2013年10月22日火曜日


名 前
 ある人の話です。飛行機の機内食を配りにキャビンアテンダントが回って来ま
した。
 「ビーフ、オワ、チキン?」(牛肉にしますか、鶏肉にしますか)と聞かれて
鶏肉にしようと思いましたが、とっさに「バード」と言ってしまいまし た。
キャビンアテンダントは、ぎょっとした表情を浮かべ、チキンを下さいました。
 これは、鶏肉に限る話ではありません。ビーフが食べたくて「COW」と言っ
たらどうでしょう。豚肉も、ポークではなく「PIG」だったら、かわ いそう
で食べられたものではないでしょう。
 私たちは生きるために、食用として彼らのいのちを奪います。その申し訳ない
気持ちが、名前を変えるという形で現れているのではないかと私は思い ます。
バードでは食べられませんが、チキンだと食べられるのです。
 名前には全て意味があります。名前が変われば実質も変わります。
 聖書の中にも、多くの実例があります。例えば信仰の父アブラハムは長い間、
アブラムという名前でしたが、99歳になったとき神さまが現れ「あな たは多く
の国民の父となる。もうアブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハム
になる」(創世記17章5節)と語られました。以来、彼の名 はアブラハムとな
り、「多くの国民の父」という意味の名をいただきました。
 みなさんの名前も、本来の意味があると思いますが、神さまがその名前を呼ば
れる時、本当の名前の実質が現され、神さまの栄光が現されるようにな りま
す。また祝福故に、アブラハムのように、あえて名前を変えられることもありま
す。神さまは皆さんの名前を祝福されています。そして、神さまの 栄光を、そ
の名前を通して現されるのです。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年10月27日号(第751号)より転載—

2013年10月16日水曜日


和解
 エリは天幕に仕える祭司でした。彼には2人の息子がいましたが、祭司の規定
を守らず、しかも神殿娼婦と寝ている堕落した者でした。
 その行状に対してエリは、「子たちよ。そういうことをしてはいけない。(中
略)人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくだ さる。
だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とう
か」(サムエル記第一2章25節)と言いました。エリの2人の息子 の罪は神に
対するものでした。裁きが下され2人はペリシテ人との戦争の中で死に渡されて
しまいました。
 私たちは、誰一人として例外なく罪を犯すものです。私たちには原罪があり、
生まれながらの罪人です。罪人と罪人が出会うのですから、問題が生じ ます。
しかし、憐れみのゆえに神は双方に働き仲裁をしてくださいます。互いに赦し合
うという教えは、聖書の中で最も重要な教えの一つです。
 祭司エリは、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立
とうか、と言いました。しかしこの言葉は、くしくも約1000年の後 の、イ
エス・キリストによって実現します。
 イエスさまは、定められた時にこの世に来られ、私たち全ての罪を負って十字
架で死んでくださいました。また、復活の力をもって死に打ち勝ち、救 いを確
かなものとされました。罪の中に死に、滅びに至る私たちを神は憐れみ、み子イ
エスさまをくださったのです。
 十字架は和解のしるしです。あなたが神さまのもとに帰ることができるよう神
さまは一切のことをしてくださいました。私たちはただ十字架の救いを 信じる
だけでよいのです。信じるなら、私たちは神の子です。神の和解を受け入れま
しょう。  (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年10月20日号(第750号)より転載—

2013年10月12日土曜日


真の神
世には、神と呼ばれるものは多く存在します。しかし、それらは本当の神ではあ
りません。
 聖書の中にも、アシュラやバアルといった偶像の神と、それらに仕える者たち
がいたことが書かれています。
 第一列王記18章には、主とバアル、どちらが真の神か、ということを巡って、
450名のバアルの「預言者」と生ける真の神、主に仕えるエリヤた だ一人と
の対決の様子が書かれています。
 エリヤの提案で、双方のいけにえをたきぎの上に載せ、天から火を下した神が
真の神だ、ということになりました。まずは、バアルの「預言者」から 始まり
ました。彼らは朝から昼過ぎまでバアルの名を呼びましたが、何の声もなく、彼
らの習わしに従って、剣ややりで血を流すまで自分たちの身を傷 つけました。
しかし、それでもなお何も起こらなかったのです。次にエリヤが立って主に祈る
と、天から火が降ってきてすべてを舐め尽くしてしまいま した。民は「主こそ
神です」と口々に語り主を恐れました。この話で興味深いのは、バアル信者が信
仰するにあたって、自分を刺し、血を流すような自 傷行為が求められていると
いう点です。
 偶像の神に共通することの1つに、大願成就のために犠牲が求められ、そうす
ることで神々の手が動くと信じられていることがあります。お百度やチ ベット
の五体投地などがそれでしょう。
 しかし真の神は、犠牲を求めたりはしません。そんな必要もありません。みな
さんを愛し祝福を与えようと神さまの方で計画をお持ちだからです。イ エスさ
まが真の神です。私たちのために十字架で死んでくださり、三日目によみがえら
れました。このような神がほかにあるでしょうか。キリストを信 じましょう。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年10月13日号(第749号)より転載—

2013年10月3日木曜日


死を前にして
私の父は、55歳という若さで天に召されました。召される直前、父は渾身の力を
振り絞って絶筆を残しました。文字は乱れ流れていて、何を書いたか 私たちに
は読み取れませんでした。
 ところがある時、同室の方が母に「酒井さんは必ず『有難う』と書いているは
ずだからもう一度見てくれ」とおっしゃったので、見てみると、そこに は大き
な文字で確かに、「有難う」と読めました。
 死を前にすると、人は生きている私たちには分からないような体験をするよう
です。私たちが祈りに行くと、初めはかたくなであっても、いよいよ召 される
という時になると、多くの人がうってかわって福音に心を聞き、イエスさまを受
け入れ、救われていくのを見てきました。
 分かります。これから逝こうとしている所に関して案内人が必要なのです。案
内人はイエスさまです。私たちの身代わりとなって十字架で死に3日目 によみが
えり永遠の命を与えてくださった、このイエスさま以外に救いはありません。長
年、偶像に帰依していたからといってその偶像が死からあなた を救ってくれる
でしょうか。
 誰だって死ぬことは怖いです。しかし詩篇23篇4節でダビデは「たとい、死の
陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが 私ととも
におられますから」と歌いました。ここには神へのまったき信頼が伺い知れ、喜
びすら伝わって来ます。
 死を直前にした時、人は神と出会うように思います。どこかで天を見るので
しょう。父は「有難う」と書いて天に帰りました。天を見た喜びによって 書く
事のできた言葉だと思います。あなたもまた、イエスさまを信じ、救い主として
心にお迎えください。
  (イスラエル北野)

 み声新聞2013年10月6日号(第748号)より転載—