キリストのかおり
そろそろ桜の開花が始まって参りました。とはいえここ旭川では、昨日は牡丹雪が降りました。冬の寒さのなごりがあるものの、それでも春の足音が近づいていることを随所に感じます。
春といえば乳母の家の玄関先に、沈丁花が植えてありました。辺り一面にいい香りがして、いつもその場を立ち去りがたい思いになりました。歩き始めた頃から、私にとって春といえば沈丁花でありその花のかおりでした。花は目で愛でるだけでなく、かおりを楽しむものだと、梅や水仙を通しても、初春の花は教えてくれました。視覚だけでなく嗅覚にも訴えてくるのです。このかぐわしいかおりは、冬の寒さに耐えて花を咲かせたことへのご褒美でしょうか。
コリント人への手紙第2に、「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」(2章15節)という一節があります。これは、私たちクリスチャンを用いて神は働き、あらゆる人々にイエスさまを知らせてくださるという事を言っています。それはかおりのようにかぐわしく、人の心に触れるのです。
私がキリストを信じたのもまた、このかぐわしいキリストのかおりによってのことです。信仰に入ったきっかけは、内側から輝くような光を現わしている人と出会ったことによります。彼女は自分のことをボーンアゲインクリスチャンだといいました。内側に喜びを抱いて輝いており、一目でこの信仰は本物だ、と直観しました。彼女を通してその日、キリストのかおりが私の所にも届いたのです。かぐわしく、また慕わしくて、私は彼女の導きによって祈り、イエスキリストを救い主として信じ救われました。
また、マーリンキャロザースさんとの出会いも、看過できません。いつも神をほめたたえ喜びにあふれているマーリンさんは、体全体が明るく輝いています。柔和で、穏やかな霊が宿っていて、誰もがマーリンさんが大好きです。マーリンさんもまた私たちを愛して下さって、キリストのもとへ私たちを導いてくださいました。そこにも、かぐわしいキリストのかおりが満ち満ちています。