2023年4月28日金曜日

老いの戸口に立って 

 世界の「三大美女」の一人として挙げられる小野小町は、有名な歌を残しました。百人一首にも載せられているもので、ご存じの方も多いと思います。

 「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に」というもので、美女の誉れ高い小町も、年を経て容色の衰えを気にするようになったということですね。現代語に訳すと「桜の花は、虚しく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに」となります。

 私はまもなく還暦を迎える、卒業真近のアラフィフです。人生右肩上がりにきましたが、ここにきて老いを実感するようになりました。きっかけは「白髪」です。23本は当たり前と思って気にも留めていませんでした。ところが先日、隠れた所に根元の白髪があることに気付いてゾッとしました。年相応に老化が進んでいるということです。

 けれども、聖書では「白髪」は否定的なものではありません。「しらがは光栄の冠」(箴言1631節)とも「年寄りの飾りはそのしらが」(同2029節)と書かれています。そればかりかイザヤ書46章には次のように書かれています。

 「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(34節)

 とても愛に満ちたことばではないでしょうか。生まれる前から、母の胎内にいる時から、神は私たちをご存じでした。神が私たちを造られたからです。ご愛をもって神は私たちを創造し、慈しみ、私たちが生まれる前から私たちを愛してくださっていました。そして出生後、私たちは地上での生を幾年か神と共に歩み、やがて私たちに白髪が目立つ時が到来します。しかし、神の愛は晩年になっても変わることなく、私たちに注がれ続けているのです。白髪が目立つようになっても、あなたに対する神の愛は動きません。神が私たちを愛してくださっているその愛は「永遠の愛」だからです。

 老いを恐れる必要はありません。むしろ、天の御国に近いことを喜びとしましょう。老いの道を行くに当たって、あなたの力では進めなくても、神はわたしが背負うとも、運ぼうとも、救い出そうとさえ、約束しておられるのです。そして、神はずっとそうして来られたのです。あなたが気付く前から。

 小野小町は、類まれなる美貌の持ち主でした。しかしそれもいっときの事であって、彼女にも老いがあったのです。年寄りだからといって、小さく自分を見ることはありません。むしろ今こそ使命を果たすために立ち上がる時です。

 私たちは、やがては天に帰ります。「生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする」。このように語られる神のことばに力を得、おのおの召しに応答してゆきましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年4月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年4月21日金曜日

岩と砂 

 私の故郷は、芋の鳴門金時で知られる四国の鳴門です。もともと塩田で栄えてきた町で、土地は広く砂でできています。砂の水はけの良い土壌がおいしい芋を生むのです。幼少の頃から、私たちは砂に触れ、いろいろな遊びをしました。さらさらした砂はあっという間に指から滑り落ちます。ままごと遊びで泥まんじゅうを作るのですが、乾いた砂は握った圧力を逃がしてしまうので、なかなか形にはなりませんでした。

 代わりに、よくした遊びは、砂を集めて山にして、その中心に小枝を差し、小枝を倒さないように少しずつ順番に土台を削ってゆくというものでした。土台を削りすぎると小枝は倒れてしまいます。そのぎりぎりのところが楽しくて、皆、夢中になりました。

 マタイの福音書7章は、賢い人と愚かな人について言及しています(2427節)。聖書は神のことばを聞いてそれを行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人だと言います。一方、神のことばを聞いてもそれを行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人だと言います。

 やがて、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてそれぞれの家に打ちつけると、岩の上に建てられた家は、びくともせずに倒れませんでした。他方、砂の上に建てられた家は倒され、しかもそれはひどい倒れ方でした。

 ここで考えたいことは、それぞれ何を土台としているかは、見た目では分からないということです。家を建てたことはどちらも同じです。見た目には両者は変わりがありません。等しく順調に進んでいるように見えるでしょう。ところが、長い人生の中では、建てられた家の真価が問われるような時がやって来ます。雨が降り、洪水が来、大風が吹き付けると、つまり試練、患難、困難が起きると、その時こそそれぞれが何を土台としていたかが白日の下にさらされることになるのです。

 賢い人と愚かな人との違いは、主のことばを聞いてそれを行うかどうかにあるというのが聖書の語るところです。岩は土台です。確かなものです。しかし、砂は先に述べたようにどんなに集めようとしても、そのはなからこぼれ落ちて行き、土台を支えるものではあり得ないのです。

 ただこの問題は、私たちの土台が岩なのか砂なのか、後になってみないと分からないというのが難点です。ですから、私たちは慎重であり、また神のことばを聞いてそれを行う者でありましょう。神のことばは岩であり、これに根を下ろすなら何が来ようが決して揺らぐことはありません。神のことばに立ちましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年4月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年4月10日月曜日

いのち

 このごろ、近しい方が相次いで亡くなっています。芸能界からも次々と懐かしい方々の訃報を聞きますし、また、若い方の突然の訃報にも驚かされます。個人としても親しい方が相次いで亡くなられました。特にかかりつけ医である若い医師がまさかの突然死に見舞われました。後任の医師も決まらず、現場は混乱しています。前触れがあればそれに気付いたでしょう。しかし皆、突然の予期せぬ別れとなりました。生きていることが当たり前の世界から、いのちは明日のことも知れぬはかないものだという事実に、改めて目を向けさせられる出来事でした。

 人が亡くなるとその度ごとに、いのちは神さまのものであるという原点に気付かされます。忘れてしまいがちですが、私たちのこの世の人生は、始まりがあったように終わりがあります。誰一人としてこの原則に当てはまらない人はいません。生(いのち)あるものには必ず死(終わり)がやって来ます。それ故この世の生(いのち)あるうちに死に備えることが必要であり、何よりそれが重要です。

 イエスさまもまたマルコの福音書8章でこう述べられています。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」(3637節)

 その通りです。全世界を得ることより、いのちを持つことのほうが遥かに重要なことです。にもかかわらず、いのちには限りがある、そんな大切なことさえ忘れてしまうほどまで私たちは、自分の計画に没頭しています。よしんばそれが成功し全世界を得たとしても、私たちは自分のいのちを、たった一時でさえ延ばすことができないのです。私たちの目は何を見ているのでしょうか。神にあるいのちでしょうか、それともうたかたの世の成功でしょうか。どの人生を歩むかは私たち次第です。

 ただ恵みによって神は、私たちをご自分の元に買い戻すために、贖(あがな)いの代価として御子イエス・キリストを下さいました。イエスさまは、約2千年前に世に来られ、十字架で私たちのすべての罪をみ苦しみをもって担い、その死と3日目の復活によって贖いを完成させられました。信じる私たちを神の子としてくださったのです。イエスを信じる者は皆救われます。イエスさまは、死に打ち勝った唯一の人でありまた神であって、よみがえりの初穂です。このイエス・キリストを信じるなら、私たちは永遠のいのちを受け救われるのです。また、たとえ死んでも行先さえも用意されていて、それは、パラダイス(天国)です。

 イエス・キリストを信じましょう。いのちは何よりも尊いのです。ヨハネの福音書146節にはこう書かれています。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。その通り、イエスは私たちと神との間の唯一の仲介者です。これより他に救いはありません。イエスを信じる者は皆、永遠のいのちが与えられています。あなたもこの恵みにあずかりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年4月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/