2015年12月27日日曜日

四人の友人
 持つべきものは友、と言いますが本当にその通りです。
 マルコの福音書2章に、興味深い記事が記されています。イエスさまがカペナウムの家にいると知ると群衆が押しよせて、戸口の所まで立すいの余地がないほどまでになりました。
 そこに、ひとりの中風の人が四人の人に担がれてみもとにやって来ました。しかし、群衆のためにイエスに近づくことができません。そこで四人は、イエスさまのおられる辺りの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままイエスさまの前につり下ろしました。
 イエスさまは彼らの信仰をご覧になって、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と語られました。
  当時は、病は、罪の結果起こるという社会通念でしたので、イエスさまはいやしとともにまず罪の赦しを宣言されたのです。中風の人は四人の友の信仰によっていやされました。
 ハレルヤおばさんとして有名な韓国の崔子実牧師は、断食祈祷の一人者で、もはや断食ができなくなった方のためによく身代わり断食をすると言っておられました。四人の友もまたその行いによって中風の人の信仰の不足をおぎないました。
 いやしに関しては、いやされる信仰を持ちたいけれども、私には重過ぎるということもあります。しかし、あなたの信仰が不足しても、それを補い助けてくださる方がいます。神はみこころの内にそのような方まで備えてくださいます。たとい、そのような人がいなくても、神の恵みは海よりも深いのです。あなたを見捨てるようなことは決してなさいません。神がその友となり、私たちを助けてくださいます。
  神に信頼する者は失望させられることはありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月27日号(第864号)より転載—

2015年12月20日日曜日

信仰があなたを直したのです
聖書を読むとイエスさまは、さまざまな方法で病をいやされています。ことばをもっていやされた時があれば、水腫の人は抱いていやしてやりました。
 その中で、マルコの福音書5章の長血を患った女のいやしは、群を抜いて素晴らしいものです。そこに私たちも共有できる信仰を見たからです。
 女は、12年の間長血を患っていました。多くの医者からひどい目に会わされて、持てる物を皆、使い果たしてしまいましたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。
 そんな中、彼女はイエスさまのうわさを聞きました。そして、いやしがなされていると知ると、イエスさまに心を定めてあらん限りに望みました。そして、ついにイエスさまのお着物に触ることでもできれば、私はきっと直る、と信じきるに至りました。
 それで女は群衆の中に紛れ込み、後ろから意を決してイエスさまの着物に触りました。すると、すぐに、血の源が枯れてひどい痛みが直ったことを、体に感じたのです。
 イエスさまもまた、自分の内から力が外に出て行ったことに気付いて、その人を探しました。女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスさまに真実を打ち明けました。
 イエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(マルコの福音書5章34節)と祝福してくださいました。
 長血の女は、決して特別な人ではありません。誰でも、信仰をもってイエスさまにすがるなら、同じ事が起こります。信仰は原則です。イエスさまを信じ、その恵みにより頼みましょう。イエスさまにはおできにならない事は一つもありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月20日号(第863号)より転載—

2015年12月13日日曜日

いと高き道
 イザヤ書55章に、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)という一文があります。
 かつて、フィリピンの刑務所で起こった殉教事件の前夜、説教者は殉教に応答する招きをしました。この招きは説教者の意思を超えた、聖霊に導かれたものでした。決意をもって前に出てきたJ姉を含む5人の者が翌日銃撃戦の中で、天に帰って行きました。この時、多くの者が嘆き悲しみました。しかし神は、これは殉教だ、と語られました。前日のことばは、その備えでした。
 先週2人の牧師が病気で召天しました。あっという間の展開に驚き、また胸を痛めました。泣きたかったですが、先のイザヤ書のみことばがそれを止めました。ことを理解するには時間が必要でしょう。また、人の頭では一生理解できないものかも知れません。ただ、愛する主、愛なる父がそれを許されたということ故に、これが最善だと知るのです。
 地上の命より大切なものは、永遠のいのちです。イエス・キリストを信じるとき、私たちに御霊が与えられ、永遠のいのちを頂きます。それは、私たちが死にいく時も、主は私たちとともにおられ、天で永遠に生きることを約束するものです。
 私たちの地上での命は限られています。こんな当たり前のことさえ、私たちは日々の労苦の中で忘れて過ごします。その刈り取るものは何でしょうか。しかし、人には皆、使命があるのです。イエスさまを信じ、この使命を全うしましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月13日号(第862号)より転載—

2015年12月7日月曜日

まっすぐにせよ
 
年末に向けて、私の家の近くの通りでは道路を直す工事をしています。アスファルトを剥がしむき出しになった砂利道を、ゆっくりゆっくり進むのですが、デコボコ上下に揺れて、思うように前に進めません。せっかくの車も道が悪いと本領を発揮することができないのです。
 その時思い返したのは、ルカの福音書3章の聖書のことばです。そこには「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」」と書かれています。
 荒野で叫ぶ者の声というのは、バプテスマのヨハネのことです。ヨハネは、イエス・キリストの初臨をお迎えする道を備えました。彼は人々に、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを授け、こうしてイエスさまの来られる道を備えました。
 それから約二千年がたち、教会に「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」とことばが下りました。前回は初臨ですが、今回はイエスさまの再臨をお迎えする道備えがなされようとしているのです。恐らくそれは、私たちが生きている時代か、そう遠くない未来です。イエスさまは再び来られます。主の通られる道をまっすぐにせよ、ということばは、どのようにして実現するのでしょうか。
 箴言3章に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(5、6節)とあります。 「主により頼む」つまり、主に言われたことを行うこと、です。
 どのような状況にあったとしても、そこに主を認め、主により頼むなら、その時、神ご自身が私たちの道をまっすぐにしてくださるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年12月6日号(第861号)より転載—

2015年11月29日日曜日

 
 「命短し恋せよ乙女」という歌があります。50の峠を越えて私も、今ではこれに同感です。娘たちにはぜひ人生の中で恋を知ってほしいと思います。その切なさや喜び、つらいことなど、恋を知って人は大人になって行きます。
 一番つらいのは、失恋です。失恋は自分の全てが否定されたように感じるものです。私も自分の気持ちをどこに持ってゆけばよいか分からなくて、苦い涙をこぼしました。
 でもね、やがて涙は枯れ果てて、新しい出会いがあるのです。この点で、あなたはイエスさまを信頼できますか。
 私たちがまだ若かったころ、教会に失恋した女の子が来ていました。彼女は恋人と別れて、悲しみに打ちひしがれていました。相手を愛おしく思うその思いが、突然行き場を失ったのです。私たちはどう慰めればよいのか、見当もつきませんでした。
 愛を失うことは寂しいことです。牧師はその女の子にこう語りました。「あなたが彼を愛するように、イエスさまはあなたのことを愛しておられるのですよ」この言葉は彼女の心に触れました。失恋したとはいえ、愛を知っていたから、イエスさまがどんなに自分を愛してくださっているか分かったのです。彼女は慰めを受けました。
 皆さんは、イエスさまがあなたのことを愛してくださってるという話を聞いたことがありますか。その愛は真実で、命をも厭(いと)わぬものでした。イエスさまは、私たちを救うためカルバリの十字架で命さえも投げ出し、私たちが神に帰ることができるように贖ってくださいました。その痛み苦しみは、私たちのために味われたものなのです。イエスさまはそれほどまでも、あなたのことを愛しておられます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年11月29日号(第860号)より転載—

2015年11月22日日曜日

世界の終わり
 日中国交正常化からまもなくして、修学旅行で中国に行きました。そのころの中国は、行きかう人は皆、人民帽に人民服で、おびただしい数の自転車に町は覆われ、蛇腹でつながった2両編成のバスが通りを走っていました。
 2度目に訪れた時、町は自動車であふれかえっていました。建設ラッシュで、王府井がおしゃれに生まれ変わっていました。人民服を着ている人はおらず、ジーンズをはき、ウオークマンを聴き、私たちがよく利用するファストフード店が通りに並んでいました。
 世界は今、一つになろうとしています。資本主義でも共産主義でもない、グローバルな新しい世界秩序が生まれようとしているのです。しかし、そのためには、単一の文化を土台とすることが必要です。中国で起こった変化はこれを裏付けるものです。
 マタイの福音書24章7節には、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり…」と書かれています。この終わりの時代、民族意識はあらたに高揚し、戦争は勃発します。そして、それらを治める強力な指導者が台頭してきます。それが反キリストであると言われています。彼は、民族の垣根をとっぱらい、単一国家の道を押し進め、自分こそ神であると宣言します。
 そして、彼を助けるのが偽キリストです。偽キリストは、宗教を一つにまとめ、世界秩序の構築に力を貸します。
 グローバリズムのシナリオはもうできています。日本もその中に入れられています。日本は先祖たちが守り培ってきた良きものを手放してしまいました。これから患難がやってくるでしょう。しかし私たちの希望はイエスさまの再臨にあります。主の通られる道を真っすぐに備えましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年11月22日号(第859号)より転載—

2015年11月19日木曜日

サクリファイズ
 幼少のころから霊の世界に触れていた私は、思春期になると妄想上の人物を友とし、また母とする妄想の世界に耽溺しました。特殊な体験ですが、かえってそれがキリストを知るという特権にあずかることとなったのは主の恵みです。なぜなら、イエスさまが私に何をなしてくださったのか、身をもって体験したからです。主は「捕われ人に解放を、囚人には釈放を」(イザヤ書61章1節)告げてくださいました。
 霊の世界は契約の世界です。妄想上の人と私は契約の下にありました。神に捨てられた者同士、決して互いを裏切らないと誓い合っていたのです。
 しかし、私は主の恵みによって救いにあずかりました。すると妄想の人は昔の契約を持ち出し、私に命を求めてきました。
 考えすぎだ、友人は皆そう言いました。しかし、たった1人、牧師さんだけが、事の深刻さを理解してくださいました。
 牧師さんは興味深い話をしてくださいました。霊の世界はギブ・アンド・テークで、霊から益を受けたなら見返りは求められる。その代価が命なら、死ななければならない。だから自殺を思うのはもっともだ。しかしね、それはね、北野さんの命でなくてもいいんだよ。敵(サタン)は命でありさえすれば、誰の命でもいいんだ。イエス・キリストはそのために十字架で死んでくださいました!
 この瞬間、私は全てがふに落ちたのです。イエスさまは救い主です。私の死ぬべき負債をご自身のからだによって贖ってくださいました。その尊き犠牲により、古い契約は無効になり、神の救いは完成しました。
 私は、神の子として新しい契約を結びました。そして完全な解放を受け、今に至ります。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年11月15日号(第858号)より転載—

2015年11月8日日曜日

霊の世界
 知らないということは恐ろしいことで、子どものころ、よく「こっくりさん」をして遊びました。また、占いが大好きでタロットやカードに夢中になり、霊の世界に深く踏み込んでいました。催眠術をかけるということもあり、1人の女の子が頭に手を置いたまま動けなくなってしまいました。この事は小学校の職員会議にまでのぼって厳重な注意を受けました。
 私の家系は、代々口寄せや霊媒に親しんできたので、私も自然に霊的なものに深入りしました。しかし、それらは後にさまざまな病の発症に至らせました。特に精神の病のあるものは、こういった悪霊の関与によるものが予想以上に多いのです。どうすればよいのでしょうか。
 ヨハネの手紙第一4章では次のように書かれています。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい(中略)イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」(1、3節)
 霊は神からのものと、悪霊から来るものと二つがあり、イエスを告白しない霊はみなサタンから来たものです。
 サタンは私たちを憎んでいます。やがて滅ぼされるサタンは、1人でも多くの人を自分と同じ滅びに追いやろうと働いているのです。しかし、案ずるには及びません。同3章8節には「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」と書かれています。
 イエスさまは、あなたをサタンから取り戻すために世に来られました。あのカルバリで十字架にかかって死んでくださったのは、私たちを贖うためです。それ故、神の元に立ち返りましょう。神は私たちを御子の自由の中に入れてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年11月8日号(第857号)より転載—

2015年10月31日土曜日

 
 年度末になりました。本年度のみことばは、「あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである」(出エジプト記3410節)というものでした。果たしてその通り、病のいやしにおいて恐るべき主のわざを見ました。
 末期がんの宣告を受けた方々の身にがんが消えたという不思議や奇跡が次々と起こりました。また、あっちでもこっちでもがんにかかった方が大勢いました。これは、信仰の助けを得やすい環境となりました。自分のがんも良くなるかもしれない、と信仰を持ちやすいのです。
 しかし、逆もあります。他の人はいやされても自分は駄目じゃないか、と不安に思うのもまた人間です。信仰でいやされるものなら私も、と信仰を搾り出そうとしますが、にわかに出てくるものでもありません。こんな葛藤は、誰もが通ります。信じ切れない人、信じることに臆病な人、はなから諦めている人もいます。
 マルコの福音書9章に悪霊につかれた息子を持つお父さんが出てきます。イエスさまに助けを求め、「もし、おできになるものなら、お助けください」と言いました。すると「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。イエスさまは一喝されました。お父さんはもう叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」
 もちろんイエスさまは、いやしてくださいました。信仰は神さまからの恵みです。信じることが必要なら、主は信じさせてくださいます。そして、あなたのその戦いを勝利へと導き、栄光を現してくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年11月1日号(第856号)より転載—

2015年10月26日月曜日

まことのいのち
 人生で、最も大事な事は、やがて私たちは等しく死ぬのだということを知っていることです。ソロモンも、「伝道者の書」で「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(72節)と書きました。
  30年以上前のことですが、洗礼を受けられた社会人の男性が、興味深い証しをしておられました。男性が受洗に導かれたのは、ある聖書のことばが心に触れたからだといいます。それはマタイの福音書1626節で、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」というものでした。
 たとえ全世界を得ても、人は自分の生き死にすら自由にすることができません。神さまにとっていとも小さな事でさえ自分には思い通りにならない、それを知った時、彼は主イエスさまに出会いました。
 どんなに成功しても、よしんば全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたなら、全ては終わりです。その代価として、差し出せるようなものは私たちにはありません。
 イエスさまは、私たちのいのちを永遠に買い戻すために、定められた時に世に来られ、十字架にかかって死んでくださいました。こうして主は、私たちの贖いを完成されました。このイエスキリストを主として、心に信じ、口で告白するなら、あなたは救われます。キリストにある者となり、永遠のいのちにあずかることができるのです。それ故、あなたもまた、イエス・キリストを信じましょう。イエスさまは、私たちの希望です。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月25日号(第855号)より転載—

2015年10月17日土曜日

栄光のからだ
 ピリピ人への手紙321節に「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と書かれています。栄光のからだとは何でしょう。
 それは、復活の際に与えられるよみがえりのからだです。この栄光のからだはイエスさまの身にまず起こり、次いでイエスさまを信じた聖徒たちに与えられます。コリント人への手紙第一15章にはこう書かれています。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ(中略)血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(4244節)
 こういう訳で、キリスト・イエスにつく私たちは、死んでもよみがえりのからだを頂き、やがて主の日に復活します。私たちには、死を超えた先にまで望みがあり、死んで終わる血肉のからだを脱ぎ捨てて、復活のからだを頂いて、永遠という時間を主と共に過ごすようになります。
 幼少のころ、歯の生え替わりを迎えました。ぐらぐらする歯が抜けると、表に出て「スズメの歯より早くはえろ」と唱えて乳歯を空に向かって投げました。私の故郷の慣わしです。
 復活のからだを頂くことはこれと似ています。初めに出てくるのは乳歯ですが、やがて永久歯に生え替わります。乳歯が必ず永久歯に生え替わるように、イエスを信じる私たちは、死にますが、もはや決して死ぬことのない復活のからだ、栄光のからだを後に受けるのです。
 イエスさまはよみがえりの初穂です。イエスさまを信じましょう。私たちにもまた、栄光のからだが備えられているのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月18日号(第854号)より転載—

2015年10月11日日曜日


 このところ、旭川ではゲリラ豪雨が続いていて、雨上がりに、虹を見せてくださいと祈りました。すると、うっすらと空に虹を認めることができました。もっとくっきりした虹を見たい、と、これまた願ったところ、見事な虹が眼前に現れました。光を放つ二重の虹で、きれいなアーチを描き、虹の根っこが大地の上に立っているところまで見えて、主をあがめました。
 しかし、ある方々は、こうして私たちが虹に反応することをけげんな顔をして見ておられます。もちろん私たちは虹を信仰しているのではありません。虹を拝んでいるわけでもありません。
 虹の由来は創世記9章にさかのぼります。神は、ノアの箱舟に乗って地上に訪れた大洪水から助かった、ノアとその家族、地上のすべての肉なるものと契約をお立てになりました。
 13節に、「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」と書かれていて、これが虹の由来です。虹は、神さまと地上のすべての肉なるものとの間に立てられた契約のしるしなのです。
 私には忘れ得ない虹がいくつもあります。イスラエルのオリーブ山での虹、虹のアーチをくぐり抜けた北海道の虹、見えない角度にもかかわらず出現した病院での虹、飛行機で見た、雲の間にあった数十個の虹、などです。
 元気のない時、虹の出現で持ち直したことは数知れず、虹は言葉以上に私を強めてくれました。虹を見る度に「私がともにいる、これでいい、大丈夫だ」。神さまが、そんなメッセージを与えてくださっているように思います。こういう訳で私たちは虹の出現に喜ぶのです。神もまた、応えてくださり、絶妙のタイミングで虹を下さいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年10月11日号(第853号)より転載—

2015年10月3日土曜日

私の結婚
 私には成年に達した未婚の娘が2人います。みこころの人と結ばれますように祈りつつも、紆余曲折あった自分のことを思い出します。
 結婚の転機となったのは、私が握っていたものを手放したことにあります。正直なところ、この人であってほしい、という人が私にもありました。ところがある時、猿の捕まえ方という題の説教をした牧師がいたのです。猿は握ったものを手放さないという習性があるそうです。それを使います。猟師はヤシの実に穴をあけて、石ころをつめて放って置くのだそうです。好奇心旺盛な猿は近づき穴に手を入れます。入れたらそこにある石を握るので、今度は手を抜こうとしてもできません。握った手を放せば助かるのに、それをしない猿は、後からやってきた猟師にやすやすと捕らえられるのです。
 これを聞いてゾッとしました。今握っているものを手放さないと神のものを受けることができないのです。
 あらかじめ自分の答えを持ちながら祈るのは、実は意味が無いことなのです。摂理から何から、物事がどんどんそういう方向に見えたり、聞こえたりしてきます。示してくださいと祈りつつも自分の声が勝ってしまうのです。このように、自分に死んでいないと神のものを峻別することはできません。
 これだけは私から奪わないでください、と祈っている人も時々おられます。しかしどうか聞いてください。神は悪人ではありません。あなたにとってそれが必要なことを、あなた以上に神はご存じです。奪うどころかむしろ得るように助けてくださるお方、それが神です。聖書には、こう書かれています。
 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37篇4節) (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月4日号(第852号)より転載—
ひとり子さえ惜しまず
 イサクは、アブラハムとサラの間に産まれた約束の子でした。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と神は語られたのです。アブラハムへの約束や祝福はすべてイサクが相続すると神は約束されました。
 にもかかわらず、神はアブラハムに「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と試練を許されました。イサクが死んでしまったら、神の約束は一体どうなるのでしょう。
 しかし、アブラハムは時を移さず語られた地に向かいました。到着すると彼は祭壇を築き、まきを並べた上にイサクを縛り、今ほふろうとしました。その時、主の使いが天から彼を呼び言いました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、私は、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(創世記22章参照)
 ひとり子さえ惜しまない、これはどこかで聞いたことばではありませんか。ヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。神さまもひとり子イエスさまをおささげになられたのです。
 神さまのひとり子とはイエスさまのことです。イエスさまは私たちが神さまの元に帰っていくことができるように、私たちの罪の贖いの代価としてご自身をささげ、十字架で死なれました。神はそれほどまでも私たちを愛してくださっているのです。そして神は復活のみわざのため、力を働かせ、御子を信じる者に永遠のいのちをくださるのです。イエスさまを信じましょう。(イスラエル北野)

 み声新聞2015年9月27日号(第851号)より転載—

2015年9月20日日曜日

祈り手
 アメリカに、短い期間で一気に信者数が1000名を超えた教会がありました。牧師夫妻は成功した人としてマスコミにもてはやされました。
 ところが、あるところから急に教会の勢いが鈍くなってきました。飛ぶ鳥を落とす勢いで何をやっても成功しましたが、そうもいかなくなってきたのです。何があったのでしょう。
 実はこの教会には、そのころ天に召された、祈り手がいたのです。ルカの福音書2章に、アンナという女預言者が昼も夜も、断食と祈りをもって神に仕えていたという記述があります。このような隠れた祈り手の祈りが教会の働きを支えていたのです。
 さらに、詩篇115篇1節にはこんなことばが書かれています。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」
 ある教会が古くなった会堂を解体していたところ、隠れた所にこの言葉が書かれていました。そこには一体どんなドラマがあったのでしょう。
 神の前には有名も無名もありません。神の心をわが心として生きてきた祈り手こそがまず神の称賛を受けるのです。神の隠れた戦士たちは、教会の破れ口に立って日夜とりなしています。このような隠れた働き手こそ、神の前に覚えられているのです。
 ジョージ・ミュラーは、早朝の祈りの中で天に召されました。彼の人生を証しする最高の祝福だと思います。神の評価は人の評価とは異なります。あなたが神に用いられる時、誰かの、隠れたとりなしに助けられてのことかも知れません。それゆえ、私たちはへりくだりましょう。そして神を恐れることを学びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年9月20日号(第850号)より転載—

2015年9月12日土曜日

愛の化学反応
 今は天に帰られたA牧師は、自分は化学畑の人間だとよく語っておられました。また、A牧師はおちゃめなところがおありで時々秘密の話をしてくださいました。教会には、いろんな人が来ます。ある人はフラスコ、かの人はビーカー、別の人は試験管であって、おのおの何がしかのものが入ってるけれども、そこにイエスさまの愛が注がれると、化学反応のように変化が起こり、まったく別なものに変えられてしまうんだ、と教えてくださいました。ビーカー、フラスコ、とは、人の体型を指して分類されているようで、私は三角フラスコでした。
 小学生の頃、一年の目標を書いて提出する宿題がありました。よい目標を立てられても、実行するとなると長続きしません。この辺りから挫折というものを知るようになり、人はそうそう変わるものでない、これが私の人生哲学となりました。
 ところが、先ほどのA牧師の話のように、イエスさまを信じると化学変化を起こすのです。変わるはずのない者が、180度別人に変わるのです。
 ある時、某国の宣教師となったSさんから話を聞きました。Sさんはどうしようもない学校のどうしようもない連中の最たるものだったと言います。しかし、三浦綾子さんの『塩狩峠』を読んだことによって彼の人生は一変しました。キリストに人生をささげ、英語、現地語、を学びきり、目的を持った彼はもはや過去の彼ではなくなりました。
 このように、キリストとの出会いは人を変え人を動かすのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント人への手紙第二5章17節) (イスラエル北野)

み声新聞2015年9月13日号(第849号)より転載—

2015年9月5日土曜日

合衆国の衰退
 黙示録を研究する中で、超大国のアメリカ合衆国を指してるような国が出てこない、これは私たちクリスチャンの間では長年の疑問でした。しかし、今やそのことを類推することができる時代になりました。
 父なる神、そしてキリスト教信仰は、多民族国家である合衆国を一つにまとめてきた結びの帯です。しかし近年、他宗教に配慮することが言われ、公立学校で主の祈りを祈らなくなりました。これはほんの一例で、先日はついに同性愛・同性婚を認めるという法律ができました。聖書は同性愛・同性婚を否定しています(ローマ人への手紙1章参照)。
 しかし、神を持たないヒューマニストたちは、互いに相手を認め合うことを尊重するあまり、同性婚を容認しました。聖書を土台としている国が今は聖書と真逆をいっていることは特筆すべき事柄です。
 創世記19章にも、同性愛の記述があります。アブラハムのおいであるロトはソドムに住んでいました。ある日の夕方、ロトは2人の御使いを家に迎えました。夜になると町中の人たちがやってきて、「今夜おまえのところにやって来た者たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」と言いました。ソドムは、ホモセックスによる罪に汚れた町でした。そしてその罪は、天にまで達していました。主は硫黄の火を天から降らせ、ソドムの町を滅ぼされました。
 神を恐れましょう。いつまでも罪がさばかれずに終わることはありません。必ず正しいさばきを迎えます。世にあっては正しい者は、憎まれ、ねたまれ、殺されます。ここに戦いがあります。だからこそ信仰に堅く立ち、信仰を守り通しましょう。主イエスは私たちの救い主です。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年9月6日号(第848号)より転載—

2015年8月29日土曜日

恐れに立ち向かう
 私の故郷では夕方6時の時報に「夕焼け小焼け」を流します。どこか物悲しいこのメロデイーが聴こえたなら、どの子も皆一斉に帰り支度を始めます。夕闇に追い付かれそうで、私も必死に自転車のペダルを漕ぎました。迫り来る闇が怖くて、クモの子を散らすように皆が一斉に家路に向かいます。
 恐れは、恐れるにつれ、倍々と増し加わる性質を持っています。恐れが次の恐れを呼ぶのです。こうして恐怖心は私たちの内側で急速に膨れ上がります。
 話は変わりますが、ギャングエージ期の夫は、冒険好きで活発な少年であったようです。ある時、常日頃よくほえて、子どもたちや夫人たちを怖がらせている犬に天誅をくれてやろうと一計を案じたそうです。犬の近くに寄り、恐れるような態度を見せると、いつものように犬はほえたけて近づいてきました。背を向け逃げると、調子に乗ってワンワン追い掛けてきます。十分に引き付けておいて、突然振り返り、拳闘の姿勢を取ったところ、犬は何と急ブレーキをかけて止まりました。そして、きびすを返して一目散に逃げ去って行きました。
 戦いにおいては決して敵に背を向けてはならないのです。北海道には熊が出ますが、鉢合わせた時には決して背を見せてはならない、と教わりました。
 聖書のエペソ人への手紙6章は、霊の戦いにおける神の全ての武具について言及しています。しかしそれらはみな立ち向かうための武具ばかりです。戦いは前進あるのみです。全て恐れに対しては立ち向かって行くことが大切です。立ち向かうなら、必ず敵はあなたの前で大敗します。そして神の勝利をみるのです。神があなたと共にいてくださるからです。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年8月30日号(第847号)より転載—

2015年8月22日土曜日

教会につながる
今となっては若気の至りですが、救われた当初私は18歳で、自分の信仰は強いものに見えました。
 ところが、ある日試練がやってきました。病気で長期入院するという事態になったのです。救われてこのかた、毎週の礼拝を欠かしたことはありません。しかし、入院となると礼拝に行くことはできません。いきおい一人で礼拝を守ることになってしまいました。
 人通りのない非常階段に行き、祈りから始め、聖餐こそありませんでしたが、賛美をし、献金をささげ、信仰書を読むことを説教とし、病床での礼拝を守りました。最初はそれで良かったのです。
 ところが3カ月くらいたったころから何やら雲行きが怪しくなりました。ご臨在が来ないのです。知らぬ間に好き勝手な礼拝になってしまい、最後の方はその形すらも曖昧で捉えることができなくなり、いつの間にか礼拝の実質から離れてしまいました。
 ヘブル人への手紙1025節には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と書かれています。
 いっしょに集まることの重要性をこの一節は教えています。自分独りの信仰はアップダウンするものですが、教会の礼拝や祈祷会は皆が集い、共に祈り、信仰を分かち合うので、信仰の不足も知らぬ間に増し加えられていきます。教会の恵みもそこにあります。
 幸いなことに今はIT社会になりました。ネットでの礼拝を守ることができる時代です。教会のカバーの下でネット礼拝も等しく同じ恵みにあずかることができます。これは大きな祝福です。教会につながることを求めてまいりましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年8月23日号(第846号)より転載—

2015年8月20日木曜日

がんから生還
 私の父は、肝臓がんで55歳という若さで天に召されました。それから二十余年、今度は母ががんになりました。そして母だけではなく、時を同じくして教会の何名かの方々に一斉にがんが許されました。
 もっとも困難な状況にある、と思われた方に至っては、お医者さんに、「第二の人生を考えてください、残念です」と宣告されました。医師がさじを投げたがんですが、祈りの手が上がる中で治療が功を奏し、がんは予想以上に縮小し、ついに手術で全てのがんを取り切ることができました。こうして彼女は末期がんから生還を果たしました。奇跡が起こったのです。彼女だけではなく、私の母を含めた全員がいやされ、なお、いやされ続けています。
 この背後には、教会によるとりなしの祈りがありました。ルカによる福音書には「神にとって不可能なことは一つもありません」(1章17節)と書かれています。神にはどんなことでもおできになるのだという信仰は確かなものであり、現状がどうであれ、私たちには主がその希望です。
 イエスさまは、宣教において多くの病人をいやされました。中には「失望するのがいやだから期待しない」という人もいるかもしれません。しかし、主はあなたにも等しく恵みを備えておられるのです。主は誰をも拒絶することはなく、むしろ、あわれんでくださいます。ローマ人の手紙4章18節に「望み得ないときに望みを抱いて信じました」と書かれています。この手のひらほどの信仰が勝利を生むのです。
 かつて、イエスさまがなさったことを、今は教会がそれを受け継いでいます。教会はキリストが満ちています。重荷を下ろして安きを得ましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年8月16日号(第845号)より転載—

2015年8月8日土曜日

逆転勝利
 この新聞が届くころ、私たちは長野県の白馬でキャンプを行っていることでしょう。会場となる「ホテルグリーンプラザ白馬」は、豪華なリゾートホテルで、部屋も食事もなかなか立派です。夫は、何回か他のクリスチャンのキャンプに行ったことがあるようですが、ここの施設は別格だ、と言っています。
 このホテルを見つけたのは、私たちの牧師です。その過程には興味深いものがありました。というのも、当時、教会の中で中高生のキャンプを担当していたスタッフの方が、熱心に探したにもかかわらず2週間前になってもキャンプの場所が見つからず、ついに牧師に泣きついてこられたのです。
 閑散期ならいざ知らず、中高生キャンプは夏休みの繁忙期です。スタッフの方々も探したには違いありませんが、やはり時期もあり見つからなかったのでしょう。時間的に今から探すのは不可能に近いものでした。
 牧師は祈り、主に聞き、キャンプを行うことに決め、場所を祈りながら探したそうです。牧師はホテル探しが得意だったこともあり、神さまはその特技を用いて最善の場所を与えられました。それが「ホテルグリーンプラザ白馬」だったのです。
 夏のキャンプが来るたびに、私はこのことを思い出します。そして、神さまによる一つの逆転勝利として学んでいます。聖書には「神は…試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(コリント人への手紙第一1013節)とあり、また「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ人への手紙8章28節)ともあります。
 皆さんの人生で許されるあらゆる問題、困難は益となり、祝福となります。イエスさまを信じましょう。そしてイエスさまに従いましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2015年8月9日号(第844号)より転載—
いと高き道
先日、夫が釧路に向かう途中、高速道路の縁石に乗り上げ、前輪右のタイヤがバーストしてしまうという単独事故を起こしました。数カ月前から、ずっと「事故」という示しがあって、乗るたびに祈っていました。対向車線に飛び込むことがなかったのが奇跡であったのですが、サスペンションがひどくゆがみ、保険屋さんを呼びました。
 保険屋さんは、修理は結構な値段になるので、安くて程度の良い中古車を探すのも手ですよと助言してくださいました。それで、ネットで見てみると良さそうな車が1台ありました。しかし、一度見てからでないと契約は危険なので、下見に行ったところ、思ったより傷んでおり、この車ではないと互いに意見が一致しました。
 程度の良い中古車というと、今、私たちが乗っている事故を起こした車が一番です。それで方針を変更して、買い替えではなく車を修理して使うのがみこころではないかと思いました。
 神さまは災いを最善へと変えてくださいます。保険屋さんは良い方で、小さな修理から大きな修理まで細かく見積もりを出してくれました。車好きの夫がせっせと修繕したところ、修理に出してなお残るお金がありました。保険屋さんに確認したところそれはご自由に使ってくださいとのことで、何とそれは祈っていた教会主催の白馬キャンプに行く費用となりました。
 イザヤ書に「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(55章9節)と書かれています。いと高き神のはかりごとは優れて高く、人知を超えて偉大です。たとえ何が起ころうとも、私たちは心を騒がす必要はありません。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年8月2日号(第843号)より転載—

2015年7月27日月曜日


買い戻し
 私が初めて悪霊が実在のものだったと知ったのは、30年ほど前のことです。その日、私は中央線に乗っていました。ある人の前に立った時、この人には邪悪なものが満ちている、悪霊がついているのではないか、と心の中で語った瞬間、その人の目と声が豹変し、「そうだ。俺がやったんだ」と口にしたのです。恐ろしくて逃げて来ました。
 とはいえ、私自身もまた、悪霊問題に苦しんだ者の一人です。思春期のころから妄想にふけり、妄想上の人物を母とし友とし、心を寄せました。妄想の世界が、サタンに属するものだとは知らず、知りもしない神を恨み、親に反抗し、罪に耽溺する毎日でした。
 詩篇49篇には、人は「自分の身代金を神に払うことはできない」「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」(7、8節)と書かれています。私たちは生まれながらの罪人であり、罪や死から解放されるために差し出すものなど、一つも持ち合わせていません。
 しかしこう続きます。「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される」(15節)。これは「買い戻される」というのがキーワードとなります。イエスさまが私たちに成し遂げてくださったのは、十字架による「買い戻し」です。罪に生まれて、サタンに縛られた私たちを愛し憐(あわ)れみ、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりになって、十字架で死んでくださいました。この、イエスさまの死こそ私たちの贖いの代価なのです。
 イエス・キリストを自分の救い主として信じ、また告白する者は、全ての罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。私たちは神の子とされ、サタンの縛りから解放されるのです。この福音を信じましょう。 (イスラエル北野)



み声新聞2015年7月26日号(第842号)より転載—

2015年7月18日土曜日

悪霊追い出し
 悪霊追い出し。多くの方にとっては、いかにもうさんくさく聞こえる言葉です。しかし聖書を見てみると、イエスさまは多くの病をいやされましたが、それと同じだけ多くの悪霊からの解放のみわざをなさっています。
 一口に私たちがいやしとして受け取っているものの中においても、病気が原因となっている病と、悪霊によって引き起こされた病があります。聖書はその二つを書いています。それが病ならいやしの祈りをすれば治ります。なかなか良くならない場合は悪霊の関与を考えてみる必要があります。
 マルコの福音書5章は、悪霊追い出しの記述で有名です。ゲラサ人の地にイエスが着くと、すぐに汚れた霊につかれた人が墓場から出て来てイエスを迎えました。彼はたびたび足かせや鎖でつながれていましたが、鎖を引きちぎり足かせを砕いてしまい、もはや誰にも彼を押さえるだけの力がありませんでした。
 しかしイエスさまが「汚れた霊よ。この人から出て行け」とお命じになったところ、霊は豚に乗り移り、200
0匹ほどの豚ががけを下り、湖でおぼれてしまいました。その人は、着物を着て、まったく正気になっていました。
 多くの人たちがこれを作り話しと読み換えますが、これは実話です。
 悪霊というのは現実です。しかし悪霊は身を隠します。ばかばかしい。悪霊なんて極端だ。そんな考えを私たちの頭に植え、気付き、いやされないように暗躍しているのです。全て病気には病気、霊には霊の対応が求められます。こういう訳で、私たちは教会に行き、霊の正しい知識を学びましょう。イエスさまの福音は、これらの問題も解決できるのです。
 
(イスラエル北野)


み声新聞2015年7月19日号(第841号)より転載—

2015年7月11日土曜日

サウルとダビデ
 聖書のサムエル記は、イスラエルの初代の王であるサウルと次の王となるダビデのことを中心に書かれている歴史書です。2人とも罪を犯しました。しかし、興味深いことに罪に対する2人の対応は大きく分かれています。
 サウルは、アマレクを聖絶せよという命令を主から受けていました。ところが彼は、惜しむ心を持ち価値のない物ばかりを聖絶し、良いものは取っておきました。主のみ声に聞き従わなかったその罪をサムエルに咎められた所、彼はこう言いました。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は(中略)私の面目を立ててください」(サムエル記第一1530節)
 一方ダビデの罪は、姦淫、殺人です。彼はウリヤの妻バテ・シェバを召しいれ、それを正当化するため夫であるウリヤを激戦区に送り、殺してしまいました。しかし預言者ナタンが来てその事を告げると、ダビデは即座に「私は主に対して罪を犯した」と告白しました。(サムエル記第二1213節)
 面目を立てることを求めたサウルにあったのは、人への恐れです。人々が自分から離れ去って行くことをサウルは恐れました。それに対して、ダビデにあったのは、神への恐れです。彼は主のみ前に自分が罪を犯したことを認めました。それで神もまた、神を恐れ悔い改めたダビデに預言者ナタンを遣わし「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」と語ってくださったのです。
 神さまは人の心の真実を喜ばれます。たといどんな罪を犯していても、神を信じ、悔い改めて神に立ち返るなら、神は豊かに赦してくださいます。私たちもまた、ただ神を恐れ、罪の赦しの恵みを頂きましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年7月12日号(第840号)より転載—

2015年7月4日土曜日

同性婚
 最近、同性婚を認める動きが急速に広がっています。特にアメリカ各州において顕著で、日本でも渋谷区がいち早く同性愛を社会的に認知しました。
 どうして、こんなおかしなことがまかり通るのでしょう。ローマ人の手紙1章にはこう書かれています。「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これらに仕えたからです。(中略)こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(2627節)
 これは同性愛に対しての聖書の見解です。聖書の昔から社会には同性愛が存在していたのです。これに関して聖書はどう語っているでしょうか。マルコの福音書には婚姻に関する奥義が書かれています。「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです」(10章6~8節)
 神は、人を男と女に造られました。そして、成年に達すると人は父母を離れ、一つになるべく婚姻を結びます。一心同体は、両性によって成るのです。一夫一妻婚こそ私たちが取るべき道だと思います。
 神を恐れましょう。ヒューマニズムは、互いに認め合うべきだと語り、同性婚を認知し支持しています。しかし聖書に照らし合わせてみれば、これはあってはならないものなのです。私たちは聖書に立ち返りましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年7月5日号(第839号)より転載—

2015年6月27日土曜日

エリコ
 初めてイスラエルを訪れた時、エリコに行き、そこで私は、発掘途中にあるエリコの城壁跡を見学しました。レンガや石のようなものがぎっしり積み上がり、柱のようになっていました。よほど大きい物なのでしょう。全容を見るにはまだまだ時間がかかりそうでした。
 旧約時代、神さまは、このエリコを含むカナンの地をイスラエルに下さると約束されました。時のリーダーはヨシュアです。彼は、カナンの地をイスラエルに受け継がせるという使命を受けていました。ですからヨシュアは、彼なりの攻略方法を思案したに違いありません。しかし、エリコを攻略するにあたって神は、不思議な方法をヨシュアに語られたのです。
 それは、エリコの城壁の周りを黙って回りなさいというものでした。ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、言いました。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない」(ヨシュア記6章6節)。それに従って一行は、1日1回、無言で町の周りを回り、6日間そうしました。そして7日目になると、その日は7回町を回り、祭司たちが角笛を吹いたところ、ヨシュアは民に言いました。「ときの声をあげなさい」。そこで民が大声でときの声をあげると、難攻不落の城壁が崩れ落ちました。民は真っすぐに町へと上がって行き、こうして難なくエリコを攻め取りました。
 古今東西このような戦いは他に類を見ないでしょう。後日、エリコの城壁が倒れたのは、城壁の土台に何かがえぐったような跡があることが分かりました。それは、神の指だと言われています。エリコの戦いはまさに神の戦いでした。神を恐れ、神に聞き従いましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年6月28日号(第838号)より転載—

2015年6月20日土曜日

リバイバルが始まりました
 2015年5月20日、この日は私たちにとって特別な日となりました。事の始まりは、セントルイスの集会に来られたご婦人が、「リバイバルが始まりました」と講師に語られたことにあります。講師は、このことばに特別な主の語りかけを感じたそうです。そして、後になって振り返れば確かにこの日がリバイバルの始まりだったと回想できるような日となるだろうと確信するに至ったそうです。私もこの信仰に乗りました。
 神さまのことばは不思議です。神のことばは創造です。無から有を呼び出します。神のことばというのは、語られるなら、必ずその通りのみわざを成し遂げるのです。すべての働きは、ことばが置かれたところから始まります。そしてそれらはその通りに実現します。ですから、ことばを頂いたということは既にその実質を頂いたに等しいのです。
 このことについて、イザヤ書では次のように書かれています。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに
帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(5511節)
 その通り、ことばをもって神の働きは始まるのです。神のことばは生きています。スタートはゴールとともにあります。置かれた神のことばは、その通りに実現していきます。
 こういう訳で私たちは、すでに受けたと信じる信仰を行使することができます。そしてそれは確かにその通りになるのです。
 5月20日、共にこの日を覚えておきましょう。ここからリバイバルが始まりました。神のことばはすみやかに成就します。あなたもまた、リバイバルの召しに応答しましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2015年6月21日号(第837号)より転載—

2015年6月13日土曜日

カナの婚礼
 イエスはその公生涯の始めに母マリヤや弟子たちとともにガリラヤのカナの婚礼に出席しました。ところが、ぶどう酒が途中で足りなくなり
ました。マリヤはそのことをイエスに告げ、またイエスが言われることは何でもするよう、手伝いの者に言い送りました。
 そこには、六つの石の水がめが置いてありました。イエスは、「水がめに水を満たしなさい」と言いました。そうしたところ、イエスは言いまし
た。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい」(ヨハネの福音書2章7、8節)。世話役は、ぶどう酒になった
その水を味わって、良いぶどう酒だと言い花婿を褒めました。奇跡が起こったのです。イエスは、このことを最初のしるしとされ、ご自身の
栄光を現されました。
 神さまは、問題を栄光に変えられるお方です。問題は、問題で終わるものではなく、神のご栄光が現されるためのものです。神は試練
とともに脱出の道を備えられます。行き詰まった時にこそ奇跡の手を見るのです。
 マナを思い出してください。出エジプトの民を荒野で養った神のパンです。彼らが約束の地に入り、その地の産物を食べるその日まで、
それは続きました。
 また現代では、ガソリンがないにもかかわらず、走り続けた車もありました。インドネシアでは聖餐式のためのぶどう酒を求めて、水がぶど
う酒になりました。
 奇跡は起こるのです。信仰を持つなら救われます。これら神による奇跡は数え切れないほどたくさん起こってきました。信仰によって神
のご介入を信じるか、もしくはかたくなな心のままいるかは私たちの側の選びによります。問題の受け損にならないよう、神に期待しましょ
う。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年6月14日号(第836号)より転載—

2015年6月5日金曜日

召しさえ果たせば
 パウロが神のみこころに従ってエルサレムに上ろうとした時、エルサレムでは縄目と苦しみが待っていることが示され、兄弟たちはパウロにエルサレムに上らぬように忠告しました。
 しかし、その事に対してパウロはこう語りました。「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒の働き2024節)
 わが意を得たり、と思われる方も多いのではないでしょうか。キリストに出会って新しく生まれたなら、私たちは神さまのみこころを行いたいと切に願うようになるからです。
 日本には、二十六聖人と呼ばれる26人の殉教者がいます。日本で最初の殉教者です。この中には子どももいて、最年少は12歳のルドビゴ茨木でした。彼はことに愛らしい少年で、処刑されるに忍びないと、役人は、信仰さえ捨てれば命を助けてやる、自分の養子になれと言います。しかし、ルドビゴは、この世のつかの間の命と天国の永遠のいのちを取り換えることはできませんと言い、殉教を選びました。
 ルドビゴもまたパウロと同様に、自分に与えられている主の召しを全うするのなら、命を捨てることも惜しくはないと考えたのです。彼らは、天の報いから決して目を離すことがありませんでした。
 たとえ手ぶらでも、天国に行けるのなら最高の祝福です。しかし、願わくは神の確かな実を結んで帰りたいと思います。こういうわけで、召しさえ果たせばつかの間の命に未練はありません。私たちに用意されているのは天国です。そこにある報いから目を離さないで行きましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2015年6月7日号(第835号)より転載—

2015年5月30日土曜日

500円の奇跡
 ピリピ人への手紙4章で、パウロは「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(12節)と語りました。
 先日、ついに経済が底を突きました。こういう時に限って必要が生じるので、嫌な予感がしていたところ、1本の電話があり、予約していた会場の会場費を今日入れてくれないとキャンセルすると言われました。数千円の必要でしたが、無い袖は振れません。こんなわずかなお金にさえ苦慮するなんてどうなるんだろうと、恐れでいっぱいになりました。
 しかし私たちはありのままを感謝しました。使えるお金は、500円です。500円で何ができるでしょう。しかし、イエスさまは二匹の魚と五つのパンで5000人の給食をなさいました。同じ奇跡が起こらないとどうして言えるでしょう。
 神は人を備え、ある施設が開かれました。その施設は、なんとキャンセルされた会場の隣にありました。何より素晴らしいのは会場費が、4時間で370円だというのです。耳を疑いました。まさかあの500円で会場を借り、その上おつりまで来るなんて…。こんなことあるのでしょうか。
 コリント人への手紙第一には、「…神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1013節)と書かれています。全ては神の栄光が現れるために、主が働いておられるのです。信仰を堅くし、神に信頼する者でありたいと願います。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年5月31日号(第834号)より転載—

2015年5月23日土曜日

 
 私の子守をしてくださったHさんは、盆栽を趣味としておられました。枝を切ったり、針金で矯正したり、思い思いの形に仕上げていくのです。
 そのことを思うたびにほうふつとさせられる聖書のことばがあります。ヨハネの福音書15章には、このように書かれています。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(1、2節)
 ぶどうの木とはイエスさまのことであり、枝とは私たちのことです。そし
て、刈り込む農夫とは父なる神さまで す。神さまはより多く実を結ぶために、私たちを、剪定されるというのです。
 皆さんは、何の心当たりもないのになぜこんな試練がくるのか、と思ったことはありませんか。ヨブ記のヨブも そうでした。しかし、それこそ、刈り込みなのです。神さまは皆さんを益にあずからせようとあえて試練を許されるのです。ですから、急な試みが起こったとしても動揺せずに、忍耐を培う良い機会としましょう。
 詩篇105篇には、「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(19節)という一文があります。これは、ヨセフのことを言っています。ヨセフもまた刈り込みを受けました。高い地位に就く示しとは逆に、冤罪に次ぐ冤罪で牢につながれていました。しかし、ついにヨセフの時が満ち、ヨセフはパロに次ぐ大臣になりました。
 神さまは私たちをご存じで、私たち一人一人に計画をお持ちです。全ての困難・苦難は避けたいものですが、後には確かな実を結ばせます。全ての事を感謝しましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年5月24日号(第833号)より転載—

2015年5月16日土曜日

罪人を招くために
 ヨハネの福音書8章のお話です。律法学者やパリサイ人たちが、姦淫の現場で捕らえられた女をイエスのところへ連れてきました。彼らはイエスさまを試してこう言い
ました。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」(5節)
 しかし、イエスさまは取り合う様子もなく、指で地面に何か書いていました。それは十戒だとも、告発者の罪状であるとも言われていますが、彼らが問い続けてやまな
いので、イエスさまは身を起こし、一言語りました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7節)
 これを聞くと、年長者から始めて、一人一人出て行き、ついにイエスさま一人が残されました。イエスさまは、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪
に定める者はなかったのですか」と問うと女は「だれもいません」と語りました。「わたしもあなたを罪に定めない」「今からは決して罪を犯してはなりません」。そう
イエスさまは語られました(9~11節参照)。
 マタイの福音書の9章で、イエスさまは「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招く
ためでなく、罪人を招くために来たのです」(13節)と語られました。
 律法学者やパリサイ人は、上から目線で人を裁きます。しかしイエスさまは、世に見捨てられた人たち、弱い者たちに歩み寄ってくださり、全ての罪を憐れみをもって
赦してくださいます。イエスさまは罪を赦し、永遠のいのちを与えるためにこの世に来られました。あなたもまたイエスさまを信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年5月17日号(第832号)より転載—

2015年5月8日金曜日

鮮度の良い感謝
 「すべての事について、感謝しなさい」。テサロニケ人への手紙第一5章18節にはこのように書かれています。私たちはこの教えをマーリン・キャロザース師を通して約20年かけて学んできました。今では何か起こると、すぐに「あっ、これは感謝だな」と気付くようになりました。しかしここから先がまた一癖あってなかなか実践できません。
 例えば、夫婦げんかがクライマックスに達した時などは、なかなか感謝が言えません。火に油を注ぐようなものであるのは明白で、「感謝します」なんて言おうものなら相手のさらなる怒りが爆発しそうで、ちゅうちょしてしまうのです。
 かつて、み声新聞の中で、ご主人とけんかになろうとした瞬間、奥さんがいきなり「イエス、勝利。イエス、サタンに勝利」という歌を歌ったという記事を読みました。賛美した途端、急に笑いが起こり、たちまち空気が変わって元に戻ったそうです。本当に勝利が現されました。すべての事を感謝することはサタンのたくらみに打ち勝ちます。
 私たちの教会には、「感謝の戦士祈祷会」という名の祈祷会があります。全ての事を感謝することは戦いに等しく、それ故、戦士という名が付けられています。この祈祷会で、忍耐を持って問題の一つ一つを感謝してきました。感謝は質から量へ転換してきました。
 その中で、夫と話すのは、感謝もまた鮮度があるということです。思い出して後から感謝するというのもよいでしょうが、オンタイムで新鮮な感謝をささげることはより強く主の勝利を見ることができます。一つ一つは戦いです。全ての事について感謝しましょう。主は全ての事を益に変え、大いなる勝利を現してくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年5月10日号(第831号)より転載—

2015年5月2日土曜日

美しい老い方
 先日、免許の更新に行きました。そこで免許証に使う写真を撮った後、出来上がった写真を見てがくぜんとしました。身に覚えのないふくよかなおばちゃんが笑みを浮かべて写っていました。これって、本当に私?なのでしょうか。にわかには信じられませんでした。
 しかし、私も50の大台を越えた身です。数字の上では40歳で初老ですから、おばちゃん顔をしていても無理なからぬ年齢です。そして、美しく年を取るということは今や若い時以上に切実な課題となっています。どんな美人も寄る年波には勝てません。容色の美しさは一時的なものです。主はどう見ておられるのでしょうか。
 ペテロの手紙第一3章には、こう書いてあります。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」(3、4節)柔和で穏やかな霊こそ、美しく時を重ねる秘訣であるのです。目には見えない隠れた人柄、これを育てていくことが美しい老い方なのでしょう。
 箴言にも31章に、聖書の語る良き女性像が書かれています。この女性は非の打ちどころない女性です。しかし、そこで語られていることの結論は「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」(30節)というものです。見掛けではなく、本当の美しさは内側に宿るのです。若い時には外観に引かれるものですが、神を恐れることを知ったことから始まる柔和で穏やかの霊こそ何にも勝る美しさだと私は思います。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年5月3日号(第830号)より転載—

2015年4月25日土曜日

くびき
 鳴門発。未明の一番列車には今も、行商のおばあちゃんたちが、どやどやと乗り込んできます。大きな竹籠の中にいっぱい商品を詰め込んで、お店のない近隣の山村に売りに出掛けるのです。今日も稼ぐぞと意気軒高な、おばあちゃんたちが頼もしくて、同じ列車に乗り合わせることが私の楽しみでした。
 乗り込んだおばあちゃんは、どかっと荷を下ろします。そしておしゃべりに花を咲かせて、また荷を背負い直して出ていきました。
 海外でも同様な光景がありました。そこの、あるおばあさんは、道を歩いていたところ、荷車に拾ってもらいました。しかし、乗りはしたものの、籠を背負い込んだままで、一向に下ろさないのです。忘れているのでしょうか。これでは足は楽になったでしょうが、荷は重いままです。下ろせばいいのに、もったいないとは思いませんか。
 イエスさまは、マタイの福音書11章でこう話されました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節)
 さらに、こう続きます。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(2930節)
 律法によって救われる人は誰もいません。イエスさまはこれら律法の縛りから私たちを解放してくださるために、十字架で救いを成し遂げてくださいました。信じれば救われるのです。今は皆さんを縛るくびきはありません。イエス・キリストの福音を信じ、すべての重荷を下ろし、真の救いの中で憩いましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年4月26日号(第829号)より転載—

2015年4月18日土曜日

脱出の道
 教会には、1年を通してかえりみる年度のみことばというものがあります。ことしは、出エジプト記3410節から、「この民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである」という一節が与えられました。
 いったい何が起こるのだろうと戦々恐々としていたら、果たして試練がやってきました。北海道では、2名のクリスチャン女性に相次いでがんが許されました。私たちは驚き、一斉に教会のとりなしの祈りの手が挙がりました。
 まだいやしの途中経過の段階ですが、一人の女性はがんが転移している可能性が非常に高く、またがんそのものも大きくて手術はまだ無理、と診断されていました。ところが、抗がん剤療法だけで転移も無く、がんそのものも縮小し、手術せずに治る可能性さえ見えてきました。さらに、もう一人の女性も、手術は大成功に終わり、ご家族の方が安堵されました。これらはみな恐るべきものです。神さまはご栄光を現してくださいました。
 コリント人への手紙第一10章には次のように書かれています。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(13節)
 私たちは神さまに知られています。神さまは私たちを愛してくださっています。神さまにはおできにならないことなど一つもありません。こういう訳で私たちにはあらゆる試練が許されますが、必ず脱出の道が用意されています。そして、後には試練そのものも大きな祝福へと変えられます。神さまに信頼しましょう。 (イスラエル北野)


み声新聞2015年4月19日号(第828号)より転載—

2015年4月11日土曜日

愛すること、従うこと
 私が結婚を決めたのは、結婚がどんなものか、心の中でふに落ちたからです。ある人は、結婚とは、情熱だと言いました。私は、結婚は責任であると考えていました。決めたなら最後まで責任をもって添い遂げる、それが結婚だと思っていました。
 保守的な考えですが、ある老婦人の結婚観を聞き、さらに保守的になりました。彼女は、興味深いことを語りました。「あなたね。女が自分に付いてこいと言っても男が付いてくると思う? 反対でしょう。付いてこいって言うのは男の愛の形で、女はそれを選ぶかどうかよ」
 これで、目が開きました。男と女では愛の形が違うと。それを裏付けるかのように、エペソ人への手紙5章にはクリスチャンの結婚に関することが書かれています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)
 両性に求められている愛は違うのです。ある牧師は、愛することはより難しいもので、男性に任せられているものであって、女性は、従うという形でその愛を示すのだと言いました。老婦人の語るところと一致しています。愛は、愛する愛と従う愛があるのです。
 さらに、結婚は、かしらなるキリストと花嫁である教会を指して語られている神の奥義でもあります。花嫁に求められることは、花婿なる夫に従うことです。こういうわけで、愛には愛する愛、従う愛があるのです。ここに調和があり、一致があります。愛する愛がとかく目立つものですが、従うという愛もまた素晴らしいものです。
 
(イスラエル北野)


み声新聞2015年4月12日号(第827号)より転載—

2015年4月4日土曜日

感謝
 聖書には、多くの教えがありますが、中でも、「すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)という奨励は抜きん出て素晴らしい教えです。
 今は天国に帰られたマーリン・キャロザース氏は、この教えを20年にわたって私たちに学ばせてくださいました。ご本人がおっしゃっていますが、この教えを実行するのは、語学を学ぶに匹敵するほど難しいといいます。特に「すべての事」というのが難しく、良い事を感謝することは簡単ですが、悪いことを感謝することはそうそうできることではありません。
 しかし、20年の中で私たちは、悪い事が起きると、感謝だと気付き、口先だけですが、感謝しますと言葉が出るようになりました。すると感謝の威力を見始めたのです。
 クリスチャン女性であるAさんは、友人とお食事に行った際、彼女の注文した料理だけが来なかったそうです。彼女は、静かに「プレイズ・ザ・ロード(主を賛美します)」と言い、感謝しました。それを見ていた青年は驚き、後には2人は結婚しました。
 また、私たちの教会の牧師は、歯の詰め物が取れたことを感謝しました。すると、そんな事まで感謝するのか、と感銘を受けたチェコの人がいて、そこから牧師が書いた本がチェコ語で出版されるようになりました。
 レベルの違う主の手を見たのです。感謝が持つ力は、人生を変えるほど強力なものです。ローマ人への手紙には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(8章28節)と書かれています。どんな事も感謝しましょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2015年4月5日号(第826号)より転載—

2015年3月28日土曜日

信仰が直したのです
 聖書には、イエス・キリストによる病のいやしの記述がたくさん出てきます。興味深いのは、いやしが与えられる時、多くの場合にイエスさまは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と語られたことです。
 信仰といやしは密接な関係にあります。信仰はいやしの土台となるものです。マルコの福音書5章に、12年の間長血をわずらっている女のいやしが書かれています。彼女は、多くの医者からひどいめに会わされてお金も底をつき、しかも、病状は悪くなる一方でした。彼女に残された道は、イエスさまに頼る以外にありませんでした。
 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」―彼女はそう信じ、群衆に紛れて後ろからイエスさまにさわりました。するとたちまち血の源がかれて、ひどい痛みが直りました。イエスさまもそれを知り、状況を聞くと彼女に言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(34節)
 これらの事は皆、私たちのために書かれています。長血の女に働いたその同じ信仰は今日も生きています。それがからし種ほどの小さな信仰であっても、神は力を現してくださいます。ですから、問題を前にしてのっけからあきらめてしまうことが一番良くないことです。神さまは必ず問題の背後にご栄光を現す良きご計画をお持ちだからです。しかし、信仰なんて面倒だ、という人々も少なからずいます。これは大きな損失です。イエスさまにはおできにならないことは一つも無いからです。
 望み得ない時に望みを抱いて信じる、これが信仰です。主に信頼する者は、決して失望させられることがありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年3月29日号(第825号)より転載—

2015年3月21日土曜日

心を尽くして
 今どき、問題の無い人などいないのではないかと思います。わが家もまた例外
ではなく、先日、娘がやっとなじんできた職場で仕事を減らされ、娘以 上に私
が落ち込んでしまいました。どんどん否定的な思いになり、あたかも神さまがい
ないかのように、世を恐れ、世に縛られました。「全ての事を感 謝する」とい
う教えを知らなければ多分、心労でつぶれていたと思います。
 しかし、神さまは、このような困難の中にいる私に、ソロモンの箴言を示して
くださいました。そこにはこう書かれていました。「心を尽くして主に 拠り頼
め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そう
すれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(3章5節)
 私たちは、何とか自分の力で問題に当たろうとします。しかし、問題というの
は手には負えないから問題なのです。自分の悟りなんて何の解決にもな りませ
ん。では、どうすればよいのでしょうか。心を尽くして主に頼るのです。祈りで
す。神さまの前に心を注ぎ出すのです。神が助けてくださらない と、どうして
知るでしょうか。
 神さまはすべてをご存じです。たとい罪の中にあっても、行く道に迷っていて
も、あらゆる所において神さまを認めるなら、主はそこから私たちの道 をまっ
すぐにしてくださいます。これが、愛にして義なる方、神さまというお方なのです。
 そうこうするうちに昨日、急に娘の仕事が増えることになりました。神さまの
逆転勝利が動き始めました。それまでの恐れに代えて、今は平安と安ら ぎを
頂いています。神こそ我が盾、また力。主に拠り頼むことができるなんて、何
という喜びでしょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年3月22日号(第824号)より転載—

2015年3月14日土曜日


 神はあなたを愛しておられます。神の愛はアガペーの愛と呼ばれ、最高の愛を
指します。その愛は私たちにイエス・キリストをくださった愛です。
 イエスさまは、神のひとりごですが、私たちのすべての罪を赦しあがない、永
遠の命を与えるために、定められた時にこの世に来られ、十字架で死 に、よみ
がえりを果たされました。この十字架のうちに神の愛は完全な形で現されまし
た。ですから、聖書はこう言います。「私たちすべてのために、 ご自分の御子
をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのもの
を、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」
 私の母ですが、先日神さまに大いに憐れんでいただきました。ぼうこうに影が
あると医師に告げられ、がんが疑われました。母はアレルギー体質で薬 を使う
ことができません。点滴の生理食塩水でも反応するので、病気といえば神に癒や
していただくしかないのです。ひたすら主を求めいやしを求め、 多くの方に
祈っていただいた結果、ぼうこうの影は消えました。
 神はあらゆる問題において助けを備え、愛を現してくださいます。私たちは決
して見捨てられることがありません。ローマ人への手紙にはこう書かれ ています。
 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。(中略)死も、いのち
も、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者 も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにあ
る神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
 神はあなたを愛しておられます。この愛にすべてを委ね、憩いましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年3月15日号(第823号)より転載—

2015年3月7日土曜日

十字架
もう20年以上昔のことですが、私たちの教会に原寸大の十字架を負って世界をま
わっている兄弟がやってきました。ちょうど、夫婦で熊本教会に遣わ される直
前であったので、彼の許しを得て、私も十字架を担わせていただきました。
 案の定、ずしりと来ました。やはり重いです。しかし、十字架の下の部分には
タイヤが付けられていて、それが回るにつれ、何とか前に進むことがで きまし
た。まっすぐに進むなら、この十字架は、担えないものではありません。ところ
が、向きを変えてみようとすると、取り回しが大きくて回転する ことができま
せんでした。十字架の正しい担い方は、ただひたすらまっすぐに前進することに
あるのだと知りました。
 マルコの福音書でイエスは、群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せてこう言わ
れました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、 自分の
十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(8章34節)
 これは十字架を担いなさい、という勧めですが、弟子たちだけでなく、全ての
人に向かって語られている言葉です。私たちにはそれぞれ負うべき自分 の十字
架があるのです。
 しかし、重さや苦しさの故に、担い始めた十字架を下ろすということもまたあ
ります。ある牧師が証ししていましたが彼は、訓練に耐えかね十字架か ら下り
たそうです。しかし、奥さんは祈り続け、ついに祈り切りました。教会が新しく
なった時、彼は自分が訓練を受け損ねたことに気づきました。
 十字架を下ろしてはなりません。それには報いがあるからです。後の日に、私
たちは十字架を担うことの栄光を見ます。十字架を愛しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年3月8日号(第822号)より転載—

2015年2月28日土曜日

 かつて、クラーク博士は札幌農学校で「ボーイズ・ビー・アンビシャス、イン・クライスト」すなわち「青年よ。キリストにあって大志を抱け」と語られました。大志あるいは幻は、より高くあってほしいと私は思います。そして、人生これからという若い人々にこそ、大志を持つよう語りたいのです。なぜなら大志はあなたをその幻にふさわしく育て上げるからです。
 以前にもお話ししたかも知れませんが、毎年甲子園球場で、高校野球の全国大会が催されます。これに関してある人が興味深いことを語りました。それは、甲子園に出場することを幻として鍛え上げてきたチームと、甲子園で優勝することを幻に鍛えたチームではやはり違うとい うのです。練習内容もさることながら、あらゆる面で優勝したチームは、出場することを幻にしたチームよりより厳しい訓練を耐え抜いてきていると言います。
 これが幻の力です。より大きな幻は、結ぶ実も多いのです。人が幻を握るなら人生は大きく変わっていきます。幻の実現に向けて、私たちは努力を惜しまなくなります。忍耐し、自制心を持ち、節制を働かせ、しかしその末には幻の成就を見るのです。
 箴言2918節には「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と書かれています。幻の無い人生は虚しいものです。
 こういうわけで、キリストにあって大志を頂いてほしいのです。ご自分を律して神に聞き従われることによって、 幻は皆さん方を幻にふさわしく成長させてくれます。それ故、どうか今、キリスト・イエスにあって、神の幻を自分の計画とし、信仰を奮い立たせましょう。そうすることによって、神さまによって豊かな実を結ぶようになるのです。 (イスラエル北野)


み声新聞2015年3月1日号(第821号)より転載—

2015年2月21日土曜日

水上歩行
マタイの福音書のお話です。イエスさまは、男5000人の給食の奇跡をなされ
た後、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に向かわせました。
 夜中の3時頃、イエスさまが湖の上を歩いて、弟子たちの所に行かれると、彼
らは「幽霊だ」と言い、恐ろしさのあまり叫び声をあげました。
 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけると、ペテロ
が言いました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いて ここま
で来い、とお命じになってください」
 イエスさまは、「来なさい」と言いました。そこでペテロは舟から出て、水の
上を歩いてイエスさまの方に行きました。ところが、風を見て、怖くな り、沈
みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言いました。イエスさまは
すぐに手を伸ばして、助けてくださいました。
 この話は有名です。来なさいというイエスさまの「ことば」を見つめている限
りは、ペテロも水上を歩きました。しかし、「ことば」にではなく、波 や風な
どの現実に目が向くと沈んでいったのです。
 私が献身に踏み出すきっかけになったのもまた「ことば」によりました。父か
ら勘当を言い渡され、何の経済的基盤もありませんでしたが、「こと ば」を与
えてくださった神さまに信頼しました。もし失敗しても、その時にはイエスさま
がペテロにしたように、直ちに助けてくださる、恵みによって こう信じること
ができたのです。事実、結婚までの間主に支え続けられました。
 奇跡は、神の「ことば」を土台にして起こります。神さまの「ことば」を信
じ、信仰の踏み出しをなす時、神のご栄光を見ます。神の「ことば」は、 現実
よりも確かです。(イスラエル北野)

み声新聞2015年2月22日号(第820号)より転載—

2015年2月11日水曜日

喪中の家
 ソロモン作とされる伝道者の書に次のような記述があります。
 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人
の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから だ」(7章
2節)
 すべての人の終わり、それは死です。これを変えることはできません。にもか
かわらず、人は、日常生活の中に紛れてそのことを忘れています。生き ている
うちにしておかなければならないことがあるのに、そのことさえ忘れてしまうの
です。こういう訳でソロモンは、喪中の家に行くことを勧めるの です。
 私は、社会で高い地位を得、世にあって成功した多くの先輩方を知っていま
す。しかし、その方々も死の前には無力でした。時は待ってくれません。 最期
には力もうせ、泣いて涙のうちに旅立って行かれました。
 生きている内に必ずしておかなければならない事、それは死に対する備えで
す。そしてそれは、イエス・キリストを信じる、救われることです。
 44歳の時、私は今まさに死にゆくという体験をしました。その時、長年悩んで
きた人と人との軋轢などは、取るに足らない小さな問題でした。自分 は神にお
会いする用意があるかどうかが、最大の関心事でした。私はまだ何もしていな
い、まだ死ねない…、その叫びが通じたのか私は現実に戻されま した。
 私たちは、はかない存在です。神さまはそのことをご存じです。ですからイエ
スさまを下さいました。イエスさまは、あなたの代わりに十字架で死な れ3日
目によみがえられました。イエスさまは私たちに永遠の命をくださいます。イエ
スさまは私たちの主です。主イエスとともに生きましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年2月15日号(第819号)より転載—

2015年2月7日土曜日

反キリスト
 1991年、夫と長女と3人でイスラエルに行きました。終末に関わる示しな
どを求めたのですが、旅の最後にホロコースト記念館「ヤド・バシェ ム」に導
かれました。終末には何が起こるのですかと主に求めたところ、そこで見たのは
ヒトラーの肖像画でした。ヒトラーは反キリストのひな型であ り、反キリスト
は必ず今の世に立ってくること、またその時代における神の働きを担うには今か
ら準備が必要だということを語られました。
 それから23年がたち、今に至っていますが、日本は発展しているはずなのに、
当時と比べて随分生活が苦しくなりました。昭和の時代、一家の主が 働くな
ら、何とか家族を養えました。しかし今は、家族総出で働いても、なおかつ生活
苦ということも珍しくありません。
 時代は、刻一刻と終末を示すようになりました。民族は民族に敵対し、方々で
地震や災害が起きています。しかし聖書では、これらは産みの苦しみの 始まり
であり、終わりが来たと言ってすぐに動揺してはならない、まず背教が起こり、
不法の人の出現なくして終わりは来ない、と書かれています。そ して、この不
法の人こそ反キリストなのです。彼は中東和平を締結し、すべて神と呼ばれるも
のの上に自分を高く上げ、自分こそ神だと宣言します。
 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止めるものがあって、反キ
リストの出現を引き止めています。しかし、その時になると、不法の人 は現れ
ます。主はみ口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれま
す。私たちは、世の終わりに向かう、特別な時代に生きていま す。イエスさ
まを信じ、それぞれの救いの達成に努めましょう。        (イスラエ
ル北野)

み声新聞2015年2月8日号(第818号)より転載—

2015年1月30日金曜日

栄光のからだ
 1994年4月19日に私の父は、肝臓がんで天へ帰ってゆきました。55歳でし
た。父なる神さまは、「この病気は死で終わるだけのものではな く、神の栄光
のためのものです。神の子が、それによって栄光を受けるためです」(ヨハネの
福音書11章4節)と語っていてくださったので、悲しみ はありましたが神の栄
光の現れを見ました。
 55歳というのは若すぎると思いますが、誰もが必ず一度は死ぬのです。精いっ
ぱい息を継ぎ、最後まで諦めずに生きようとする父を見て、ああ私も 父のよう
に誠実に自らのいのちに向かい合えばいいのだと、教えられました。
 荼毘(だび)に付す時、私は父の形がなくなってしまうことがつらかったので
す。しかし神は、マタイの福音書6章から語りかけ、慰めてくださいま した。
 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物
になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえな さい。
そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」(19
20
節)
 解釈ですが、私の場合、自分の宝とは父のことをいっていました。父が地上に
いるなら、ガンや病という虫やさびが父をむしばむでしょう。しかし、 父を天
国に行かせるなら、そこにはあれほど苦しんだガンも虫やさびもありません。
 私は死者の復活を信じます。そして死者の中から初穂としてよみがえられた、
イエスさまの栄光のからだを、いただける事を信じています。神は、病 も死も
ない栄光のからだをみ子にあって用意してくださっているのです。それゆえイエ
スさまによって、今や「死は勝利にのまれて」いるのです。復活 のご栄光をた
たえましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年2月1日号(第817号)より転載—

2015年1月22日木曜日

十字架の赦し
 ヨハネの手紙第一に、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で
正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてく ださい
ます」と書かれています。
 これは神さまの約束です。自分の罪を言い表すなら、つまり「悔い改める」な
ら、どんな罪であっても神は赦してくださると言っているのです。これ は真実
のことばであり、神さまの前で悔い改めた罪は、神さまは、その罪を二度と思い
出されることはありません。それどころかあたかもそれらのこと がなかったか
のような祝福を神は注いでくださいます。
 ルカの福音書15章に、放蕩息子とその兄のことが書かれています。父の身代を
分けた兄弟ですが、弟は好き勝手をし、湯水のように財産を使ってし まいまし
た。落ちぶれて帰ってくるのを父はあわれみ、子として迎え宴会を催しました。
ところが、兄はそれが気に入らなかったのです。「私には、友 達と楽しめと子
ヤギ一匹下さったことがないのに、遊女に溺れた息子には子牛をほふらせるので
すか」と反発します。
 あの人の方が私よりはるかに大きな罪を犯したのに赦され、そればかりか祝福
まで受けているなんて許せない、そんな憤りを心に抱いたことはありま せん
か。放蕩息子の兄はそうでした。私たちはねたみやすく、また、人を罪に定めや
すいものです。しかし、神さまは赦しの神です。
 イエスさまは、その十字架で流された血潮によって私たちの罪を覆ってくださ
いました。神は十字架の血潮を通して私たちを見てくださるので、あた かも
一度も罪を犯したことのない者が受ける祝福がやってくるのです。こういうわ
けで、あなたもまた、福音を信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年1月25日号(第816号)より転載—

2015年1月17日土曜日

霊の世界
 徳島の某所に、化け物屋敷とうわさされる家があります。金を背負った布袋が
家に向かって四隅に置かれ、いかにも拝金主義といった日本家屋です。
 この家に住む人は、皆おかしくなるということで有名になりました。居ないは
ずの人影が見えるのはしょっちゅうで、飼われていた数匹の犬が狂い死 にし、
代々のオーナーも皆、奇妙な死に方をしました。
 地元でも話題になり、大学病院の教授は「この家は恐らく特別なガスが立ち込
めていて、そのせいでおかしくなるのだろう」とコメントしましたが、 結果は
分からず、多くの人はその科学的な見方に飽き足らず、「きっと霊がいるに違い
ない」と恐れています。
 聖書には、イエスさまが病のいやしと同じくらい、悪霊追い出しをされたこと
が書かれています。ところが今の時代、悪霊などと言おうものなら、極 端だと
一線を引かれてしまいます。そして、それこそがサタンのもくろみなのです。
 悪霊もサタンも現実の存在であることを覚えてください。というのも、私たち
に起こる幾つかの問題は、本当は霊の問題であるのです。にもかかわら ず、あ
たかもそれが霊の問題ではないようにサタンはすり替えてきます。そして、私た
ちをいつまでもその問題で縛り続けようとします。霊的な事柄に は霊的な対応
が必要です。正しい対応をすることによって解放が訪れます。
 問題にはそれなりの原因とみえるものがあるので、なかなか霊の問題とは考え
にくいものです。しかし、私たちが思う以上に霊に由来する問題は多い と思
います。聖書はそのことを語っています。イエス・キリストを信じ、私たちを
縛る、あらゆる問題からの解放を受けましょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2015年1月18日号(第815号)より転載—

2015年1月10日土曜日

信仰義認
 もし皆さんが、世界中の人々をすべて救うというプロジェクトを任されたらど
うしますか。もし、救いの方法をお金の有無におくなら、お金の無い貧 しい者
は救われませんし、試験にするのなら、頭の良い人を救えても知恵の欠けた者を
取り残してしまいます。すべての人を等しく救うことは何と難し いことでしょう。
 ならば条件なくすべての人を救えば良い、と思うでしょうが、私たちは皆、神
さまの前では罪人です。そのため、私たちは罪の贖いが必要であり、救 われる
方法が問題なのです。
 このことをご存じの神さまは、「信仰」という方法を私たちに与えてください
ました。信じることによるなら、だれもが等しく救われるのです。
 そして、これが神の知恵だと神は言います。コリント人への手紙第一には、こ
のように書かれています。「事実、この世が自分の知恵によって神を知 ること
がないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって宣教のこ
とばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」   宣教のこ
とばの愚かさとは何でしょう。それは福音を信じるということです。私たちの父
なる神さまは、私たちを愛し、ご自身のひとり子イエスさ まをくださいまし
た。御子イエスさまは罪なきお方ですが、私たちの罪を贖うために、罪人ととも
に十字架で死なれました。そして、3日目によみがえ りを果たされました。そ
のことは、みな私を罪から救うためであったと信じるなら「救われる」のです。
これを、信仰義認と言います。
 どのような宗教もこれに並ぶことはありません。どのような救いもこれ以外
にはありません。十字架の福音を信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年1月11日号(第814号)より転載—

2015年1月3日土曜日

天国は、ほんとうにある
 最近、身内の間にちょっとしたブームが起こっています。それは、「天国は、
ほんとうにある」という映画です。牧師の息子である4歳のコルトン少 年が、
虫垂切除の手術で生死をさまよっている間、天国へ行ったというお話です。
 私の父もまた同様に不思議な体験をしました。脾臓摘出と食道切除、胃を裏返
しにしてつなぐという大手術の最中、コルトン君と同じように、心臓は 動いて
いたので医学的には死んだといえないのですが、確かに手術中、体を離れてイエ
スさまの所に行きました。一度死んだのかもしれません。
 父は、気が付くと白い雲に乗って空中を漂っていました。正面には栄光で輝く
天国があり、そしてイエスさまとお会いしました。イエスさまは父に天 国を案
内してくれたそうです。特に、地上と天国との連絡回線についての説明が興味深
かったらしく、父はよく話してくれました。雲の間に金色に光る 回線がくまな
く走っていて、通常の祈りはこのラインを通って届き、緊急の時はこのラインで
す、と見せてくれ、世の通信システムにはないそれはそれ は見事な物だった、
と父は述懐しました。一通り見終わった後、イエスさまは、何か質問はあります
かと、父に優しく聞かれたそうです。
 無いです、と言いかけたところに、父を呼ぶ声がして、今度は自分を見下ろし
ていて、口から体に入り、気が付けば手術は終了していました。
 私には、9カ月でなくなった息子がいます。彼は、エリヤといいます。天国に
はエリヤという名前の子が集まる部屋がある、とある預言者が語ってく れまし
た。地上では生きられませんでしたが、天国で生きています。天国で会える、そ
れが今の私たちの希望です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年1月4日号(第813号)より転載—