2019年4月3日水曜日

「死」と「無」

 死んだらどうなるのだろう、誰もが問いたい疑問です。天国に行く、地獄に行く、「無」になる、いろんな人がいろんな考えを持っています。特に「無」になるという説は、今風で魅力的です。俳優のMさんは、自分の墓石に「無」と刻みました。死んでしまったら、自分は「無」になるのだと信じてのことでした。
 私もまた、死ねば「無」になると思っていた時期がありました。
 10代の頃、自分を否定する思いが高じて、何度か死のうとしました。確かに死ぬと肉体はちりに帰ります。しかし、ものを考え判断するこの私自身は神が造られたものであり、そういう意味では人間は霊的な存在です。死んだとしても、「無」になることはありません。私が自殺をやめた最大の理由は、そこにあります。死んでもその「死」は、地上の命が終わったことを意味するだけで、「無」になるわけではない、と知ったからです。
 「死」や「無」はよく同列に論じられます。しかし「死」は決して終わりではありませんし、あなたという存在は、「無」にはなりません。私たちは神の前に神に対して生きているのです。コリント人への手紙第一15章に「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか』」(5455節)と書かれています。死のとげはクリスチャンには効き目がありません。それどころかイエス・キリストを信じる者は皆、復活するのです。
 イエス・キリストを信じるなら、パラダイス(天国)です。「無」でもなく、「死」でもありません。私たちは永遠に神とともに生きるのです。イエスさまを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月7日号(第1036号)より転載—

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