2015年10月31日土曜日

 
 年度末になりました。本年度のみことばは、「あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである」(出エジプト記3410節)というものでした。果たしてその通り、病のいやしにおいて恐るべき主のわざを見ました。
 末期がんの宣告を受けた方々の身にがんが消えたという不思議や奇跡が次々と起こりました。また、あっちでもこっちでもがんにかかった方が大勢いました。これは、信仰の助けを得やすい環境となりました。自分のがんも良くなるかもしれない、と信仰を持ちやすいのです。
 しかし、逆もあります。他の人はいやされても自分は駄目じゃないか、と不安に思うのもまた人間です。信仰でいやされるものなら私も、と信仰を搾り出そうとしますが、にわかに出てくるものでもありません。こんな葛藤は、誰もが通ります。信じ切れない人、信じることに臆病な人、はなから諦めている人もいます。
 マルコの福音書9章に悪霊につかれた息子を持つお父さんが出てきます。イエスさまに助けを求め、「もし、おできになるものなら、お助けください」と言いました。すると「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。イエスさまは一喝されました。お父さんはもう叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」
 もちろんイエスさまは、いやしてくださいました。信仰は神さまからの恵みです。信じることが必要なら、主は信じさせてくださいます。そして、あなたのその戦いを勝利へと導き、栄光を現してくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年11月1日号(第856号)より転載—

2015年10月26日月曜日

まことのいのち
 人生で、最も大事な事は、やがて私たちは等しく死ぬのだということを知っていることです。ソロモンも、「伝道者の書」で「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(72節)と書きました。
  30年以上前のことですが、洗礼を受けられた社会人の男性が、興味深い証しをしておられました。男性が受洗に導かれたのは、ある聖書のことばが心に触れたからだといいます。それはマタイの福音書1626節で、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」というものでした。
 たとえ全世界を得ても、人は自分の生き死にすら自由にすることができません。神さまにとっていとも小さな事でさえ自分には思い通りにならない、それを知った時、彼は主イエスさまに出会いました。
 どんなに成功しても、よしんば全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたなら、全ては終わりです。その代価として、差し出せるようなものは私たちにはありません。
 イエスさまは、私たちのいのちを永遠に買い戻すために、定められた時に世に来られ、十字架にかかって死んでくださいました。こうして主は、私たちの贖いを完成されました。このイエスキリストを主として、心に信じ、口で告白するなら、あなたは救われます。キリストにある者となり、永遠のいのちにあずかることができるのです。それ故、あなたもまた、イエス・キリストを信じましょう。イエスさまは、私たちの希望です。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月25日号(第855号)より転載—

2015年10月17日土曜日

栄光のからだ
 ピリピ人への手紙321節に「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と書かれています。栄光のからだとは何でしょう。
 それは、復活の際に与えられるよみがえりのからだです。この栄光のからだはイエスさまの身にまず起こり、次いでイエスさまを信じた聖徒たちに与えられます。コリント人への手紙第一15章にはこう書かれています。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ(中略)血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(4244節)
 こういう訳で、キリスト・イエスにつく私たちは、死んでもよみがえりのからだを頂き、やがて主の日に復活します。私たちには、死を超えた先にまで望みがあり、死んで終わる血肉のからだを脱ぎ捨てて、復活のからだを頂いて、永遠という時間を主と共に過ごすようになります。
 幼少のころ、歯の生え替わりを迎えました。ぐらぐらする歯が抜けると、表に出て「スズメの歯より早くはえろ」と唱えて乳歯を空に向かって投げました。私の故郷の慣わしです。
 復活のからだを頂くことはこれと似ています。初めに出てくるのは乳歯ですが、やがて永久歯に生え替わります。乳歯が必ず永久歯に生え替わるように、イエスを信じる私たちは、死にますが、もはや決して死ぬことのない復活のからだ、栄光のからだを後に受けるのです。
 イエスさまはよみがえりの初穂です。イエスさまを信じましょう。私たちにもまた、栄光のからだが備えられているのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月18日号(第854号)より転載—

2015年10月11日日曜日


 このところ、旭川ではゲリラ豪雨が続いていて、雨上がりに、虹を見せてくださいと祈りました。すると、うっすらと空に虹を認めることができました。もっとくっきりした虹を見たい、と、これまた願ったところ、見事な虹が眼前に現れました。光を放つ二重の虹で、きれいなアーチを描き、虹の根っこが大地の上に立っているところまで見えて、主をあがめました。
 しかし、ある方々は、こうして私たちが虹に反応することをけげんな顔をして見ておられます。もちろん私たちは虹を信仰しているのではありません。虹を拝んでいるわけでもありません。
 虹の由来は創世記9章にさかのぼります。神は、ノアの箱舟に乗って地上に訪れた大洪水から助かった、ノアとその家族、地上のすべての肉なるものと契約をお立てになりました。
 13節に、「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」と書かれていて、これが虹の由来です。虹は、神さまと地上のすべての肉なるものとの間に立てられた契約のしるしなのです。
 私には忘れ得ない虹がいくつもあります。イスラエルのオリーブ山での虹、虹のアーチをくぐり抜けた北海道の虹、見えない角度にもかかわらず出現した病院での虹、飛行機で見た、雲の間にあった数十個の虹、などです。
 元気のない時、虹の出現で持ち直したことは数知れず、虹は言葉以上に私を強めてくれました。虹を見る度に「私がともにいる、これでいい、大丈夫だ」。神さまが、そんなメッセージを与えてくださっているように思います。こういう訳で私たちは虹の出現に喜ぶのです。神もまた、応えてくださり、絶妙のタイミングで虹を下さいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年10月11日号(第853号)より転載—

2015年10月3日土曜日

私の結婚
 私には成年に達した未婚の娘が2人います。みこころの人と結ばれますように祈りつつも、紆余曲折あった自分のことを思い出します。
 結婚の転機となったのは、私が握っていたものを手放したことにあります。正直なところ、この人であってほしい、という人が私にもありました。ところがある時、猿の捕まえ方という題の説教をした牧師がいたのです。猿は握ったものを手放さないという習性があるそうです。それを使います。猟師はヤシの実に穴をあけて、石ころをつめて放って置くのだそうです。好奇心旺盛な猿は近づき穴に手を入れます。入れたらそこにある石を握るので、今度は手を抜こうとしてもできません。握った手を放せば助かるのに、それをしない猿は、後からやってきた猟師にやすやすと捕らえられるのです。
 これを聞いてゾッとしました。今握っているものを手放さないと神のものを受けることができないのです。
 あらかじめ自分の答えを持ちながら祈るのは、実は意味が無いことなのです。摂理から何から、物事がどんどんそういう方向に見えたり、聞こえたりしてきます。示してくださいと祈りつつも自分の声が勝ってしまうのです。このように、自分に死んでいないと神のものを峻別することはできません。
 これだけは私から奪わないでください、と祈っている人も時々おられます。しかしどうか聞いてください。神は悪人ではありません。あなたにとってそれが必要なことを、あなた以上に神はご存じです。奪うどころかむしろ得るように助けてくださるお方、それが神です。聖書には、こう書かれています。
 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37篇4節) (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月4日号(第852号)より転載—
ひとり子さえ惜しまず
 イサクは、アブラハムとサラの間に産まれた約束の子でした。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と神は語られたのです。アブラハムへの約束や祝福はすべてイサクが相続すると神は約束されました。
 にもかかわらず、神はアブラハムに「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と試練を許されました。イサクが死んでしまったら、神の約束は一体どうなるのでしょう。
 しかし、アブラハムは時を移さず語られた地に向かいました。到着すると彼は祭壇を築き、まきを並べた上にイサクを縛り、今ほふろうとしました。その時、主の使いが天から彼を呼び言いました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、私は、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(創世記22章参照)
 ひとり子さえ惜しまない、これはどこかで聞いたことばではありませんか。ヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。神さまもひとり子イエスさまをおささげになられたのです。
 神さまのひとり子とはイエスさまのことです。イエスさまは私たちが神さまの元に帰っていくことができるように、私たちの罪の贖いの代価としてご自身をささげ、十字架で死なれました。神はそれほどまでも私たちを愛してくださっているのです。そして神は復活のみわざのため、力を働かせ、御子を信じる者に永遠のいのちをくださるのです。イエスさまを信じましょう。(イスラエル北野)

 み声新聞2015年9月27日号(第851号)より転載—