2018年3月28日水曜日


神の戦い

 ダビデとゴリアテ。この二人の戦いは広く世に知られています。ぺリシテ人とイスラエルの間に戦いがあった時、ぺリシテ人の代表戦士である大男ゴリアテは、毎日イスラエルの陣をなぶりにきました。彼は職業戦士であったので、一対一で戦おうでないかと語り、イスラエルの陣営を恐れさせていました。
 ところが偶然これを見、聞いたダビデはイスラエルの神の憤りをわが心とし、ゴリアテと闘うことを決意します。ダビデが紅顔の美少年であったのでゴリアテは見くびり、ぺリシテの神々によってダビデを呪い、おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろうと言いました。
 それに対してダビデは次のように言いました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ」「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう」「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(サムエル記第一174547節抜粋)
 こうして、互いに迎え撃とうと近づくと、ダビデは袋の中から石を1つ取り、石投げでそれを放ちました。石はゴリアテの額に食い込み、彼はうつぶせに倒れました。ダビデの手には一振りの剣もありませんでしたが、石投げと一つの石でぺリシテ人を打ち殺してしまいました。
 これが神の戦いなのです。ぺリシテ人の敗因は、イスラエルの戦陣の神を知らなかったことにあります。この戦いは人と人の戦いではなく、「神々」と唯一の全能者である神との戦いであったのです。全能者は負けるはずがありません。それ故、私たちは神を恐れましょう。私たちの戦いは神の戦いなのですから。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月1日号(第983号)より転載—

2018年3月21日水曜日


さみしい家

昔の小道を囲むようにして民家が立ち並びます。その中の1軒が私の乳母(子守さん)の家です。幼い頃になれ親しんできた昔の家は無くなっており、現代風の家が建っていました。
 家は、乳母の長男であるTさんが住んでいます。定年まで企業で勤め上げ、奥さんと二人で生活されています。悠々自適のはずですが、さみしげでした。この辺りは、皆、退職金で購入した新築の家が立ち並んでいるが、一人暮らしの老人ばかりだと話してくれました。
 そういえば、乳母もそのご主人も、私たちはこうしてお迎えを待っているのだと語り、淡々と生活していました。
 今は、高齢社会ですから、仕事を人生の目的とした人にとっては厳しい時代です。定年後の人生は長くなりました。老いとともに生きていかなければならない年月があります。
 この事柄に対しては、聖書の伝道者の書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」(12章1節)という一文が寄せられています。
 人生は奥深いもので、仕事が人生の目的であると、仕事を辞めると生き方まで見失うことがあります。ですから聖書は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と語っているのです。確かに仕事は人生の中で大きなウエートを占めます。しかし、人生そのものは神との出会いによらなければ完結するものではありません。
 お金持ちの、新築の家での一人暮らしは、意外にもさみしいものでした。何の喜びもない、という前に、あなたを造られた創造者を覚えましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月25日号(第982号)より転載—

2018年3月14日水曜日

犠 牲

 愛はキリスト教の神髄をなすものです。愛に関しては、コリント人への手紙第一13章にこう書かれています。
 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」(4~6節)「愛は決して絶えることがありません」(8節)
 愛には多くの側面があります。そして、愛のある所、自己犠牲があります。イエスさまもまた、「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネの福音書1513節)と語っておられます。人を生かすために自分を捨て、犠牲となることいとわない強い思い、これこそ愛ではないでしょうか。
 かつて書物で、ある牧師のお嬢さんの話を読みました。彼女は船の事故に遭遇しました。ところが救命胴衣が全員に行き渡りませんでした。彼女は彼女の胴衣を友人に譲り、言いました。「私はイエスさまを信じているから天国に行ける。でもあなたはそうじゃない。生きて戻ったら必ず教会に行って。そしてイエスさまを信じて」。こう語って彼女は命をささげました。
 この話は多くの人々の感動を呼びました。真の愛は自分の命を投げ出すことさえも惜しみません。
 イエス・キリストは、私たちを永遠の愛で愛してくださいました。イエスさまは神のひとり子です。にも関わらず、私たちを救うために卑しいものとなり、私たちへの犠牲となって十字架を忍んでくださいました。イエスさまの死によって私たちはいのちを得ました。
 神にある犠牲は、一つの愛の形です。自分を捨てるまで相手を愛し、相手の幸いを祈る。これにまさる愛はありません。(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月18日号(第981号)より転載—

2018年3月7日水曜日

仕 事

 私は、牧師である夫とともに、何名かの方々の臨終に立ち会わせていただきました。多くの方々が、死を前にしてイエス・キリストを救い主と信じて救われました。また、既に救われている人の中には、御使(みつか)いを見た人もいます。
 天では全ての病、労苦から解放されます。天国が備えられていることは、どれほどの慰めでしょう。
 特に印象深いのは、私の父の召天です。召されてから4、5日は、永遠のいのちを頂いた父の喜びがしんしんと私にも伝わってきました。
 黙示録22章には天国の様子が書かれています。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした」(1、2節)というものです。
 父が、今や天でいのちの水の川に飛び込んで、心ゆくまでその水を飲み、木の葉を食べて、いやされ、あふれるばかりの喜びに満たされているような思いが、私に伝わってくるのです。
 けれども、ひと月にもなるとその思いも変わりました。天国には、天国の仕事があって、父もそれを行うために天国での持ち場に就いた、という思いです。
 先日、私は白馬スネルゴイキャンプに参加しました。賛美に働くご臨在が素晴らしく、天にいる聖徒たちと共に賛美しているかのように、私たちは心ゆくまで主を礼拝しました。そして、この礼拝こそが、私たちの真の仕事、永遠の仕事なのだと主に語られました。
 天国は私たちの霊の故郷です。私たちの人生は、死で終わるものではありません。永遠という時間を、私たちは神とともに生きるようになるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月11日号(第980号)より転載—