2012年4月28日土曜日

圧倒的な勝利者

 私は、以前病院で見掛けた2人の少年が忘れられません。彼らは、足に問題がありましたが、器用に2本のつえを使って、エレベーターに乗り、淡々 と歩いて行かれました。
 私は、その明るく前向きに生きているという姿に感動しました。人の目には不自由に映っても、彼らはそうは思っていないでしょう。世ではハンディキャップといいますが、彼らの心は自由そのもののように感じました。
 聖書の使徒の働き16章に、パウロとシラスが獄中で神に祈りつつ、賛美を歌っていたという様子が書かれています。彼らは足かせにつながれ、この 先どうなるかも分からない不安と不自由な環境の中にいました。しかし、彼らは自由でした。神の下さる平安と喜びがそこにあったからです。彼らは世 の現実、また不幸に打ち勝っていました。
 世では、よく「幸いも不幸も心の持ち方一つ」だと言いますが、神さまの与えてくださる自由は、世の自由とは大きく異なります。世から来る自由や 平安は、その現状を満足し受け入れることにありますが、神さまから来る自由や平安は、不可能の現実を打ち砕き、圧倒的な勝利と祝福をもたらしま す。
 前述のパウロとシラスですが、この後、神さまは大きな地震を起こし、2人の足かせを解き、牢の扉を開けてしまわれました。
 どんな状況でも、イエスさまの愛は変わりません。牢獄もまた、パウロとシラスの賛美の前に、御国の臨在があふれ、神さまの勝利を現す所となりました。
同様に、私たちもまた問題の中にあって、感謝と賛美の声を上げる時、主の力強い解決の手が動きます。圧倒的な勝利とは、この方と共に居ると いうことです。そして、イエス・キリストこそ、その方です。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月6日号(第674号)より転載—



2012年4月22日日曜日

罪を赦す権威

 聖書のマタイの福音書9章に、罪に関する興味深い記述があります。
 人々が中風の人を床に寝かせて、イエスさまの下に運んできたところ、イエスさまは彼らの信仰を見て、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦 された」と言われました。ところが、これを聞いた律法学者たちは「この人は神をけがしている」と心の中で言いました。
 イエスさまはその様子を見て取って、こう言われました。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』というのと、どちらがやさしい か。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」。こう言って、中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで、家に 帰りなさい」と言われました。病人は起き、群衆はこのような権威を人にお与えになった神をあがめました。
 神によらないで、一体誰が、人の罪を赦すことができるでしょう。罪の下にある私たち人間にはそのような権威はありません。しかし、御子イエスさまは、ご自分で語られたように、罪を赦す権威を持っておられるのです。
 イエスさまは罪のないお方でしたが、私たちの全ての罪を身に負い、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、また復活を遂げられました。イエス さまは、ご自分の死という代価を払い、私たちを死から、また、罪から買い戻してくださったのです。
 それ故、今や私たちは、キリスト・イエスによって全ての罪が赦されています。確かに私たちは罪人ですが、私たちは赦された罪人なのです。十字架の贖いを信じるなら、私たちはあたかも罪がないかのように見なされ、全ての罪は赦されます。その権威をイエスさまは持っておられます。キリストの 救いを頂きましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月29日号(第673号)より転載—



2012年4月15日日曜日

これから起こること

 16歳の時に、国交正常化して間もない中国に、修学旅行で行きました。
 人民服を着た大勢の人たち、おびただしい数の自転車、初めて知る海外が、共産国であったものですから、その体制や文化の違いを前に、異文化とい うものを強烈に意識しました。
 数年後、再び中国に行きました。今度は車が主流になっていて、大きな建物の建設ラッシュでした。人民服を着ていた人もジーンズにはき替え、ハン バーガーを食べ、一見すると、欧米と紛うような姿がそこにはありました。
 世界はどこに行こうとしているか。結論から言えば、世界は単一の国家を目指し、あらゆる面でグローバル化が進んでいきます。以前なら、海や山が 仕切りとなって、民族性もまた守られていましたが、今はインフラの発達により、文化は単一のものへと移行してきているように思えます。そして、そ れは反キリストという世界的リーダーを迎える素地ともなっているのです。
 反キリストに関し、新約聖書テサロニケ人への手紙第二2章に「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く 上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」と書かれています。今は、引き止めるものがあって止められていますが、やがて世界を 掌握する強力なリーダーとして、必ず彼は出てきます。そして、全人類を巻き込んだ大きな戦争が起こります。
 しかし、案ずるには及びません。その時には神さまは、御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれるからです。今まさに時代 は変わろうとしています。しかし、変わらないのは神さまの救いの約束です。イエスさまを信じ、目を覚ましていきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月22日号(第672号)より転載—



2012年4月10日火曜日

それでも神は正しい

ノンクリスチャンである友人のMさんは、ヨブ記のことをよく話題にします。正しいヨブがなぜ試練を受けたのか、疑問だとMさんは言います。
神さまがいるならなぜこんなことが…という思いや出来事は、ほとんどの人が共通して持っているものと思います。クリスチャン歴30年の私ですが、いまだに、神さま、なぜ?と思ってしまうことは、多々あります。
 信仰の父、アブラハムの出会った試練も、また厳しいものでした。彼は、愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように神さまに語られました。彼は聞き従い、イサクを縛り、ほふろうとしました。その時、神さまは「あなたの手をその子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよくわかった」と語ってこられ、彼に対する祝福の約束を確かなものとされました。
 ヨブの試練においても、アブラハムやイサクの試練でも、それを許された神さまは正しいお方です。事実、約束通り、アブラハムから空の星、海辺の砂のように多くの子孫が出てきました。ヨブに関しては、試練の後の半生を以前にも増して祝され、聖書には、ヨブの所有物を全て2倍に増された、と書かれています。
 試練や不幸を許す神さまを理解できないという人の心も分からないわけではありません。しかし、それでも神さまを「正しい」とする時、大きな祝福の入口が見えてきます。理解できなくても、信じ信頼することはできます。試練の後には、必ず神さまの用意しておられる祝福の計画があります。
 それ故、理解できなくても、神は正しいお方として、感謝しましょう。そうすれば、神さまの祝福に漏れることは決してありません。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月15日号(第671号)より転載—