2015年12月27日日曜日

四人の友人
 持つべきものは友、と言いますが本当にその通りです。
 マルコの福音書2章に、興味深い記事が記されています。イエスさまがカペナウムの家にいると知ると群衆が押しよせて、戸口の所まで立すいの余地がないほどまでになりました。
 そこに、ひとりの中風の人が四人の人に担がれてみもとにやって来ました。しかし、群衆のためにイエスに近づくことができません。そこで四人は、イエスさまのおられる辺りの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままイエスさまの前につり下ろしました。
 イエスさまは彼らの信仰をご覧になって、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と語られました。
  当時は、病は、罪の結果起こるという社会通念でしたので、イエスさまはいやしとともにまず罪の赦しを宣言されたのです。中風の人は四人の友の信仰によっていやされました。
 ハレルヤおばさんとして有名な韓国の崔子実牧師は、断食祈祷の一人者で、もはや断食ができなくなった方のためによく身代わり断食をすると言っておられました。四人の友もまたその行いによって中風の人の信仰の不足をおぎないました。
 いやしに関しては、いやされる信仰を持ちたいけれども、私には重過ぎるということもあります。しかし、あなたの信仰が不足しても、それを補い助けてくださる方がいます。神はみこころの内にそのような方まで備えてくださいます。たとい、そのような人がいなくても、神の恵みは海よりも深いのです。あなたを見捨てるようなことは決してなさいません。神がその友となり、私たちを助けてくださいます。
  神に信頼する者は失望させられることはありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月27日号(第864号)より転載—

2015年12月20日日曜日

信仰があなたを直したのです
聖書を読むとイエスさまは、さまざまな方法で病をいやされています。ことばをもっていやされた時があれば、水腫の人は抱いていやしてやりました。
 その中で、マルコの福音書5章の長血を患った女のいやしは、群を抜いて素晴らしいものです。そこに私たちも共有できる信仰を見たからです。
 女は、12年の間長血を患っていました。多くの医者からひどい目に会わされて、持てる物を皆、使い果たしてしまいましたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。
 そんな中、彼女はイエスさまのうわさを聞きました。そして、いやしがなされていると知ると、イエスさまに心を定めてあらん限りに望みました。そして、ついにイエスさまのお着物に触ることでもできれば、私はきっと直る、と信じきるに至りました。
 それで女は群衆の中に紛れ込み、後ろから意を決してイエスさまの着物に触りました。すると、すぐに、血の源が枯れてひどい痛みが直ったことを、体に感じたのです。
 イエスさまもまた、自分の内から力が外に出て行ったことに気付いて、その人を探しました。女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスさまに真実を打ち明けました。
 イエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(マルコの福音書5章34節)と祝福してくださいました。
 長血の女は、決して特別な人ではありません。誰でも、信仰をもってイエスさまにすがるなら、同じ事が起こります。信仰は原則です。イエスさまを信じ、その恵みにより頼みましょう。イエスさまにはおできにならない事は一つもありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月20日号(第863号)より転載—

2015年12月13日日曜日

いと高き道
 イザヤ書55章に、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)という一文があります。
 かつて、フィリピンの刑務所で起こった殉教事件の前夜、説教者は殉教に応答する招きをしました。この招きは説教者の意思を超えた、聖霊に導かれたものでした。決意をもって前に出てきたJ姉を含む5人の者が翌日銃撃戦の中で、天に帰って行きました。この時、多くの者が嘆き悲しみました。しかし神は、これは殉教だ、と語られました。前日のことばは、その備えでした。
 先週2人の牧師が病気で召天しました。あっという間の展開に驚き、また胸を痛めました。泣きたかったですが、先のイザヤ書のみことばがそれを止めました。ことを理解するには時間が必要でしょう。また、人の頭では一生理解できないものかも知れません。ただ、愛する主、愛なる父がそれを許されたということ故に、これが最善だと知るのです。
 地上の命より大切なものは、永遠のいのちです。イエス・キリストを信じるとき、私たちに御霊が与えられ、永遠のいのちを頂きます。それは、私たちが死にいく時も、主は私たちとともにおられ、天で永遠に生きることを約束するものです。
 私たちの地上での命は限られています。こんな当たり前のことさえ、私たちは日々の労苦の中で忘れて過ごします。その刈り取るものは何でしょうか。しかし、人には皆、使命があるのです。イエスさまを信じ、この使命を全うしましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月13日号(第862号)より転載—

2015年12月7日月曜日

まっすぐにせよ
 
年末に向けて、私の家の近くの通りでは道路を直す工事をしています。アスファルトを剥がしむき出しになった砂利道を、ゆっくりゆっくり進むのですが、デコボコ上下に揺れて、思うように前に進めません。せっかくの車も道が悪いと本領を発揮することができないのです。
 その時思い返したのは、ルカの福音書3章の聖書のことばです。そこには「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」」と書かれています。
 荒野で叫ぶ者の声というのは、バプテスマのヨハネのことです。ヨハネは、イエス・キリストの初臨をお迎えする道を備えました。彼は人々に、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを授け、こうしてイエスさまの来られる道を備えました。
 それから約二千年がたち、教会に「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」とことばが下りました。前回は初臨ですが、今回はイエスさまの再臨をお迎えする道備えがなされようとしているのです。恐らくそれは、私たちが生きている時代か、そう遠くない未来です。イエスさまは再び来られます。主の通られる道をまっすぐにせよ、ということばは、どのようにして実現するのでしょうか。
 箴言3章に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(5、6節)とあります。 「主により頼む」つまり、主に言われたことを行うこと、です。
 どのような状況にあったとしても、そこに主を認め、主により頼むなら、その時、神ご自身が私たちの道をまっすぐにしてくださるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月6日号(第861号)より転載—