2022年12月29日木曜日

恐れる必要はありません。 

 イスラエルの神・主は、ご自身の民であるイスラエルを深く愛しておられました。申命記1章によると、不信仰によって神に聞き従わなかったイスラエルはさばかれ、40年間、彼らは荒野への道を行くことになりました。しかし、その荒野にあっても主は「全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれた」と書かれているように(31節)、民を抱きかかえるようにして守られました。また84節には「四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」と書かれており、さばきとはいえ、そのお取り扱いは神のご愛と守りのうちにあったことが記されています。

 私たちは、ここから何を学ぶべきでしょうか。それは、神の愛です。主は愛の神です。そのあわれみは深く大きく、さばきにあっても私たちに対するあわれみで胸を熱くしておられます。神は、私たちを助けてくださいます。確かに、義なるお方なので私たちの罪はさばかずにはおられませんが、同時にそのご愛によって、助けの御手を差し伸べずにはいられないのです。

 ヨハネの福音書ではこのように書かれています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(316節)

 父なる神さまは、世にある私たちを愛しているが故に、ご自身のひとり子イエスさまを下さいました。イエスさまは、肉において私たちの罪を負われ、十字架の死、そしてそれに続く復活によって、尊い血潮を流し、贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。これによって御子を信じる者は義とされ、私たちは一度も罪を犯したことのない者の祝福を受けるようになりました。ここに神は私たちへの愛を示しておられます。

 日々の生活の中で、私たちには内にも外にも恐れがあります。人生には予期せぬ悩みや困難がつきものです。しかしその中にあっても、私たちは、神にあって圧倒的な勝利者となります。なぜなら、私たちの信仰生活は、私たちの力によって成り立っているのではなく、神によって支えられているものであるからです。

 ローマ人への手紙8章には、このような一文があります。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(中略)私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(略)私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(3139節抜粋)

 何があろうとも、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことができるものは一つとしてないのです。ですから、私たちはもはや襲い来る患難や問題を恐れる必要はありません。神の愛は問題よりも強いのです。そして、主のくびきは負いやすいのです。あなたではなく、神があなたを支えています。それ故、どのような問題においても、私たちは勝利しています。何があろうと恐れる必要はありません。

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月24日土曜日

神は光 

 神さまってどんなお方か、というとヨハネの手紙第一ではこう書かれています。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(15節)。これを語ったのはヨハネです。ヨハネは、イエス・キリストの12弟子のひとりで、主がことに愛された最年少のしもべです。彼は、神を語るときしばしば光というふうに言い表しています。

 例えば、よく知られているのは、ヨハネの福音書15節や9節で、それぞれ「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(9節)と書かれていて、光は神と置き換えることができます。光は神の属性で、改めて顧みるとそこには強力な力が発揮されています。

 神は光であり、光は闇に対して圧倒的な勝利を持っています。私は、暗所が苦手です。真っ暗で何が置かれているか分からないので、動けばあちこちに体をぶっつけてしまうのが嫌で、闇の中は怖くてとても動けません。しかし、そこに一筋でも光がともるとどうでしょう。たちまちすべてがあらわになります。瞬く間に闇は退き、その様は光の闇に対する勝利です。どんなに深い闇であっても、闇は光に打ち勝つものではないのです。そしてこのような圧倒的な力こそ、まさに光が持つものなのです。

 それ故、私たちの心が暗闇の中にひしがれているとき、こころに光をお迎えしましょう。光とは、御子イエス・キリストです。イエスさまは神のひとり子で、私たちを救うために世に来られた救い主です。イエスさまを信じる者は、死からいのちへと移っており、たましいの救いさえも受けています。

 こころの暗闇をこのキリストの光で照らす時に、私たちは自分を知り、また罪を知り、変えられていきます。ですから、こころに光を置きましょう。すると、闇は消え去ります。そして見えるようになったら、こころのお掃除ができるのです。私たちの一つ一つの罪もまた赦され、解放されてゆきます。

 大切なことは、イエスさまをこころにお迎えすることです。あなたのこころは今、何でいっぱいになっていますか。古いものは捨て、新しくキリスト・イエスをこころにお受けください。神のご愛はあなたを捉え、あなたが新しい人として生きてゆくよう導いてくださいます。時は満ちて来ています。

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月17日土曜日

クリスマスの主役 

 年の暮れが近づくと、あちこちでクリスマスツリーを目にします。クリスマスを祝うムードでいっぱいです。チキンを食べたり、ケーキを食べたり、プレゼントを贈りあったり楽しいことでいっぱいです。年に一度、その日一日だけクリスチャンに戻る人も多くいて、教会も一年に一度の大賑わいです。

 私も、クリスマスの時期になるとクリスマスの聖歌を歌いたくてわくわくします。歌わないでは、それこそ年を越せません。特に「もろびとこぞりて」や「荒野の果てに」は愛唱歌で、声を張り上げて朗々と歌うことがなんともうれしいのです。もはやクリスマスは一つの文化です。深く世に浸透しています。

 とはいえこのクリスマス、実は「冬至の祭り」をベースにしている異教の祭りであることをご存じでしょうか。エジプトに起源をもつ五穀豊穣の母子像が、マリヤとイエスに置き換えられたのがカトリックでの聖母子の由来となっているのです。

 また、クリスマスの時期は、ちょうど「冬至」に当たります。これは、太陽の死と復活を意味するものであって、クリスマスは、その日を境に日が伸びてくることを祝う「冬至のお祭り」なのです。国境を越え、広くキリスト教が受け入れられるよう、現地の土着の宗教をリメイクしたのがクリスマスの姿なのです。キリスト教が異なる文化に食い込むほどまで躍進したのは、地球上にあるさまざまな地の母子像とその土着の宗教を、母マリヤと幼子イエスに読みかえ、重ね合わせて併合したことによると私は思います。

 ところで、クリスマスの主役はいったい誰だと思いますか。イエス・キリストというのが周知の事実です。でも、赤ちゃんということで無力さばかりが強調され、救い主という面が取り上げられていません。そこで考えた私の結論は、現代のクリスマスの主役はイエスさまでなくサンタクロースになってしまっているのでは、ということです。プレゼントをくれるのはサンタですし、多くの歌のもとになっているのはサンタです。赤と白の服を着て、メリークリスマスと語り、楽しませてくれるのはサンタなのです。

 それに引き換え、幼子イエスは飼い葉桶で眠っておられるだけです。しかし、覚えてください。父なる神が下さった本当のクリスマスの贈り物は、この神のひとり子であるイエス・キリストご自身であるのです。イエスさまは30歳から公生涯に立たれ、3年半宣教に携われました。最期は十字架で、私たちの罪を担い、私たちをその流された血潮によって贖(あがな)い、死なれました。そして、3日目によみがえられたのです。御子を信じるものは、すべての罪を赦され、永遠のいのちを受けます。

 ですから、このクリスマスの時、どうかイエス・キリストその人に、その生涯に、目を留め、神からの救いをお受けください。

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカの福音書211節)

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月10日土曜日

 

 愛は、一輪のバラの花のようです。かぐわしく、高貴で、たおやかで、しかもその茎にはとげを備えていて。派手なようでもどこか孤独で繊細で、私たちを魅了してやみません。

 私にとって愛はそういうイメージです。日本語では愛が意味するところは広いのです。比較すればギリシャ語では一口に愛といっても、少なくとも3つの言葉に分かれます。一つは神の愛を指し示す「アガペー」、次いで友愛を表す「フィレオー」、男女間の愛である「エロス」です。言葉が違うということは、その内容に区別があるということです。

 私の夫の母は、愛の奇才でした。夫は病弱で、長くは生きられないと医師から言われており、大切に育てられていました。でも小学校に入るようになると次第に勉強のことが言われるようになります。そんなある時、義母は単身小学校に乗り込み、先生を相手にたんかを切りました。「この息子は生きてさえいればそれでいいんだ。だからな、勉強しろなんて絶対言うんじゃないぞ」こんな大きな愛に夫は支えられていたのです。

 この義母を見て私は、親の愛というものは、どんな時でも無条件で自分の味方をしてくれるものなのだということを知りました。もちろん罪を犯した時、その罪は正しく裁かれます。しかし、だからといってその者を愛することをやめたりなどするでしょうか。しないです。豊かに赦し、むしろ立ち直ることができるよう、ねんごろに悔い改めへと導いてくださいます。だからこそ、この掛け値なしの無条件の愛は貴いのです。

 私たちは、例外なく罪の中に生まれ、やがては死んでゆく存在です。それをご存じな神さまは私たちを愛してくださり、罪過の中に死んでいる私たちをあわれんでくださいました。父なる神は私たちを救うために、ひとり子イエスさまを下さったのです。神さまにとってそれは大きな犠牲でした。しかし私たちへの愛ゆえに、神は私たちのすべての罪をイエスさまの上に置かれたのです。イエスさまは、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、神の大能の御力によって三日目によみがえられました。

 事実イエスさまは、約2千年前に初臨を果たされています。私たちを救うために肉を受け、世に来られたのです。そして3年半の公生涯の中で、ご自身が約束のメシアであることを世に示し、罪過に死んでいる私たちの身代わりとなって罪を担い、十字架での死によって私たちの贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。

 この主イエスの十字架を信じることによって、私たちは神と和解し、永遠のいのちを頂きます。そして後には、もはや死ぬことのない復活のからださえも受けるようになるのです。神は愛です。私たちはこのご愛のうちを歩みましょう。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書316節)

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年12月3日土曜日

感謝を学ぼう 

 コロナウイルスとの戦いも3年を数えるようになりました。ロシアによるウクライナとの戦争も、収まるどころかその影響を受けて、地球規模で戦争の火種が動き始めています。また、家計を預かる主婦として、食物を初めとして、公共料金やさまざまなものが一斉に値上げを始めていて、生活の厳しさを肌身で感じています。インフレです。これからお金の価値も変わるでしょうし、既に電子マネーが力を持ち始めています。21世紀は、20世紀とはまた別な時代として日々歩みを進めています。AIITを用いた世界のこれからは、黙示録を解き明かすものとなるでしょう。

 私たちが向かおうとしているこれからの社会は、最終的には一握りの支配者と多くの奴隷(被搾取層)というような構図になると言われています。そうなれば、今までにはなかったような厳しい時代になるでしょう。そして、それらはキリストの再臨が近いということのしるしです。

 マタイの福音書6章でイエスさまは、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)と語ってくださいました。本当にその通りです。私たちは日付けを越えてまで心配を引きずる必要はありません。また、パウロはピリピ人への手紙4章で「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(67節)と書きました。

 知っていただく、というのがイエスさまの恵みを表しています。神さまは、私たちを愛しておられるので、私たちに常に深い関心を寄せてくださっています。神は、思い煩う私たちの成り立ちをご存じであるので、そうではなくて感謝をささげなさい、祈りなさい、痛んだ心を差し出しなさいとねんごろに語ってくださっているのです。そしてそうすることによって確かに神は、私たちの心と思いを守ってくださいます。神の慰めは実に深いのです。

 終わりの時代になると、戦争や飢饉(ききん)など、さまざまな患難困難が勃発します。それ故その時代に生きる私たちは、感謝することを学んでいきましょう。どれ程悪いことがあっても、神は全てを働かせ、それを益と変えてくださいます。私たちは、神に愛されているのです。

 テサロニケ人への手紙第一5章に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1618節)という一文があります。私たちはここから、感謝を学びましょう。「すべての事について」と書かれているので、感謝できないような悪いことも感謝の対象です。そして今がその時です。どのような患難が来ようと、主は私たちの避け所となってくださいます。神はご自身に身を避ける私たちを、感謝の人として勝利のうちに立て上げてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2022年12月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年11月26日土曜日

いざ死を前にした時~父のラブレター 

 私の両親は、大恋愛の末、結婚しました。母の里は、父を婿養子に迎えたいと言ったそうです。しかし、嫁にもらいたいと、あくまで父は信念を通し二人は結婚しました。

 そんな二人であっても、子が生まれ、結婚生活も落ち着くと、父は他に女性をつくりました。母の苦しみはここから始まり、家庭には離婚の2文字が絶えず重くのしかかっていました。ところが、いよいよ別居しようという時、主の手が動きました。父が肝臓がんであることが分かったのです。

 非常事態で、別居は棚上げ。母は、残り少ない人生、一緒に居たい人といるのが良いと考え、そのことを父に伝えました。父はここで初めて自分の齢(よわい)を見、今大きな岐路に立たされていることに気付いたのです。父が出した選択は、母でした。そして家庭です。本当にイエスさまは父母をあわれんでくださいました。二人は生まれ変わって2度目の新婚夫婦となり、ともに一つとなって闘病に向かいました。

 病気は進み、召される前に私が差し出した紙に、父は渾身の力を振り絞って何かを書きつけました。ひときわ大きな字で「有難う」と、小さな字で「ごめん」、そして「陽子へ」と読めました。それは、ラブレターでした。母に向けられた、母にしか読み込めない二つの言葉です。

 いざ死を前にした時、人は何を思うものなのでしょうか。殉教者ステパノは、石打ちにあいましたが、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と語ると、ひざまずいて、大声で叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(使徒の働き75960節)

 イエスさまも、十字架にかけられた時こう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカの福音書2334節)。二人とも、自分を殺そうとする相手とその罪を赦し、とりなし、祈っているのです。

 小さな偶然が重なって、私もまた十数年前に、今まさに死ぬという極みを体験したことがあります。今まさに天に行くという時、うれしかったのは、同43節の「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」ということばが信じられることでした。今日中に天国(パラダイス)に迎え入れられるというのは緊張しましたが、やはり力強い約束です。ただちに移されるということばは心の恐れを消し、約束通りイエスさまが共にいてくださいました。

 興味深いことに、死を前にしたら世にある戦いやねたみそねみの数々は、一斉に遠くなります。それらは実に小さなことで、そんなことよりも、目の前にいる人の1人に福音を宣べ伝えるほうがはるかに素晴らしいと、心の向きさえ変わりました。

 また、赦すことも重要なことでした。私たちは罪人(つみびと)ですから、神の前に互いに罪を言い表し、赦し、捨てることが大切です。ステパノも主イエスも、自分を殺す者を赦して死んでゆきました。彼らの罪が残らないためです。神があわれんでくださるために、そうされたのです。

 いざ死を前にした時、頼りになるのはやはりイエスさまでした。主のうちにはすべてがあります。勇気を持って主イエスを信じ、神と和解し、神と共にある人生の祝福を、お受けいたしましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年11月21日月曜日

ハロウィーン 

 1031日は、ハロウィーンでした。皆さんの頭には、今年、某国で起こったハロウィーン圧死事故のことが思い浮かぶのではないでしょうか。道路に群衆が押し寄せ、身動きが取れず、少なくとも150名以上の人々が命を落としました。

 これから、12月のクリスマス、1月の新年、2月のバレンタインデーなど、世は祭りが続きます。祭りといえば、そこには意味があります。多くは収穫を祝うところから来ているのですが、実際、祭りの背景には霊的な意味があるものなのです。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日とされていますが、実は冬至の祭りがベースになっており、バレンタインは、修道士バレンタインが、生活に困る者に必要な金品を贈ったという史実から、チョコを送って愛を確認する日になりました。日本の新年は、お正月さまを迎える日としてお祝いをします。

 ハロウィーンは、日本では近年になって祝われ始めました。多分、お菓子屋さんが火付け役になっていると思います。ハロウィンは、もともとは古代アイルランドに住んだケルト人を起源とするものです。古代ケルトの暦に従って111日には諸聖人に祈りをささげる「万聖節」があります。その前夜祭として大みそかの31日に、ハロウィーンが持たれるのです。伝承では、この日に先祖の霊が戻ってくると言われています。しかし、悪霊も一緒にやって来て、作物に悪い影響をもたらしたり、子どもをさらう、と信じられていたので、そこから身を守るため仮面仮装に身をまとうのです。そして、かの有名な「トリック・オア・トリート」の声があちこちで聞かれます。

 悪魔や魔女に扮し、お菓子をもらうことは、一見、無害で楽しいお祭りのように見えます。しかし、それは隠れた罠です。冷静になって考えると、悪魔の衣装を着て喜ぶなど、祭りでもなければ普通では考えられないことです。某国で起こったハロウィーン圧死事件は、その背後にハロウィーンに働く霊の関与があったと私は考えています。一気に150人を超える者の命が失われたのです。ここまでヒートするのは祭りであるからで、やはり祭りの土台には霊的な動きがあるとされるべきでしょう。祭りを良いことに、その危険な霊を無自覚に受けているのです。

 霊的な事柄に関して、聖書は一つの指示を与えています。「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。(中略)イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」(ヨハネの手紙第一413節)というものです。

 霊には力があります。しかし、一口に霊と言っても、神から来るものと悪霊によるものがあります。そのことをわきまえ知ることができるよう、試し、見分ける必要があるのです。

 救いは、主イエスに属するものです。イエスを持っている人はすべてを持ち、永遠のいのちまでも持っています。一方、イエスを告白しないものはどれ一つとして神の霊ではありません。行き着くところは永遠の滅びです。イエスは主、また、いやし主です。救いは、イエス・キリストにある、これこそ私たちの信仰であり、また確信です。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年11月12日土曜日

弱さを誇る 

 キリスト・イエスの使徒であるパウロは、成功者であり、世が推奨するものすべてを持った人物でした。生まれながらのローマ市民で、最高学府であるガマリエル門下に属し、律法においては誰よりも進んでいました。エリートと呼ぶにふさわしい者であったのです。

 ところが、皆さんがご存じのように、青年サウロはキリスト・イエスに対する迫害に燃えていました。祭司長たちからの権限と委任を受けて、聖徒たちを追ってダマスコまでやって来ました。そして、そこで主の声を聞きます。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ

 それはイエスさまの声でした。イエスさまがサウロに現れてくださり、この一件を機にすべてが一変します。迫害者サウロは、キリスト・イエスのしもべパウロに変えられ、この日を境にパウロは今まで迫害してきたユダヤ人に対して、一転して福音を信じるようにと説く神の器になりました。

 その後のパウロの働きは素晴らしいものでした。詳しくはコリント人への手紙第二1112章に記されています。11章でパウロはキリストの福音のために、誰よりも多く患難困難の中を通ったことを記しています。今までのパウロの力は、自分の強さ、すなわち社会的成功にありました。しかし、その日以降は自分の弱さ、すなわちありのままの彼を通して働いてくださるキリストの力により頼んで生きるようになったのです。

 1130節でパウロは「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」と語りました。「弱さ」は「足りなさ」と言い換えても良いでしょう。この足りないところにキリストの素晴らしさが働くのです。弱さのうちにいかにキリストの力が働くのかをパウロは知っていたのです。それで、パウロは「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(129節)と言い得たのです。

 このことは、長年、弱さは乗り越えるべきハンデイだと思っていた私にとって、驚くような教えです。しかし、イエスさまはパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(129節)と語られました。弱さは、一見マイナスのように見えます。しかし、それは世の認識であって、神と共に歩む人生において弱さは、神のみ力の現れとなり、また私たちに大きな恵みをもたらすものであるのです。

 こういう訳で、私たちもまたキリスト・イエスを信じ、救い主として、また自分の主として心にお迎えいたしましょう。私たちの力は、他でもない主のうちにあります。何を誇りとするかと問われた時に、弱さと答えたパウロのその信仰に倣いましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年11月6日日曜日

天国 

 昨年最後の日曜日に、教会の姉妹が召天しました。姉妹とは、教会のスタート時から今に至るまで30数年間、共に教会で過ごしました。親しい方であったので第一報を聞いた時には驚きました。けれども、彼女は天国に行った、ということがなぜかよく分かりました。そして、天国が急にとても近く感じられるようになりました。

 天国は、私たちクリスチャンにとって故郷でありホーム(家)です。懐かしい方々がそこにおられます。すべてのことを感謝することを教えてくれたマーリン・キャロザースさんや若いころ大変お世話になった新井先生、断食祈祷の力を教えて下さった崔子実先生も。フィリピンで殉教したジャッキーやジュリエッタたち、そして私の父も息子も。他にもSさん、Mさん、Tさん、Aさんもと枚挙にいとまがありません。多くの友人知人が既に御国の子となって、パラダイスにいます。ひょっとすると地上にいる私たちより天にいる者たちのほうが人数多くなったかもしれません。

 天に召されて、今、姉妹は、天国のすばらしさに満ち足りていることでしょう。先に天に行かれたご主人とも再開を果たされたでしょうし、ひょっとしたらマーリンさんとともに「プレイザロード」と神を讃えているかもしれません。姉妹の喜びが伝わってくる思いがします。

 天国がどれほど素晴らしいところか、皆さん薄々は分かっておられるように思います。しかし、知ってはいても、この素晴らしい天国に入るにはどうすればよいのかまで知っている人は極わずかです。また、死んだあと自分はどうなるのか、これも誰もが問いたい疑問です。

 聖書によれば、イエスさまを自分の救い主と信じる者は、罪赦されて、死んだらパラダイス(天国)へ行きます。しかし、信じることをせず、罪の赦しを受けない者は、おのれの罪と不義の中に死にます。そしてハデス(黄泉)に置かれるのです。日本語では、一口に「地獄」と言われていますが、聖書では地獄は「ハデス」と「ゲヘナ」の2つに分かれていて、前者ハデスはキリストを信じないで亡くなった死者が一時的に置かれる場所で、後者ゲヘナは、文字通りの地獄で、昼も夜も苦しみを受ける硫黄の燃える火の池です。

 信じることによる天国の救いのハードルは、驚くほど低いことを知ってください。ローマ人への手紙10章には、このように書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(910節)

 すべての者が救われるために、神はただ御子を信じることを唯一の救いの条件とされました。信じるならば救われる、ただこれだけです。神はあなたが信じて永遠のいのちを受けることをみこころとされています。福音を信じましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年10月29日土曜日

核戦争

 人類は、今まで2発の原子力爆弾を投下し、用いました。第二次世界大戦の中でのことで、広島そして長崎は一瞬にして焦土と化し、多くの人が亡くなりました。戦争がどんなに悲惨なものであるのか、それを風化させないために多くの人々が語り部となり、平和の尊さを訴えました。世界中の人々が今も爆心地を訪れ、平和への誓いを新たにしています。

 広島、長崎の原爆投下で分かったことは、核兵器を用いると地球は滅びるということです。今ある核兵器だけでも優に地球を何回か滅ぼしてしまうほどの殺傷力があると言われています。核のボタンを押すだけで発射されて、受ける相手側も報復で核を使うなら、それはもう、地球全体を巻き込む核戦争となります。今やこれは周知の事実です。

 世界規模で、核を持つ、あるいは持たない、ということの微妙な均衡を保ちつつ、今の社会は成り立っています。これを崩さず上手くやってきたのに、今回そこに踏み込んできたのがロシアのプーチン大統領です。ご存じの通り、ロシアは今ウクライナと戦争を始めています。核を使うということを口にしており、水面下の駆け引きがあるようです。

 今後、核戦争は起こるか、この問いに関して私の意見はイエスです。聖書のペテロの手紙第二では、この世は火に焼かれるためにとっておかれていると書かれています。そして、私は、火で焼かれるとは戦争に核が用いられることではないか、と思っています。

 310節にはこう書いています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」。また、12節でも「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます」と書かれています。大規模な核兵器が使用される時、地球だけでなく天の万象さえも巻き込んだ崩壊が訪れるように読み取れます。

 第二次世界大戦終了後の1945年から、1989年のマルタ会談の調印までの40年以上の間、米ソ冷戦時代がありました。その間、核兵器は殺傷能力を高め、またボタン1つでいつでも用いられる状況になりました。宇宙を巻き込んだ戦争の舞台設定ができたのです。そしてそれは、そのまま一旦幕引きされました。

 そして、今21世紀になり、幕は再び静かに上がりました。時は満ち、今は終末という時代です。イエスさまの再臨のしるしが現れています。確かに万物は火によって焼け落ちてしまいます。しかし、その後には万物は改まり、新しい天と地が天より下って来ます。全ては一新されます。目を覚まして、その日を待ち望みましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年10月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年10月20日木曜日

神の戦い

 サタンという存在は空想上のものではなく、現実にいるものであって、私たちが生きている間、私たちは何かとサタンからの攻撃を受けます。サタンは神に愛されている「人」という存在をひどく憎んでいます。サタンは自分がやがて燃える火の池に投げ込まれることを知っているので、1人でも多くの人間を救いにあずからせまいと暗躍しています。そして、ここに、霊の戦いというものが起こります。時々ニュースで取り上げられる大事故などは、サタンの介在を思わされるものが多いです。

 憎しみや殺意を抱きながらも、それを隠して近寄ってくるサタンに、多くの人が惑わされています。サタンがどういうものかといえば、その名の通り、まず、破壊者です。へブル語でアバトン、ギリシャ語でアポリュオンといいます。また、ベルゼブル(蝿の王)とも呼ばれ、無価値とも愚かなものとも呼ばれています。また、光の御使いにも化けると言われていますし、サタンは大ウソつきであるのです。

 人がエデンの園に置かれた時、神は人に「あなたはどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記21617節)と言いました。サタンである蛇は、直接それを聞かなかったエバを狙って噓を言います。「神はほんとうにそう言われたのですか?」するとエバは早くも惑わされて、「死ぬ」ということばを「死ぬといけないからだ」というふうに聞いてしまいました。「死ぬ」と「死ぬといけないからだ」では大違いです。

 そこで、狡猾な古い蛇であるサタンは、ダメ押しの一言「決して死にません」と偽りを語ると、エバはいかにも美味しそうなその実を取って食べました。夫・アダムにも与えたので、2人は食べ、原罪が生じ、神のことば通りに死が生じました。そして、このままで永遠に生きることがないようにと、エデンの園から追放されたのです。

 サタンを直訳すると「神の敵」という意味になります。サタンは、もともとは天の御使いの頭(かしら)でした。ルシファーと呼ばれた、芸術や音楽に秀でた天使でした。堕落する前までは落ち度なく天で神に仕えていました。しかし、ある時ルシファーは自分が神になろうとしたのです。そこに罪が生じ、直ちに天から追放されました。そして、彼に従う天上の天使たち、およそ3分の1とともに地に下ったのだと言われています。彼らは堕天使であり、地において悪霊として働いています。

 確かに、神とサタンの対決ということは絶え間なく起こっています。しかし、その戦いはとっくに決着がついています。なぜなら神は全能者であり、サタンは被造物だからです。神さまはサタンをも造られたお方です。到底互角の戦いにはなりません。サタンが働けるのも、神の許しの範囲内であってのことだからです。神に比べればサタンは、はりぼて同様です。彼らができるのは、せいぜい惑わしです。

 ですから忍耐をもって事に当たりましょう。サタンは告発者です。私たちの罪を昼も世も休みなく、神に訴えています。しかし神は、私たちを赦し、建て上げてくださるためにイエスさまをくださったのです。御子をさえくださった神が、この戦いを助けてくださらないことがあるでしょうか。これは神の戦いです。主イエスの十字架を見上げ、信仰を固くして行きましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年10月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/