2014年1月28日火曜日


この上ない喜び
 伝え聞いたある牧師夫妻の話です。奥さんがジョージ・ミュラーの伝記を読ん
で強く影響を受け、生活の全てを主により頼もうと決心されました。教 会(教
団)からの給与を断り、神さまにすべてを頼る人生をスタートさせました。
 ところが、と言うべきかやはりと言うべきか、その道は厳しいものでした。
「お前がこんなことを始めたから」と夫に愚痴が出て、妻を責め、大変 だった
と聞いています。奥さんは何を言われてもひたすら祈っていました。
 そうこうするうちに、必要が満たされはじめ教会は大きく成長しました。 牧
師は興味深いことを語りました。「ここにくるまでの試練の中で、自分 は受け
るはずの学びと祝福を受けられなかった。ただ妻だけがそれを受けた」と。
 マルコによる福音書8章でイエスさまは「だれでもわたしについて来たいと思
うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来な さ
い」(34節)と語られました。
 十字架を負うことは私たちの選びによります。自ら負おうとする人を神さまは
選ばれ、負うべき十字架を示してくださいます。そして、祝福されるの です。
しかしながら、十字架の道から降ろそうとするサタンの試みもまた絶えずあるの
です。一時的でしたが、先ほどの牧師もまた、本人が述懐すると おり、その一
例と言えるでしょう。
 ヤコブの手紙1章2節には、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上も
ない喜びと思いなさい」と書かれています。試練の先にははかりしれな い特別
な祝福があります。それを見失うことなく、試練をこの上もない喜びとしていき
ましょう。               (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年2月2日号(第765号)より転載—

2014年1月23日木曜日



 以前、知人が興味深いことを語りました。子どもを持つ前は、お菓子を頂く
と、真っ先に一番良いものを取っていたのに、今では子どもに優先権を譲 るん
だそうです。親になるってこういうものなのですね。わが子のためなら、たいが
いのことは忍べるのです。
 父なる神さまも同様です。私たちに関心を抱き、私たちを愛しておられます。
 マタイの福音書1029章に、「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょ
う。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには 地に落ち
ることはありません」と書かれています。二羽の雀のうちの一羽とはサービスで
ついてきたおまけです。ものの数にも入っていません。その雀 でさえ神さまは
心にとめてくださっていると言うのです。そして「あなたがたは、たくさんの雀
よりもすぐれた者です」とイエスさまは語られました。
 親は子のためならどんな犠牲を負うこともいとわないものです。父なる神さま
は、私たちの救いのために御自身のひとり子イエスさまをくださいまし た。ヨ
ハネの福音書3章16節にはこう書かれています。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは
御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ ためで
ある」
 神の御子とは、イエス・キリストです。2000年前、イエスさまがカルバリ
の丘で死んでくださったのは、私たちが滅びることなく、永遠のいのち を持つ
ために、神さまが支払ってくださった尊い代価なのです。このような大きな愛が
他にあるでしょうか。
 イエスさまを信じ、神さまの元に帰りましょう。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年1月26日号(第764号)より転載—

2014年1月15日水曜日


神の人
 30年も昔のことになりますが、日本のキリスト教界の重鎮であるA教会のI牧
師と、M教会のA牧師にいやしのために祈って頂いたことがありま す。
 I牧師はお医者さまで、祈るにあたって病名を言いなさいと言われたのです
が、そうとは知らず黙ってしまった私に、適切なみ言葉を示してください まし
た。それは、ローマ人の手紙8章32節です。「私たちすべてのために、ご自分の
御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっ しょにすべて
のものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」。これは、あなた
はいやされますよ、という意味の言葉でした。そしてこれ は、私の一生のみ言
葉となりました。
 また、A牧師は、目には見えないけれど、ここに神がいて、私が神に祈ると神
がなにがしかの働きをあなたになさるから、と前置きして祈ってくださ いまし
た。すると力が来、聖霊によって倒され、起き上がった瞬間、私は新しい人へと
変えられていました。
 この二人の牧師に共通するのは、神さまと心一つになっているところでした。
自らを聖霊の通りよき管として捧げ、起こるすべての栄光を徹底的に神 に帰し
ておられました。
 第二歴代誌16章9節にも、このように書かれています。
 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つ
になっている人々に御力をあらわしてくださるのです」
 神に栄光を帰す人を、神は選ばれるのです。私たちも、自分の栄光ではなく、
神さまの栄光のために働きたいと願うなら、神さまは私たちを選び、御 力を現
してくださいます。神に仕える人生ほど素晴らしい人生を、私は他に知りませ
ん。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年1月19日号(第763号)より転載—

2014年1月6日月曜日


お金持ち
お金の追求というのは誰もが持っている欲望の一つであると思います。ルカの福
音書12章に、ある金持ちの例話が記されています。
 彼の畑が豊作を迎えたとき、彼は「どうしよう。作物を蓄えておく場所がな
い」と思いました。そして、「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっ と大
きいの建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。(中略)たましいよ。これ
から先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べ て、飲んで、
楽しめ」と自分を祝福しました。
 これに対して神は、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去ら
れる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになる のか」
と語られました。
 せっかく蓄えたのに使わずに死ぬなんて愚の骨頂ではありませんか。金持ちの
安心は、守ってくださる神さまにではなく、お金や財産にありました。 お金さ
えあれば困ることがない。何でも通用する、それが彼の哲学でした。確かにそれ
は間違ってはいないでしょう。しかし、そこにはわながありま す。お金を愛す
る人は決してお金に満足しません。もっともっとと求めてきりがないのです。こ
うなればもはやそれはお金の奴隷です。
 詩篇49篇には「恐れるな。人が富を得ても。人は、死ぬとき、何一つ持って行
くことができず。生きている間、自分を祝福できても、自分の先祖の 世代に行
き、彼らは決して光を見ないであろう。人はその栄華の中にあっても、悟りがな
ければ、滅びうせる獣に等しい」(抜粋)と書かれています。 いくら豊かな人
でも、その人のいのちは財産にあるのではありません。神を恐れること、これが
悟りです。               (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年1月12日号(第762号)より転載—

2014年1月3日金曜日


喜びの人
 私が今まで出会った人の中で、一番輝いていた人はマーリン・キャロザーズさ
んです。マタイの福音書に「からだのあかりは目です。それで、もしあ なたの
目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければあなたの全身が暗
いでしょう」(6章22)と書かれています。マーリンさんの 目には喜びがあ
り、お顔はまさに光を放っていました。全身が明るく、あれほど喜びを抱いてい
る人を、私は見たことがありません。
 そのマーリンさんですが、著書『獄中からの賛美』によると、初めからこのよ
うな栄光を現す人物ではなかったようです。陸軍に所属し、車を盗み、 脱走、
連邦捜査局(FBI)に逮捕されたということを始めに、為替を用いた不正なビ
ジネスなど、若くて向こう意気の強い青年がやりそうな悪に、彼 もまた手を染
めていました。
 ところが、ある晩マーリンさんは、神の声を聞きました。「今晩、決心して、
私を信じなさい。もし今晩決心しないなら、手遅れになる」そう語られ て、そ
の声に応答しました。そこからマーリンさんは神さまと出会い、その人生は、
まったく新しくなりました。
 人はそうそう変わるものではありません。しかし、神さまとの出会いは人を変
えます。コリント人への手紙第二2章17節には次のように書かれてい ます。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いも
のは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
 神は、全てのことを新しくしてくださいます。あなたもまた例外ではありませ
ん。イエス・キリストを信じるなら、喜びに輝くようになります。神さ まとと
もにある人生の祝福をお受けください。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年1月5日号(第761号)より転載—