2014年3月25日火曜日


雪よりも白く
 北海道には、越冬キャベツなるものがあります。雪の中にキャベツを寝かせて
おいたものですが、どこの産地にもまして甘みが豊かです。
 また、雪の下におがくずをひいて、かぶと虫の幼虫を育てている所もありま
す。それらすべての営みを雪はすっぽりと覆い、一面の沈黙を守っていま す。
 さて、黙示録7章14節には次のような一節があります。「彼らは、大きな患難
から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊の血で洗って、白くしたの です」と
いうものです。
 子羊とはイエスさまのことをさしています。イエスさまは、約二千年前にこの
世に来られた神のひとり子です。しかし罪に満ちたこの世は、救い主で あるこ
の方を死刑にするようポンテオ・ピラトに求め、イエスさまはカルバリの丘で2
人の罪人とともに死なれました。
 罪の無い方、キリストが死なれたのは、私たちの罪が贖われるためでした。旧
約時代に罪のための贖いとして羊がささげられていましたが、その羊に 代わっ
てただ一度、イエスさまは全人類の罪を負い、十字架でいわば「ほふられて」く
ださったのです。
 こういうわけで、今や神は、世にあるすべてのものがご自身の下に帰って来る
よう、救いの道を完成させてくださいました。
 私たちが持つ罪は無くなることはありませんが、神はイエスさまの贖いを通し
て私たちを見てくださるので、私たちはあたかも一度も罪を犯したこと の無い
者であるかのような祝福と恵みを頂きます。
 雪が大地を覆うように、キリストの血潮は私たちを覆いました。私たちは雪よ
りも白くされたのです。十字架は神との和解です。あなたも御父の元に 帰りま
しょう。  (イスラエル北野)

 

 


み声新聞2014年3月30日号(第773号)より転載—

2014年3月21日金曜日


信仰と忍耐
 神さまは時を支配しておられますが、特徴として遅れ気味になるようです。
 私たちは、リバイバルについて「もし遅くなってもそれを待て。それは必ず来
る。遅れることはない」(ハバクク書2章3節)という約束を頂いてい ます
が、それからもう30年にもなりました。
 また、イエスさまはラザロを死人の中からよみがえらせましたが、それは死ん
でから4日もたってからのことです。望み得ない状況をあえて選んで、 主はこ
の奇跡をあらわされたのです。
 ぺテロの手紙第二3章には「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は
一日のようです。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約 束のこ
とを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたに対して忍耐深くあ
られるのです」と書かれています。千年が一日とは、神さまは何 とスケールの
大きいお方でしょう。
 私ごとになりますが、3月1日で自動車の車検が切れました。車検を通す費用
で、程度のよい中古車が買えるとアドバイスを受け、与えられるよう ずっと
祈っていました。ところが、待てど暮らせど必要が満たされません。ついに、3
月1日がやってきましたが何も起こりません。鉛を飲み込んだよ うな重さが胸
にのしかかってきました。
 スタートはここからでした。なお、主に望みをおいて祈り、条件の合う中古車
を一つ見つけました。時を同じくして必要が満たされ契約しました。
 信仰が試されると忍耐が生じます。また、すべてにおいて神の「時」があるの
です。私たちの時間では「もはやこれまで」でも神さまの時間では、ま だこれ
からです。信頼して粘り強く求めてゆきましょう。
(イスラエル北野)

 み声新聞2014年3月23日号(第772号)より転載—

2014年3月13日木曜日


再 会
 一つの時の節目にきたのでしょうか。昨年11月に天に召されたマーリン・キャ
ロザース氏と前後して、私たちの愛する兄弟姉妹や知人が相次いで天 に帰られ
ました。別離の悲しみはありますが、天国はとても近くなりました。
 聖書には、天国にいのちの水の川が流れていることが書かれています。マーリ
ンさんがあふれる喜びを持ってこの川に飛び込み、心ゆくまで楽しみ主 をたた
えている姿が思いに浮かびます。お悔やみなんてとんでもない、約束のみ国に入
れられたことをおめでとうございますと申し上げたいくらいで す。
 キリスト教は素晴らしい宗教です。なぜなら私たちの人生は死んで終わってし
まうのではなく、天で生きる、キリストの永遠の命を頂いているからで す。た
とえ死んでも、天と地に分かれても、やがては天で再会する、この恵みと希望が
あるのです。
 ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。「これらの人々はみな、信仰の人
々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした が、は
るかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白してい
たのです。(中略)彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の 故郷にあこが
れていたのです」(111316節)というものです。
 天の希望、再会の希望が私たちにはあります。書かれている通り、この地上で
の生涯は、永遠の中のほんの一部分です。天国こそ私たちのまことの故 郷であ
り、それは永遠に続きます。
 これから、天と地をつなぐ救いの御業が大きく展開してきます。リバイバルは
始まってきています。イエス・キリストを信じ、天国への切符を受け取 りま
しょう。
         (イスラエル北野)

 
み声新聞2014年3月16日号(第771号)より転載—

2014年3月3日月曜日


ゲッセマネの祈り
 聖書には、多くの祈りが記されていますが、その中でもイエスさまが祈られた
ゲッセマネの祈りは特別です。
 イエスさまは、長老や祭司長たちに引き渡される夜、ゲッセマネの園で心血を
注いでこう祈られました。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。し
かし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、な さってく
ださい」(マタイの福音書2639節)汗が血のしずくのように落ち、御使いが現
れて、イエスさまを力づけました。
 杯というのは、イエスさまが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださると
いう救いのご計画のことです。
 イエスさまは、世に来られたご自分の使命が十字架の死と復活であることをご
存じでした。にもかかわらず、肉は弱いのです。わたしたち人類のすべ ての罪
を一身に背負い、たとえほんの片時であっても、父なる神さまが裁きによってみ
顔をかくされる、その十字架の死は、イエスさまにとって耐えが たい苦しみ
だったのです。
 それでもイエスさまは、私たちを愛するがゆえに、十字架の死を否まれず、そ
の力を父なる神に求められました。それが「わたしの願うようにではな く、あ
なたの御心のように、なさってください」という祈りとなったのです。
 神さまの御心はいつも最善です。とはいっても、肉ではそれを選べない時があ
ります。その時こそ、この「ゲッセマネの祈り」をささげましょう。わ たしの
願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください、と最後には
そう祈るのです。
 そうすれば、神さまは、必ずその祈りと願いを聞き入れ、あなたに御心の道を
選ばせ、最善の祝福を与えてくださいま す。 (イスラエル北野)

 

   
み声新聞2014年3月9日号(第770号)より転載—