2019年6月19日水曜日

自己実現と自己否定

 私が成人を迎えた頃は、ちょうど「キャリアウーマン」という語が世に出てきた時代で、その流れで「自己実現」ということが大きく人々の関心を引いた時でもありました。
 自己実現という言葉は、自尊心をくすぐる甘い誘惑でした。その頃私はすでにクリスチャンでしたが、すっかり惑わされてしまい、クリスチャンライフもまた、自己実現の一つだと考えるようになりました。突き詰めてみるとそれは私のためにイエスさまがあるというスタンスで、自分に死んで「イエスさまに聞き従う」という、イエスさまによる「自己実現」とは正反対のものであったのです。
 イエス・キリストを、自己実現のための方策の一つとして捉え、イエスさまを、私の自己実現をなしてくださるお方として見たとき、神の恵みから外れました。それは、イエスさまでなく自分を主とする生き方であったのです。
 マタイの福音書に「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(1039節)という一文があります。これは、聖書にはよくあるのですが、逆説的な表現です。自分のいのちを自分のものとしないで、むしろ失うなら、いのちを得るというのです。聖書は自己実現よりむしろ、キリストにある自己否定である、「祈り聞き従い」を推奨し、世に死んでキリストに生きることを語っています。そしてそれこそが、イエスさまが下さる本当の、神による自己実現です。
 私たちは、試されます。キリストに名を借りて、多くの人が自分の生き方を主張し、それを実現しようとします。しかし、人間にとって最も大切なことは自分に死に、神に対して生きることです。神に従うことこそが、本当の自己実現なのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月23日号(第1047号)より転載—

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