2018年9月26日水曜日

信仰の視点

 イスラエルの民が、約束の地カナンに着く前、神はモーセに告げて仰せられました。12部族からそれぞれ、部族ごとに1人ずつ族長を遣わし、カナンの地を探らせよ、というものです。その地は良い地か、民は強いか、調べて来なさいと偵察させました。
 40日がたって、彼らは帰ってきました。そして報告します(民数記13章)。「そこにはまことに乳と蜜が流れています」(最高の土地です)。「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく」「アナク(巨人)の子孫を見ました」(戦うなら私たちに勝ち目はありません)
 ヨシュアとカレブを除く10人の斥候が、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」と語ると、全会衆は、大声を上げて叫び、その夜、泣き明かしました。 しかし、ヨシュアとカレブは違いました。彼らは、自分の着物を引き裂いて、「地は、すばらしく良い地であった。もし、私たちが主の御心(みこころ)にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう」「彼らを恐れてはならない」と語りました(14章)。
 10人の斥候たちは、ヨシュアやカレブのような信仰を持ち合わせていませんでした。彼らは現状の判断が全てだったのです。
 それでは、信仰の視点を持つとはどういうことなのでしょうか。それは、神のことば、約束から物事を見ることです。申命記1章8節に、「見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している」と語られています。その地というのはカナンです。アブラハムの昔から、神はイスラエルにカナンを与えておられたのです。
 神の約束に立つなら、敵がどんなに強大でも、神によって勝利を得ます。神のことばに立ち、約束を握りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年9月30日号(第1009号)より転載—

2018年9月19日水曜日


 先日の北海道胆振東部地震で全道的に停電になり、夕方からは懐中電灯を用いました。しかし、電池の減りが心配で、ロウソクを使うことにしました。するとどうでしょう。たちまち温かな光が周りを照らしました。電池の光は武骨ですが、ロウソクの光はほっとするような柔らかな光でした。
 光は、神さまを表す語として、聖書の中では頻回に用いられています。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(ヨハネの手紙第一1章5節)とか、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネの福音書1章5節)という聖句が有名です。
 かれこれ30年になるでしょうか。父が食道静脈瘤(りゅう)破裂で死線をさまよったことがあります。夜中に病院に呼ばれ、父の枕元に立つと、私には、父を刈り取ろうとする悪霊どもがうごめいているように見えました。その悪霊は、「これ(父)は、私のものだ」と主張し、父のいのちを自分たちの取り分として持って行こうとしていました。
 でも、父にとって幸いであったのは、神のことばがあったことと、2人の娘がクリスチャンであったことです。
 私たちは前述の聖句、特に、ヨハネの福音書1章5節を告白して行くように導かれました。するとこの聖句は悪霊に対して驚くほど強力な力を発揮したのです。
 光は、闇を照らすものです。どれだけ暗黒な闇であっても、そこに光が置かれたなら、一瞬のうちに闇は消えます。主の勝利というのはこのように圧倒的なものです。これが神の戦いであり、また勝利です。父はこの後、イエスさまを信じて救われました。
 イエスさまは光です。どのような闇にも打ち勝たれます。イエスさまを信じ、光の子どもとなりましょう。神は勝利を現してくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年9月23日号(第1008号)より転載—

2018年9月12日水曜日

いと高き道

 2018年9月6日未明、突然の激しい揺れに目を覚ましました。北海道胆振(いぶり)東部地震でした。
 最大震度は7で、この地震で多くのライフラインが寸断され、今も不自由な生活を強いられている方が大勢います。
 ある人は「神がいるならなぜこんな事が許されるのか」と語り、別な人は「私は神を許さない」と言いました。試練に入ると、人はその理由を求めて、神に向かうようになります。
 ヨブもまた試練の人でした。1日にして財産と家族を失いました。しかし、彼は愚痴をこぼすこともなく、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)と主をたたえました。
 神が与えてくださるものだから、良い事も悪い事も等しく受けよう。そんな信仰を垣間見ることができます。何と素晴らしい告白でしょうか。
 コリント人への手紙第一10章に、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(13節)と書かれています。
 どんなにつらくても、どんな試練でも、神は私たちが耐えることのできないような試練は与えられません。必ず脱出の道が備えられています。
 後にヨブは、失ったものの2倍のものを神から受けました。神は義であり、全てにおいて神は正しいのです。
 なぜこのような試練が許されたのか。この問いに対する答えは時間がかかるかもしれません。また、知らされないかもしれません。しかし神は、必ずあなたにも脱出の道を備え、ご自身の義をもって、あなたを祝福し、いと高き方の道を知らせてくださいます。(イスラエル北野)

み声新聞2018年9月16日号(第1007号)より転載—

2018年9月5日水曜日

ボーンアゲイン

 学生の頃、主の恵みを頂き、私はボーンアゲイン・クリスチャンになりました。
 「ボーンアゲイン」という言葉は、最近でこそあまり聞きませんが、当時は頻繁に用いられており、新生体験とも呼ばれます。古い自分は死に、主イエスによって新しく生まれたというのがその意味で、神を知り、神に知られる者となりました。
 それは本当に「新しく生まれた」というにふさわしい体験で、今まで見ていたものは何だと思うほど世界が生き生きと目に映り、心の内には大きな喜びがありました。
 コリント人への手紙第二5章には「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです」(1718節)と書かれていますが、まさにこのみことばが実現しました。
 神の前にきよくありたい、主に喜んでいただきたい、と早くも心は聖霊に満たされて、改心が導かれます。
 そういえば、私たちが敬愛するマーリン師は、『獄中からの賛美』の中で、不正で得た為替を処分したくて、ちぎってはトイレに流し、その度に大きな喜びに満たされたことを書いておられます。
 また、ある方は電車でキセルを行っていた罪が示され、改心に導かれ、キリストが与えてくださる喜びの故に駅の事務室に行き、キセルで不正使用したお金を置いてきたといいます。
 聖霊さまを心にお迎えすると、私たちは世の者から神の国の住人へと移されているのです。罪を犯すことができません。
 神はあなたを愛しておられます。それ故、今日を救いの日としてあなたに手を差し伸べておられます。この手を握り返し、神の国の住人として、あなたも新しく生まれましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年9月9日号(第1006号)より転載—