2021年7月27日火曜日

賛美

 夏の恒例白馬キャンプに参加させていただきました。キャンプは賛美をもって始まるのですが、開始!とともにいきなり1音目から臨在が下りました。主への期待があふれ、喜びがあり、私たちは三百数十名でしたがあたかも1人であるかのように1つとなって、天にいる万の幾万倍、千の幾千倍もの御使いとともに歌うかのようでした。このまま永遠に賛美していたいと願うほどそのご臨在は慕わしく、喜びに満ちたものでした。

 賛美には強力な力があります。なぜでしょうか。それは、賛美の中には主がおられるからです。詩篇223節にはこう書かれています。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」。賛美は、神さまの住所なのです。賛美のあるところ、そこには神もまたそのただ中におられます。それ故そこに、神のご臨在が現されるのです。

 一口に賛美といっても賛美のすそ野は広く、興味深い所では、黙示録13章があげられます。そこでは、地上から贖われた144千人のほかには誰もこの歌を学ぶことができなかった、という記述があり、賛美にはさまざまな特別な賛美があることが言及されています。

 そして、賛美には強力な力があります。使徒の働き16章には、奥の牢で足かせをつけられたパウロとシラスが真夜中ごろ神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、突然大地震が起こりました。獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部開いて、みなの鎖が解けるという、あり得ない奇跡が起こりました。賛美は現実を打ち破り、神の栄光が現されました。

 また、日本最初の殉教者である二十六聖人が長崎で十字架にかけられた時、刑場である西坂には賛美の声が響き渡りました。そこには今向かおうとする天への希望があり、ご臨在が豊かに注がれました。信仰を捨てるどころか、多くの人々が私もキリシタンです、私も処刑してくださいと願い出たと言います。賛美が、天の臨在が、豊かにその場を覆いました。

 さらに、フィリピン・ダバオで刑務所の囚人たちが人質を取り、政府と銃撃戦になった時に、オーストラリア人宣教師であるジャクリン・ハミルさんが凶弾に倒れて殉教しました。ほぼ即死の状態であるにもかかわらず、ジャッキーは何とそこで20分ほど賛美をささげていたといいます。そして最期にフーと息を長く吐くと静かに天に召されていきました。今わの際に、ジャッキーがなしたのは賛美でした。確かに主は賛美の中にいてくださり、ジャッキーを天に迎え入れてくださったのです。

 私もまた、神に立ち返ったのは賛美を通してでした。ご臨在の中、昔聞いた讃美歌の一節が心に触れ、主の救いを受けました。主は、確かに私たちの賛美を住まいとなされます。賛美の中に住まわれる聖なるお方をほめたたえましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年7月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年7月18日日曜日

イエスさまのいやし

  病人には、多かれ少なかれ心の屈折というものがつきものです。特に病気が長引くと、その傾向は強くなります。誰も好き好んで病気になったのではありません。誰が悪い訳でもないのに同情者は減っていき、心無い言葉に傷つくことも多々あります。

 ヨハネの福音書9章は、生まれつきの盲人をイエスがいされたことを取り上げている箇所として有名です。盲人を見て弟子たちはあからさまにこう言いました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」歯に衣を着せぬ一言です。でも当時は誰もが病気は罪の結果として起こるものだと考えていたのです。

 それに対してイエスさまは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」とお答えになりました。これは画期的なことばです。病は誰のせいでもない、それは神のご栄光の現れのためにあるのだとおっしゃったのです。そして、イエスさまは地面につばきをして泥を作り、それを盲人の目に塗って、シロアムの池で洗いなさいと語られました。盲人がイエスさまのおことば通りにしたところ、彼は見えるようになりました。

 いったいどういう訳でいやしが起こるのでしょうか。もちろんそれはイエスさまが十字架によって私たちの罪や咎(とが)、さらに病を負って死んでくださったからに他なりません。そこには復活の力が働いています。

 ある方々は、イエス・キリストによるいやしは、後に私たちが受ける復活のからだの先取りであると論じています。私たちは主イエスを救い主として信じた時に永遠のいのちを頂きました。そしてそればかりではなく、私たちにはもはや死ぬことのない御霊のからだ、復活のからだが用意されているのです。これはイエスにおいて成就しており、この御霊の体は、朽ちることも病むこともありません。そして、現代にあって働くイエスさまのいやしは、この御霊のからだを先取りして頂くものであるといわれているのです。

 イエスさまはまたご自分のことを医者だと語られました。深い慰めをもって私たちにご愛を注ぎ、私たちを建て上げてくださいます。あなたもまた、イエスを主とお呼びし、ご愛の内に帰りましょう。私たちの人生に困難や病が許されるのは、そこに神のみわざが現されるためであるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年7月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年7月12日月曜日

信仰は奇跡を生みます。

 大学卒業後、私は神学生になりました。キリスト教界にはジョージ・ミュラーという信仰者がいます。孤児院の働きをしておられましたが、公私ともに生活に必要なすべてを、ただ神にのみ申し上げ、全能者の御手によって養われ、神の栄光を現した器です。常々このような神さまの働きに与りたいと思っていましたので、これを機に、すべてを神に頼る生活を私なりにスタートさせました。

 まず、私は無職なので糧を得る必要がありました。この時自分で職を探すのではなく、祈り一本で行こうと思いました。結果は、神さまは私にも、神がジョージ・ミュラーに応えてくださったのと同様なご栄光を現してくださったのです。ミュラー同様に信仰に立つなら、ミュラー同様に奇跡を見たのです。そして知ったことは、ジョージ・ミュラーが特別な器だというのではなく、彼が信じたように信じるなら誰でも同じようなことが起こるということです。

 神学生になっていたので、私はまずすべての科目を取りました。教会奉仕もあり、結局自由に使えるまとまった時間は月曜日の昼過ぎから夜にかけてしかありませんでした。神さまに祈るのはコツがありまして、へりくだって正直に弱さを打ち明けるのが良いです。私には稼ぐ力がございません。虫が良すぎるかもしれませんが、体力不要で高賃金のアルバイトをください。そう祈ると、教員免許を持っていることを思い出しました。脳裏には「予備校」という思いが来ます。

 するとどうでしょう。1週間ほどたった頃、思わぬところから家庭教師をしないかという話が回って来たのです。奇跡の手が遂に動きました。私の前に既に2名の人がいて、私は3番目でした。話を聞いてみると家庭教師ではなく予備校の講師でした。面接に当たる方はクリスチャンで、私の証を聞くとまだお会いしたこともないのに、即採用を約束してくれました。時給も可能な限り優遇してくれました。これは奇跡でした。神の手が動いたとしか言いようがありません。生活は完全に支えられました。

 マタイの福音書77節には「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と書かれています。

 求める、捜す、たたく、これらは徹底して行いなさいうという意味です。そして互いに関連性があると思います。まずは広く求め、次いで絞られてきたらポイントを捜し、ここぞというところでは叩くのです。すると主の最善が開かれていきます。

 信仰と奇跡は密接な関わりがあります。信仰は奇跡を生みます。期待を持って主に近づくなら、神は必ずその手を動かしてくださいます。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年7月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年7月5日月曜日

キリストとの出会い

 人生は出会いで決まると言います。確かに人の人生を左右するのは出会いです。朱に交わると赤くなるといいます。教員をしている友人は、どういう友だちと一緒にいるかということがその子の人生を決めると語りました。

 某国の宣教師であるSさんは、カミナリ族でした。暴走族の前身です。当時は「不良」という言葉があって、彼は不良青年でした。学校はともかく3年間で彼らを卒業させることに力を傾け、彼らは好き放題をして過ごしていました。

 ところがSさんは一冊の本と出会いました。三浦綾子さんの『塩狩峠』です。彼はその本でイエス・キリストを知ったのです。キリストを知る素晴らしさの故に彼は献身し、すべてをなげうって宣教師になりました。勉強ができないはずの彼ですが、英語を話し現地語を話し、多くの人々にイエス・キリストを述べ伝え、彼が不良青年であったことなど微塵も感じさせない働きをしておられます。

 彼に起こったことは何だったのでしょうか。聖書に次のような一節があります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです」(コリント人への手紙第二51718節)

 このことばが、Sさんの身に実現したのです。古いSさんは過ぎ去り、キリストにあるSさんとして新しく誕生したのです。ある人はこれを新生体験と言います。救いにはこれほどまでの力があるのです。

 聖書にザアカイという取税人の頭が出てきます。彼は嫌われ者で、金を愛する者でした。しかし、その彼にイエスさまは歩み寄ってくださり、彼は一変しました。救いが来たのです。ザアカイは財産の半分を貧しい人達に施し、だまし取った物は4倍にして返すと宣言しました。神によって新しく生まれたものは罪のうちを歩むことができなくなります。聖霊さまが内住してくださっているからです。

 またサウロ、後のパウロは、キリスト者を迫害していました。しかし、ダマスコ途上で天からの光が彼を照らし、イエスの声を聞きました。彼の人生は一変し、パウロはキリストイエスの使徒となります。

 人生は出会いで決まります。イエス・キリストとの出会いによって私たちは新しく造られた者となります。すべては新しくなります。どうか今日、主イエスを救い主としてあなたの心にお迎えください。神の道は私たちの道より高いのです。私たちをお造りになった方は、私たちが造られた目的をご存知です。神に聞き従うことによって、私たちはその最善の人生を受けるのです。この道に進みましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年7月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/