2014年4月24日木曜日


 聖書にスロ・フェニキヤの女と呼ばれているギリシャ人の母親が登場しま
す。(マルコの福音書7章)彼女には悪霊につかれた娘がいました。それ で、
イエスが来られたと知ると、彼女はダビデの子よ哀れんでくださいと叫び声をあ
げ、イエスについていきました。
 しかしイエスさまは彼女に一言もお答えになりません。弟子たちのとりなしに
よってやっと口を開くと、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外 のとこ
ろには遣わされていません」、つまり、いやし解放の働きはユダヤ人に限ると
突っぱねているのです。
 こうまで言われると、普通はへこんでしまうか、反発するかのどちらかです
が、女は違いました。イエスの前にひれ伏すと「主よ。私をお助けくださ い」
と言いました。イエスさまは「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてや
るのはよくないことです」と答えました。今度は子犬扱いです。い くらなんで
も厳しすぎるのではないでしょうか。しかし、ここからの展開が素晴らしいので
す。
 女は言いました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子ど
もたちのパンくずをいただきます」
 なんと素晴らしい信仰告白でしょう。イエスさまも「ああ、あなたの信仰は立
派です。その願いどおりになるように」と語られました。悪霊はその 時、娘か
ら出ていきました。
 イエスさまへのまったき信頼と謙遜が彼女の心にはありました。「主よ。その
とおりです」と言いえた彼女のへりくだりがあって、初めて主が推奨さ れる信
仰をみたのです。信仰は、イエスさまのことばはすべて正しい、とする姿勢から
始まります。私たちもまた、彼女の信仰に学びましょう。
(イスラエル北野)

 


み声新聞2014年4月27日号(第777号)より転載—

2014年4月18日金曜日


天の故郷
故郷という言葉を聞くと、胸が恋しくなります。天の故郷といえばなおさらで
す。ヘブル人への手紙11章ではこのように書かれています。
 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れる
ことはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅 人であ
り寄留者であることを告白していたのです。(中略)もし出て来た故郷のことを
思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事 実、彼らは、
さらにすぐれた故郷にあこがれていたのです。(略)事実、神は彼らのために都
を用意しておられました(1316節)
 先月、3月19日に義父が天に召されました。ここ一月ばかりで、ばたばたと調
子を崩し、あれよという間に御国に帰ってゆきました。それは寂しい ですが、
夫と共に話すのは父が今喜んで天国にいるということです。父はイエス・キリス
トを救い主として告白し、信じていたので行き先は天国です。 この世とは比べ
ものにならないさらにすぐれた故郷に帰ることができたのです。こういうわけ
で、私たちはすべての点で心から喜んでいます。
 父の天国行きは、引っ越しのようなものです。離れはしましたが、天で元気に
過ごしている父を感じ続けることができます。そして、やがては天で私 たちは
再会を果たすでしょう。
 この恵みは、私の父に限ったものではありません。イエスさまを自分の救い主
として信じるなら、だれでも罪の赦しを受け永遠の命を頂き、天国に行 けま
す。そしてそこで私たちは永遠の再会を果たすのです。神さまは死すら祝福と変
えてくださいました。この御国の希望をどうかあなたも手にしてく ださい。
(イスラエル北野)

 み声新聞2014年4月20日号(第776号)より転載—

2014年4月7日月曜日


誇りと高ぶり
 私には7歳になるめいがいます。頭がよくてきれいで、伯母として先行きを楽
しみに思うのですが、弟はその子をしっかりと育てています。
 ある時、弟は彼女に言いました。「K、おまえは、確かに頭がよくてきれいか
も知れんが、世の中には、お前のような者は五万といることをわかって いるん
か」将来高ぶることのないようと、今から戒めているようです。
 高ぶりは、自分に酔い、自分は特別だと思い、誇ってやまないものです。とて
もいただけたものではありません。
 ガラテヤ人の手紙6章には「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そう
すれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対 して誇
れることではないでしょう」(4節) と書かれていますが本当にその通りで
す。誇ってみても、それはただ自分だけの誇りです。何の役にも立ちません。そ
ればかりか、神さまのご栄光を盗む罪の芽 にさえなりかねません。
 神さまはへりくだった人を選ばれます。へりくだるということは自分に死んで
いるということです。へりくだっていないと、神さまのある声は聞くこ とがで
きません。働きの根底に、自分を喜ばせたい、誇りたい、という思いを持ちなが
ら、なおかつ神さまに仕え、栄光を神さまにお返しするというこ とはできない
のです。
 神さまに謙遜を祈り求めましょう。神さまもまた、忍耐を持ってこれを助けて
くださいます。ヤコブの手紙にはこう書かれています。「神は、高ぶる 者を退
け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(4章6節)人はその誇りとするもの
によって人生が変わります。へりくだり、神さまの豊かな恵みを 受けて歩んで
いきましょう。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2014年4月13日号(第775号)より転載—

2014年4月5日土曜日


やもめ
 私の母は56歳にして夫に先立たれ、やもめとなりました。人生の山を越え、静
かに余生を送るはずでしたが、神さまの計画は異なりました。「この 者はこれ
からが人生の本番を迎える」と神さまは語られました。
 母はやもめとなって20年になります。この間、第二の人生の中で母は牧師とし
て立てられました。鳴門で生活している母は地下鉄が苦手で、上京す る際には
いつも迎えが必要でした。それが煩わしくて神さまに祈ると、母が地下鉄どころ
か世界にまで出て行くと語られました。
 そしてその通り、今日出発したアメリカの海外宣教チームにも加わり、渡米し
ていきました。帰りには国際便の飛行機から成田空港―羽田空港と移動 し、羽田
に一泊。翌朝一番の飛行機で徳島に帰り、すぐに礼拝のご奉仕を取り次ぎます。
こんな過密なスケジュールを76歳の母は1人でこなしている のです。しかも病
を持ちながら。確かにこんな人生が来ようとは思いもよりませんでした。
 詩篇8210節に、「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」
と書かれています。
 母がイエスさまから人一倍多くの、恵みと助け、癒やしを受けたのは、人一倍
イエスさまに求めたからだと思います。まず、求めることが奇跡の一歩 となり
ます。大きく口を開ける者は多く受けます。少ししか求めない者は、少ししか神
のみ業を見ません。
 やもめになったら、その望みは全能の父なる神以外にありません。ですから神
ご自身もまた、やもめに安らぎを与え、やもめの権利を守ってください ます。
神は真実です。私たちもまた、大きく口を開いて、神の恵みを受けましょう。
  (イスラエル北野)

 


み声新聞2014年4月6日号(第774号)より転載—