2019年11月27日水曜日

 死について

 伝道者の書でソロモンは「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがいよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(7章2節)と書きました。
 確かにその通りで、すべての人生には終わりがあります。死です。私たちは普段、死を意識しないで生きています。今日と明日は同じ、その先もずっと同じ。そこへ突然やってくるのが命の終わり、死なのです。
 先日、伯父が急逝しました。ガンと戦っていたのですが予期せぬ事故で生涯を終えました。思うに、人は病気だから死ぬのではありません。事故だから死ぬのでもありません。神が定めた命の時間が終わる時、死を迎えるのです。
 しかし、その時はだれも知ることはできません。ですから、人生に終わりがあることを知って生きることと、死者の中から最初によみがえられたイエス・キリストを、ご自分の救い主として心にお迎えすることは非常に重要なのです。
 イエスさまは死者の中から最初によみがえった方であり、死に打ち勝った勝利です。それ故、パウロはこう言いました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(55節)コリント人への手紙第一5章54節にも「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着る時、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」と書かれています。朽ちるもの、死ぬものというのは私たちのことであり、朽ちないものというのはイエスさまです。
 誰でもイエス・キリストの救いを信じる者は死からいのちに移っており、死はもはや私たちを支配することがありません。私たちは、死にあっても逃れ場があります。イエス・キリストを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月1日号(第1070号)より転載—

2019年11月20日水曜日

告発者  サタン

 あなたのことを本気で殺そうとしているものがいます。サタンです。こんなことを言う私は極端でしょうか。いいえ、本当の事なのです。
 かの世界でも、すごんでくるのは下っ端で、本当に怖いのはそんな様子をみじんも見せないトップだといいます。人当たりの良さと裏腹に根っこは残忍な破壊者であったりするのです。
 そもそも、サタンは神の敵という意味で、その頭は堕天使ルシファーです。彼は美の極みであり天使の筆頭でした。非の打ちどころなく神に仕えていましたが、ある時彼は自分が神になろうとしたのです。彼はすみやかにさばかれ、彼に付き従う天使たちとともに、天国を追われ、地上に落とされました。黙示録12章によれば、「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下った」(12節)と書かれています。
 サタンは私たち人間をねたみ、またひどく憎んでいます。やがては自分が燃える火の池に投げ込まれることを知っているので、1人でも多くの人間を救いから遠ざけたいと、とにかく神が愛している人間がねたましく、滅ぼしたくて仕方がないのです。
 こうして悪魔は世に下り、日夜私たちの罪を神に告発し、救いの道から私たちを締め出そうと働いています。神は聖(きよ)いお方で、原罪を持つ私たちは直接近づくことはできません。そこに目を付けサタンは罪を告発するのです。
 しかし、それに対して神さまは、解決をお持ちでした。私たちを贖(あがな)い、神の子としてくださるために、ご自身のひとり子イエスさまをくださったのです。
 イエスさまは神であられ罪のないお方です。私たちの罪を負って十字架で死に、3日目によみがえられ私たちを死や滅びから贖ってくださいました。イエスさまを信じるなら私たちは神の子です。神の元に帰りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月24日号(第1069号)より転載—

2019年11月13日水曜日

 

 先日、ネットを通して流れてきた天皇の即位祝賀パレードを目にした時よりこのかた、「祝福」について深く考えさせられました。神がくださる祝福とは、世のものではありません。
 箴言1022節には「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」と書かれています。神さまの祝福は無条件で人を富ませるものです。そして、分かち合えば分かち合うほど倍増していくものだと思います。神の祝福は、人の苦労によって得られるようなものではなく、神さまの一方的な恵みとして与えられるものだとも知りました。
 旧約聖書の申命記28章は、興味深い箇所で、神は民にご自分に聞き従うように語り、聞き従う人生における祝福と、聞き従わない人生ののろいを語り、祝福の人生を選ぶよう私たちに語られました。
 約束された祝福は、あらゆる側面に及びます。例を挙げると「町にあっても祝福され、野にあっても祝福され入るときも祝福され、出て行くときにも祝福されるあなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださるあなたのすべての手のわざを祝福される」等々で、聖書はこれでもかと言わんばかりの祝福を約束しています。
 新約時代に生きる私たちクリスチャンもまた、同様に主の祝福にあずかっています。上記の祝福ばかりか天の報いが私たちに用意されています。神に聞き従うことによる主の祝福は、私たちのいのちの日の限り私たちを追ってくるでしょう。
 こういう訳ですから、私たちは神に聞き従う人生を選びましょう。その報いは大きく、私たちに注がれる神の愛は無限です。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月17日号(第1068号)より転載—

2019年11月6日水曜日

 

 娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい(マルコの福音書5章24節)
 これは、イエスさまが、18年もの間長血を患いご自身によっていやされたある婦人にかけられたことばです。この女性は、医者からひどい目に遭わされて、お金も底をつき悪くなるばかりの病状に、頼るはもうイエスさまのほかありませんでした。お着物にさわることでもできれば、きっと直る、そう信じて群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの着物に触りました。するとたちどころに血の源が枯れてひどい痛みが消えました。
 イエスさまもまた、ご自分の内から力が出て行ったことに気づいて、誰が私の着物に触ったのかと問われ、群衆を見回しておられました。女性は恐れおののき、イエスの前にひれ伏し、自分に起こったことを余すことなく打ち明けました。それに答えてイエスさまは冒頭のことばをかけられたのです。何と慈愛に満ちたことばでしょう。
 さて、信仰とは何でしょう。ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と書かれています。
 長血の女性が受けたのは信仰によるいやしでした。彼女は、きっと直る(報いてくださる)と信じてイエスさまの着物に触れたのです。そして信じた通りになりました。
 信仰はあやふやなものではありません。あなたが信仰を持って神に近づくなら、神は、必ずその信仰に報いてくださいます。そしてそればかりではなく、喜んでくださいます。
 信仰はあなたを勝利に導く一筋の光です。私たちもまた、信仰によって神に近づきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月10日号(第1067号)より転載—