2017年7月28日金曜日

結 婚
 かつて、某さんの所に預言者が来た時、預言者が言いました。四方の壁から「結婚、結婚」という声がする、というのです。大当たりでした。
 彼は、少年のころから結婚を祈っていて、それはもうかなりの年月になっていました。部屋の壁に染み入るほど熱心に求めていたのです。
 人が思うよりはるかに待たされ、試され、そしてついに某さんに約束の成就の時が来ました。今では美しい奥さまと3人のお子さんに恵まれ、幸せに暮らしており、神の祝福を見ています。
 私は結婚のために祈ってほしいと、よく人から頼まれます。体験から言えば、結婚は、導かれているならば、「時」が来たら、すんなりと収まるべきところに収まります。案ずるには及びません。
 また、人生は、結婚だけが選択肢ではありません。さまざまな生き方があり、それを決めるのもまた自分です。とはいえ、ソロモンの書いた伝道者の書には、「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ」(4章9節)と書かれており、結婚は大きな祝福です。
 マルコの福音書10章でイエスさまはこう語られました。「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです」(6~8節)
 今は、同性婚が認知されていますが、聖書から見ると、結婚は前述のように、1人の男と1人の女によって、神の導きと両性の合意のうちに認められるものであり、聖書は同性婚を決して認めてはいません。
 結婚の奥義は2人のものがもはや1人であるという神の宣言にあります。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(9節) (イスラエル北野)


み声新聞2017年7月30日号(第947号)より転載—


2017年7月21日金曜日

圧倒的な勝利者

 クリスチャンになって、本当に驚くのは、自分の人生を顧みて、悪い事というのが無くなってきたということにあります。
 以前の私は、問題だらけの人間で、人生は暗く重いものでした。
 しかし、イエスキリストをわが主として救いにあずかり、さらに「すべてを感謝する」という教えを通して、今や、たとい何であろうと、「それだけで不幸」だというものは世には無いのだという確信を頂いています。
 私たちは神さまに深く愛されています。しかし、病気や事故など、なぜこんな事が許されるんだ、ということが世の中には数多くあります。けれども、神はそれをことごとく益と変えられます。
 ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書かれています。
 さらに同35節から37節には、こう続きます。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。私たちを愛してくださった方とは、もちろんキリストのことです。
 こういう訳で、どんな問題にあっても、死であってさえ、私たちは恐れるに足りません。ダビデは詩篇で、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」(23篇4節)と歌いました。主はどこまでもあなたと一緒に歩んでくださいます。イエスを信じる私たちは、あらゆる場面において圧倒的な勝利者であるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月23日号(第946号)より転載—



2017年7月14日金曜日

偶  像 
神は、モーセを通してイスラエルに十戒を与えられました。その第2戒は、偶像に関するものでした。出エジプト記20章4、5節には次のように書かれています。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。(中略)それを拝んではならない。それらに仕えてはならない」
 偶像礼拝は、神が嫌われるものです。というのは、全て偶像は人が勝手に造ったものであって、それは偽りの神だからです。そのむなしさに関しては、イザヤ書44章をお読みください。
 偶像を造ったのは人です。真の神は唯一の創造主であり偉大であり、世界も神をお入れすることができません。その栄光をむなしいものとしているのが偶像です。
 19節にはこう書かれています。「彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない」
 ここでいう木の切れ端というのが「偶像」です。生ける真の神がおられるのに顧みようとはせず、自分が暖まった、あるいは調理に使った木々の残りで像を造り、その像を勝手に礼拝しているのが、偶像礼拝の実情なのです。神さまの怒りはもっともだと思いませんか。
 生ける神に引き換え、偶像の神々は何の力もありません。何もできません。偶像の神は、お世話をされなければ移動することさえもできません。こんなものが救いや力になるでしょうか。
 しかし、真の神はイエス・キリストを通して、ご自身を現されています。この方こそ主であり、私たちの救いです。
 むなしい偶像に心を留める者は、自分への神の恵みを捨てます。真の神、イエス・キリストを信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月16日号(第945号)より転載—


2017年7月8日土曜日


ふるさと
 ふるさと、という言葉に、私は甘く切ない思いを抱きます。これは私に限ったものではなく、人が等しく持つ感情のようです。昔から多くの詩人がふるさとを詠みました。
 有名なところでは、「ふるさとは 遠きにありて思ふもの…」と書いた室生犀星で、石川啄木も『一握の砂』でこう述べています。「ふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」。
 私は18歳で上京するまで、四国の鳴門で生まれ育ちました。瀬戸内の穏やかな海と雄々しい太平洋の黒潮が混じり合う鳴門海峡の海の青さと、それを映す空の青さは、私の根っこにある原風景で、私の地上のふるさとはそこにあります。
 その上にクリスチャンである私は、もう一つのふるさとがあります。それは天国、天の故郷です。
 イエス・キリストを救い主として信じるようになった私は、自分が死んだら天に迎え入れられるのだということを知っています。
 ヨハネの福音書14章でイエスさまは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(18節)とも、「私の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(2節)と語られました。
 それにしても、一体ふるさとの何がこんなに懐かしいのでしょう。思うに、人の心には、真のふるさとである「天」に対する思いがもともとあって、その思いが地上のふるさとに対する思いと重なっているのではないでしょうか。
 地上での歩みは仮の人生です。終わりがあります。しかし、主イエスを信じるなら、私たちはまことの天に迎え入れられ、神とともに永遠という時間を過ごすようになります。天国こそ、私たちの永遠のふるさとです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月9日号(第944号)より転載—

2017年7月3日月曜日

 聖書にハンナという女性が登場します。彼女はエルカナという人の妻でした。しかし、エルカナにはもう1人の妻がいました。ぺニンナといいます。ぺニンナには子どもがいましたが、ハンナにはいません。主が彼女の胎を閉じておられたからです。でも夫エルカナはハンナを愛しており、ハンナには特別の受ける分を与えていました。
 それを知っているぺニンナはハンナを憎み、ハンナが子のことで気をもんでいるにもかかわらず、それをひどくいら立たせるように仕向けました。このため、ハンナは泣いて食事をしようともしませんでした。
 募る憂いにハンナは主の宮に行き、「主に祈って、激しく泣いた」、こう聖書は書いています(サムエル記第一1章10節)。
 そして祈りの中で、ハンナは誓願を立てました。彼女は「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め」「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」(11節)。こう祈り得たのです。彼女の顔は、「もはや以前のようではなかった」(18節)と言います。
 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、家へ帰って行きました。主はハンナを心に留められ、ハンナはみごもり、男の子を産みました。その子こそ、イスラエルの代表的な預言者サムエルです。
 神さまはハンナを愛しておられ、この先イスラエルにとって非常に重要な人物を、ハンナの祈りを通してイスラエルに与えられました。
 私たちもまた、ハンナのように募る憂いやいら立ちに苦しむことがあるでしょう。このような時には、全ての事について感謝して、心を注ぎ出して祈りましょう。その祈りはあなたの人生を変え、また世界を変えることになるかもしれません。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月2日号(第943号)より転載—