2015年8月29日土曜日

恐れに立ち向かう
 私の故郷では夕方6時の時報に「夕焼け小焼け」を流します。どこか物悲しいこのメロデイーが聴こえたなら、どの子も皆一斉に帰り支度を始めます。夕闇に追い付かれそうで、私も必死に自転車のペダルを漕ぎました。迫り来る闇が怖くて、クモの子を散らすように皆が一斉に家路に向かいます。
 恐れは、恐れるにつれ、倍々と増し加わる性質を持っています。恐れが次の恐れを呼ぶのです。こうして恐怖心は私たちの内側で急速に膨れ上がります。
 話は変わりますが、ギャングエージ期の夫は、冒険好きで活発な少年であったようです。ある時、常日頃よくほえて、子どもたちや夫人たちを怖がらせている犬に天誅をくれてやろうと一計を案じたそうです。犬の近くに寄り、恐れるような態度を見せると、いつものように犬はほえたけて近づいてきました。背を向け逃げると、調子に乗ってワンワン追い掛けてきます。十分に引き付けておいて、突然振り返り、拳闘の姿勢を取ったところ、犬は何と急ブレーキをかけて止まりました。そして、きびすを返して一目散に逃げ去って行きました。
 戦いにおいては決して敵に背を向けてはならないのです。北海道には熊が出ますが、鉢合わせた時には決して背を見せてはならない、と教わりました。
 聖書のエペソ人への手紙6章は、霊の戦いにおける神の全ての武具について言及しています。しかしそれらはみな立ち向かうための武具ばかりです。戦いは前進あるのみです。全て恐れに対しては立ち向かって行くことが大切です。立ち向かうなら、必ず敵はあなたの前で大敗します。そして神の勝利をみるのです。神があなたと共にいてくださるからです。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年8月30日号(第847号)より転載—

2015年8月22日土曜日

教会につながる
今となっては若気の至りですが、救われた当初私は18歳で、自分の信仰は強いものに見えました。
 ところが、ある日試練がやってきました。病気で長期入院するという事態になったのです。救われてこのかた、毎週の礼拝を欠かしたことはありません。しかし、入院となると礼拝に行くことはできません。いきおい一人で礼拝を守ることになってしまいました。
 人通りのない非常階段に行き、祈りから始め、聖餐こそありませんでしたが、賛美をし、献金をささげ、信仰書を読むことを説教とし、病床での礼拝を守りました。最初はそれで良かったのです。
 ところが3カ月くらいたったころから何やら雲行きが怪しくなりました。ご臨在が来ないのです。知らぬ間に好き勝手な礼拝になってしまい、最後の方はその形すらも曖昧で捉えることができなくなり、いつの間にか礼拝の実質から離れてしまいました。
 ヘブル人への手紙1025節には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と書かれています。
 いっしょに集まることの重要性をこの一節は教えています。自分独りの信仰はアップダウンするものですが、教会の礼拝や祈祷会は皆が集い、共に祈り、信仰を分かち合うので、信仰の不足も知らぬ間に増し加えられていきます。教会の恵みもそこにあります。
 幸いなことに今はIT社会になりました。ネットでの礼拝を守ることができる時代です。教会のカバーの下でネット礼拝も等しく同じ恵みにあずかることができます。これは大きな祝福です。教会につながることを求めてまいりましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年8月23日号(第846号)より転載—

2015年8月20日木曜日

がんから生還
 私の父は、肝臓がんで55歳という若さで天に召されました。それから二十余年、今度は母ががんになりました。そして母だけではなく、時を同じくして教会の何名かの方々に一斉にがんが許されました。
 もっとも困難な状況にある、と思われた方に至っては、お医者さんに、「第二の人生を考えてください、残念です」と宣告されました。医師がさじを投げたがんですが、祈りの手が上がる中で治療が功を奏し、がんは予想以上に縮小し、ついに手術で全てのがんを取り切ることができました。こうして彼女は末期がんから生還を果たしました。奇跡が起こったのです。彼女だけではなく、私の母を含めた全員がいやされ、なお、いやされ続けています。
 この背後には、教会によるとりなしの祈りがありました。ルカによる福音書には「神にとって不可能なことは一つもありません」(1章17節)と書かれています。神にはどんなことでもおできになるのだという信仰は確かなものであり、現状がどうであれ、私たちには主がその希望です。
 イエスさまは、宣教において多くの病人をいやされました。中には「失望するのがいやだから期待しない」という人もいるかもしれません。しかし、主はあなたにも等しく恵みを備えておられるのです。主は誰をも拒絶することはなく、むしろ、あわれんでくださいます。ローマ人の手紙4章18節に「望み得ないときに望みを抱いて信じました」と書かれています。この手のひらほどの信仰が勝利を生むのです。
 かつて、イエスさまがなさったことを、今は教会がそれを受け継いでいます。教会はキリストが満ちています。重荷を下ろして安きを得ましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年8月16日号(第845号)より転載—

2015年8月8日土曜日

逆転勝利
 この新聞が届くころ、私たちは長野県の白馬でキャンプを行っていることでしょう。会場となる「ホテルグリーンプラザ白馬」は、豪華なリゾートホテルで、部屋も食事もなかなか立派です。夫は、何回か他のクリスチャンのキャンプに行ったことがあるようですが、ここの施設は別格だ、と言っています。
 このホテルを見つけたのは、私たちの牧師です。その過程には興味深いものがありました。というのも、当時、教会の中で中高生のキャンプを担当していたスタッフの方が、熱心に探したにもかかわらず2週間前になってもキャンプの場所が見つからず、ついに牧師に泣きついてこられたのです。
 閑散期ならいざ知らず、中高生キャンプは夏休みの繁忙期です。スタッフの方々も探したには違いありませんが、やはり時期もあり見つからなかったのでしょう。時間的に今から探すのは不可能に近いものでした。
 牧師は祈り、主に聞き、キャンプを行うことに決め、場所を祈りながら探したそうです。牧師はホテル探しが得意だったこともあり、神さまはその特技を用いて最善の場所を与えられました。それが「ホテルグリーンプラザ白馬」だったのです。
 夏のキャンプが来るたびに、私はこのことを思い出します。そして、神さまによる一つの逆転勝利として学んでいます。聖書には「神は…試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(コリント人への手紙第一1013節)とあり、また「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ人への手紙8章28節)ともあります。
 皆さんの人生で許されるあらゆる問題、困難は益となり、祝福となります。イエスさまを信じましょう。そしてイエスさまに従いましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2015年8月9日号(第844号)より転載—
いと高き道
先日、夫が釧路に向かう途中、高速道路の縁石に乗り上げ、前輪右のタイヤがバーストしてしまうという単独事故を起こしました。数カ月前から、ずっと「事故」という示しがあって、乗るたびに祈っていました。対向車線に飛び込むことがなかったのが奇跡であったのですが、サスペンションがひどくゆがみ、保険屋さんを呼びました。
 保険屋さんは、修理は結構な値段になるので、安くて程度の良い中古車を探すのも手ですよと助言してくださいました。それで、ネットで見てみると良さそうな車が1台ありました。しかし、一度見てからでないと契約は危険なので、下見に行ったところ、思ったより傷んでおり、この車ではないと互いに意見が一致しました。
 程度の良い中古車というと、今、私たちが乗っている事故を起こした車が一番です。それで方針を変更して、買い替えではなく車を修理して使うのがみこころではないかと思いました。
 神さまは災いを最善へと変えてくださいます。保険屋さんは良い方で、小さな修理から大きな修理まで細かく見積もりを出してくれました。車好きの夫がせっせと修繕したところ、修理に出してなお残るお金がありました。保険屋さんに確認したところそれはご自由に使ってくださいとのことで、何とそれは祈っていた教会主催の白馬キャンプに行く費用となりました。
 イザヤ書に「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55章9節)と書かれています。いと高き神のはかりごとは優れて高く、人知を超えて偉大です。たとえ何が起ころうとも、私たちは心を騒がす必要はありません。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年8月2日号(第843号)より転載—