2012年6月26日火曜日

忠実さ

マタイの福音書25章のお話です。
ある主人が旅に出掛けることになったので、おのおのその能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントをしもべに渡しました。5タラント預 かったしもべは、すぐに行って商売をし、さらに5タラントをもうけました。2タラント預かったしもべも、同様に2タラントをもうけました。
ところが1タラントを預かったしもべは、地を掘って、その金を隠しました。
やがて主人が帰ってき、それぞれもうけたお金を報告すると、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあ なたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」ということばを下さいました。しかし、1タラントを地に隠しおいたしもべは、「あ なたは、蒔かない所から刈り取るひどい方だと分かっていました」と語り、地の中に隠していた1タラントを見せました。これに対して主人は「悪いな まけ者のしもべだ。
私は蒔かない所から刈り取るというのか。ならば、銀行に預けておくべきだった。そうすれば利息がついて返してもらえたのだ」と 語り、彼の1タラントを10タラント持つ人に与えてしまわれました。
この箇所を読む時、5、2、1という数字が長年私を惑わし、働きで、5タラントの人は用いられるが1タラントでは及びもつかないだろう、そんな 読み方をしていました。ところが、ある時、主は教えてくださいました。
タラントが幾つであろうが、与えられている物にいかに忠実であるか、ただそれが問われるのです。
神はタラントの大きい人を用いられるのではなく、自分に与えられた物(タラント)に忠実な者を用いてくださるので す。 (イスラエル北野)
み声新聞2012年7月1日号(第682号)より転載—

2012年6月18日月曜日

貧しい者は幸いです

 神は、ヨシュア記の中で、イスラエルが受け継ぐ領土として、「あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全 土および日の入るほうの大海に至るまでである」(1章4節)と語られました。それは硬貨にも刻まれており、私たちはそれを大イスラエルと呼んでい ます。
 ダビデやソロモンの時代、イスラエルは最も栄えましたが、それでも統治した領土は、この大イスラエルには至りませんでした。
 ヨシュアが死ぬと、イスラエルの民は、神さまが言われた領土を獲得しようとはせず、むしろ、占領するより、異邦の民と共存共栄の道を探りまし た。
 イスラエルの民が、神さまの命令に従わず、このような道に進んだ原因の一つに、私は「豊かさ」があったのではないかと思っています。
 イスラエルは、長く放浪の民として荒野で生活していましたが、カナンの地に入り、そこでの豊かな産物によって生活は一変していきます。
 「もうこれで十分豊かだ、だからこれ以上苦労したくないし、する必要もない」。このような思いが民の中に生じたのではないかと思うのです。
 マタイの福音書5章でイエスさまは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(3節)と語られました。心が満ち足りて豊か になると、人はそれ以上、神を求めることをしなくなります。
 そういった意味で、心の貧しい人は幸いなのです。その人は常に神を尋ね求め、神さまの助けと栄光を見ることができるからです。
 豊かさは恵みです。しかし、神さまを尋ね求め、その御声に聞き従う道にこそ、本当の豊かさがあるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月24日号(第681号)より転載—



2012年6月9日土曜日

遅くなってもそれを待て

 私の通っていた大学の話ですが、よく教授が定刻より遅れて教室に来ました。
それが大学の先生方のスタイルなのでしょうが、神さまもまた、これに近いことをなされることがあります。約束より遅れ気味にやって来ることがあるのです。
 私たちの教会では、初期のころ、よくアメリカに行って、A教会のプレイヤーチャペルで祈り込む時を持ちました。とはいえ何日も同じように祈るうちに、せっかくアメリカに来たのだから、別の教会、B教会にも行きたい、と無言の圧力がかかりました。
 チームリーダーも、まあいいだろう、ということで、その日の午後、チームはB教会に向けて出発しました。ところが、しばらく走った所で、神さま が、はっきりと、「戻りなさい。行き先はA教会です」とリーダーに語られたのです。
 出掛ける前に言ってくださったのなら何も問題もないのに、すでに出発しています。いまさら帰るとは言いにくいです。しかし、その葛藤の中でリー ダーは、神のみこころを貫き通しました。皆でA教会に戻ると、まさにその日のメッセージから、リバイバルの約束のことばを受けたのです。このこと ばを受けるためにこそ、まさにチームはやって来たのです。
 それは、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書2章3節)という約束です。このことばが、私たち をリバイバルに向けて養い続けました。
 大きな祝福の前には、よく試しが許されます。主を待てるかどうかです。主を待つ中で、私たちは、探られ、練られ、試されます。しかし、忍耐を全うし、主の時を待ち望むなら、思いを超えた神の栄光を見ることができるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月17日号(第680号)より転載—



2012年6月4日月曜日

告発者

 サタンは空想上のものではありません。聖書でははっきりとその存在を語っています。
 そして、サタンには多くの呼び名があって、日夜、その名の実質を示すところを行っています。その実質の一つに「告発者」という性質があることを 覚えていただきたいと思います。ヨハネの黙示録12章10節には次のように書かれています。
 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている 者が投げ落とされたからである」
 ここに書かれているように、サタンは告発者なのです。サタンは、日夜私たちの罪を神の前に激しく糾弾しています。サタンは律法の測りを持ち出 し、あれができていないから駄目だ、これがあるから駄目だと、私たちの罪や不足を神さまに訴えています。
 しかし、一体、完全な人間、サタンが訴える口実を見つけられないような人間など存在するでしょうか。あり得ません。それでもあえて言うなら一人 だけ。
受肉されたイエスさま、イエスさまだけは何の罪もありませんでした。そのイエスさまが、何をなしてくださったかというと、それは、罪の赦しです。
 イエスさまは何の罪もないお方ですから、ご自分を罪のためのいけにえとしてささげることができました。私たちの罪の身代わりとなって十字架で死 に、復活を果たされました。こういうわけで、サタンがいくら告発しようと、この十字架を信じるなら、全ての罪は赦されているのです。
 イエスさまを信じるなら、神さまは私たちを、十字架を通して見てくださいます。もはや、あなたを責めるものは何もありません。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月10日号(第679号)より転載—