こえます。そしてサウルはサムエルに懇願します。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目立ててください」(サムエル記第15章30節参照)サウルは神よりも人を恐れたのです。箴言のことば通り罠にかかってしまいました。 

 一方、ダビデもまた罪を犯しました。戦士ウリヤの妻を召し入れ姦淫の罪を犯し、さらには、その罪を隠すため激戦地にウリヤを送り死なせてしまいます。これもまた、大きく主の御心を損ないました。 

 預言者ナタンによって罪を指摘されるとダビデは直ちに「私は主に対して罪を犯した」と告白しました。核心を突く悔い改めでした。するとナタンは即座に「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」という主のことばを取り次ぎました。 

 罪こそ犯してしまいましたが、ダビデは神への恐れを持っていました。罪は神の前に問われるものであり、悔い改めは神に対してなすものです。サウルは人を恐れたので神の前に本当の悔い改めができませんでした。 

 そしてそれがサウルにとっての罠となりました。私たちは人を恐れやすいものですが恐るべきお方は、父なる神さまおひとりです。この方を恐れることは正しい道であり、この方に信頼する者は守られます。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年7月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/