2022年8月30日火曜日

あなたがたの知らない食物 

 ヨハネの福音書4章のお話です。イエスさまは宣教の中で、ユダヤを去って再びガリラヤに向かわれました。その際サマリヤを通って行かなければならず、スカルというサマリヤの町に来られ、昼の12時ころ井戸の傍らに腰を下ろして旅の疲れをいやしておられました。

 そこに、1人のサマリヤの女が水を汲みに来ました。イエスさまは彼女に水を飲ませてくれるよう所望しました。当時ユダヤ人はサマリヤ人をさげすんでいて、つきあいをしなかったので、女はたいそう驚き、イエスさまに心を開きました。イエスさまは「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と語り、これを初めとして女もサマリヤ人も、多くの人々がイエスを信じ、救いにあずかりました。

 やがて、昼食を調達しに行った弟子たちが戻って来ると、イエスさまは唐突に「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と言いました。弟子たちは、「だれか食べるものを持って来たのだろうか」と互いに顔を見合わせました。イエスさまは「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」と再度語られました。

 弟子たちは、何のことか皆目見当がつきませんでした。言うまでもなく、食物は生きてゆく上で、無くてはならないものです。いのちにかかわります。しかし、その食物以上の食物としてイエスさまは、神のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることを挙げられたのです。

 パウロもまたピリピ人への手紙417節で、「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」という一文を残しています。この霊的祝福こそが、私たちに与えられる最善最高の取り分であり、報いです。イエスさまやパウロは、みこころを行うことによって与えられるこの主の恵みをよく知っておられました。ですからパウロは何よりも「収支を償わせて余りある霊的祝福」を求めたのです。

 神のみこころを行うこと、それは私たちの霊的ないのちです。その報いもまたこの世のものではなく、イエスさまはそれを、「あなたがたの知らない食物」であると語られました。その食物には主のみこころを行うという喜びがあり、その喜びを奪い取るものは何もありません。神の愛が絶えず私たちの心に注がれているからです。

 それ故、どうかあなたも神を信じ、生ける神を報いとし、糧ともした人生を歩んでください。神と共にある人生は、世では考えられないほどの祝福で、あなたの人生に祝福を約束しています。

MIKOE NEWSから転載」 2022年8月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年8月25日木曜日

救い 

 私は18歳の時にイエスさまを信じ救われました。両親のもとで養われていましたので、信仰を持つことは戦いでした。特に父が強く反対し、信仰を捨てるようあの手この手で説得され、遂には勘当を言い渡されました。

 しかし、今思えばそれは大きな恵みであったのです。試練艱難(かんなん)を経なければ、信仰は本物になりません。聖書でも、岩地に蒔かれた種は地が硬いので十分に根を張らない。だからすぐに喜んで受けるが、ひとたびみことばのための困難や迫害が起こると、根が無いのでいとも簡単につまずいてしまうと指摘されています(マルコの福音書4章参照)。

 反対されたからこそ、この信仰に固く立つ確信をいただいたのです。これがあったからこそ強い根を張ることができたのです。そして時は満ち、父も救われ、私の家は不可能だと思われた夢のクリスチャンホームになりました。私の思いよりはるかに高い、神の最善がなされていたのです。

 このような恵みにあずかっているのは、ひとえにイエスさまのおかげです。イエスさまは呪いを祝福に変えてくださいました。どのようにしてでしょうか。それは、十字架によるのです。

 聖書には、義人はいない、1人もいない、と書かれています。その通り、私たちは例外なく生まれながらの罪人(つみびと)です。怒りを受けるべき罪人(ざいにん)です。誕生していくばくかの人生を生き、やがては罪の中に死んでいく、はかない存在です。けれども驚くことに、父なる神のご愛と憐れみは、罪過の中に死んだ私たちを死から取り返すものであったのです。そしてそのためには、贖いが必要でした。そこで神は、御子イエスを世に遣わしてくださったのです。

 イエスさまは、実在のお方です。およそ2000年前、世に来られました。神であられる方ですが、受肉され、人として来られました。その卑しさをものとはされず、公生涯の中で、貧しい人に寄り添い、癒しをなし、神の国のことを教え、多くのしるしをなさいました。イエスさまは、人類に対する約束のメシア(救い主)として来られたのです。

 神は、御子を信じる者に救いを与え、永遠の命をお与えになられました。イエスさまは人とは違い、1つも罪のないお方でした。それでイエスさまは、私たちのすべての罪を代わりに担って、十字架で死なれたのです。ここに贖いが成し遂げられ、イエスさまはあらかじめ語っておられた通り3日目に復活されました。

 ローマ人への手紙109節には、このように書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」

 それ故、このことばを信じ、このことば通りにイエスを主として告白し、福音を信じましょう。これこそ神が下さる救いであり、ただ信じるだけで誰であっても受けることができるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2022年8月25日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年8月18日木曜日

ヨセフと忍耐

 詩篇10519節に次のような1文が書かれています。「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」。彼とはヨセフです。ヨセフはヤコブとラケルの間にできた年寄り子であって、ヤコブ、すなわちイスラエルは、彼の息子たちの誰よりもヨセフを愛していました。

 幼いころからヨセフは一風変わったところがあり、ある時、彼は夢を見ます。1つは、畑の束の夢で、ヨセフの束が真っすぐに立ち、兄たちの束が周りに来てヤコブの束におじぎしているという夢で、お兄さんたちの憎しみを買いました。また、太陽と月と11の星が自分を伏し拝んでいる、という夢を見て、さすがにイスラエルも彼を叱り、たしなめました。これらの夢は簡単に言うと、将来ヨセフが偉くなるぞ、という神さまからの示しでした。兄たちは一層彼をねたみ、父は心に留めていました。

 しかしそこから、彼の人生は大きく展開してゆきます。ヨセフは兄たちによって奴隷に売られました。けれども主の祝福は彼と共にあり、奴隷と言っても働きを任され、ある程度の自由が与えられていました。しかし、冤罪によって囚人となって、遂には牢につながれます。幼少のころ見た夢とは程遠い真逆の人生であったのです。

 主はヨセフを訓練されたのです。状況は約束とは真逆でした。ヨセフは悩みの炉の中で練られたのです。彼にとって信じることは待ち続けることでした。そして年月をかけて忍耐が培われていったのです。

 信仰を語るとき、忍耐をなくしては語れません。へブル人への手紙10章でも、こう語られています。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(3536節)

 さらに、ヤコブの手紙ではこう書かれています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい」(124節)

 私たちそれぞれにも与えられている約束があるでしょう。どうか忍耐を働かせ、最後までそれを固く握りましょう。信仰と忍耐はワンセットです。待たされ練られるところは通されますが、最後まで固く信仰に立つなら、必ず約束の成就の時が来るのです。必要なのは忍耐です。忍耐の末に私たちは約束の成就を受けるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2022年8月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年8月11日木曜日

聖書

  聖書は、地球上で1番読まれている書物であり、多くの民族のことばに訳されています。創世記11節の「初めに、神が天と地を創造した」から、黙示録に書かれている「新天新地」に至るまで、罪と贖いを基調として、すべてこれから起こることなどが前もって書き記されています。

 神学的に言えば、「聖書」はその原典において誤りなき神のことばです。海外の教会では、聖書を愛する者たちが、表現として、巻物となっている聖書に触れたり、口づけしたりして愛を示すこともあります。

 そこまではしなくても、多くの人が日々聖書に触れ、いのちのことばとしてこれを受け、養われています。「聖書」のことばについて聖書は、次のように語っています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(テモテへの手紙第二316節)というもので、私たちは聖書を通して神のことばを受けますし、聖書を読むことによって、確かに神とそのことばに養われます。

 聖書は神のことばであり、そのこと故に権威ある書物です。マタイの福音書26章で、イエスさまがユダの手引きによって引き渡されようとした時、ペテロは大祭司のしもべに撃ってかかり、耳を切り落としました。その時、イエスさまは言います。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(中略)だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」(52節)「すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです」(56節)

 この個所から、イエスさまご自身、聖書を尊んでおられることが伺い知れます。少なくとも神のことばを1つとして落とすまい、という姿勢で応じておられることが分かります。聖書や神のことばは必ずそうなるものであり、またそうしてゆくべきものである、というのがイエスさまの立ち位置です。

 同8章には、百人隊長が痛風病みのしもべのいやしをイエスに願ったことが記されています。イエスさまは「行って、治してあげよう」と言います。しかし百人隊長は「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」と答えました。イエスさまに権威があることを知り、おことばさえいただけばそれが力をもって現実を変えることを百人隊長は知っていたのです。

 神のことばには権威があり、また力があります。神のことばは現実で、必ずそのことば通りになります。何を信じるかと言えば、このことばを信じるのです。神のことばは、1つとして地に落とされることがありません。それどころか、むしろことばが成就するようあえて信仰に立って踏み込むことさえ求められます。イエスさまもそうされました。こうならなければならないと書かれた聖書のことばがその通りになるため、イエスさまもまた、聖書を重んじ、私たちに見本を示されたことを知ってください。

MIKOE NEWSから転載」 2022年8月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年8月4日木曜日

サウルとダビデ

  サウルは、イスラエルの初代の王であり、ダビデはそれに次ぐ2代目の王でした。2人とも見目麗しく、王にふさわしい外貌の持ち主でした。彼らが活躍したのは、旧約聖書サムエル記に記録されている時代で、預言者サムエルが彼らに王としての油注ぎを行いました。

 2人の間には長い戦いがありました。特にサウルはダビデへの妬みがありました。サウルはゴリアテとの戦いで功あったダビデを召しかかえましたが、その後、王位が自分からダビデへ移ったことをサムエルに告げられて以降、それを重く見て、何度もダビデを殺そうとしたのです。

 サウルという人がどのような人かというと、私は「承認欲求」の強い人だと思っています。誰でも承認欲求は持っています。でも、サウルは人様に認められたいという気持ちが人並み以上に強いのです。そしてそれは、サウルを「人を恐れる人」にしてしまいました。

 サウルの政治は、人を恐れた政治、民心を買おうとした政治です。自分を王に選んでくださった神を忘れ、民心が自分から離れていこうとするのを何よりも恐れました。端的な例は、サウル失脚のポイントとなってしまった「アマレクとの戦い」です。神は、サウルに、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ、と語られました。しかし、サウルはこれに背き、アマレクの王アガグと最良のものを惜しみ、値打のないものだけを聖絶しました。

 サウルは、神のみこころを行っていたつもりでした。しかし、サムエルは言いました。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、御羊の脂肪にまさる。(中略)あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(サムエル記第一152223節)

 ようやくサウルは自分の非に気付きました。「私は罪を犯しました。(中略)私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」と罪を認めました。ところが、今ひとつ反省の色がなく、こういうことを言うのです。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」サウルは、自分を立ててくださった主を恐れず、ここまで来てもなお、思うことは民や長老たちの反応であり自分の面目です。これでは悔い改めの実が結ばれたとは言えないのではないでしょうか。承認欲求の強さのあまり、過度に人を恐れたこと、これがサウルの決定的な弱さであるのです。

 一方、ダビデは、罪人(つみびと)であるということにおいてはサウルと同じです。人間的な見方では、むしろダビデのほうが、サウルより大きな罪を犯していると言えるかもしれません。彼が犯した罪は、バテ・シェバとの姦淫の罪と、バテ・シェバの夫のウリヤを戦死させた殺人の罪です。

 ダビデには王宮付きの預言者ナタンがいます。そのナタンがダビデのところに遣わされて、ダビデの罪を指摘しました。するとダビデは直ちにナタンに「私は主に対して罪を犯した」と言いました。神に対して自分の罪を表明したのです。ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」そう告げ、帰って行きました。

 主はダビデに甘い。そういう訳ではありません。ダビデは、悔い改めるにあたって「私は主に対して罪を犯した」と言いました。すべて罪の悔い改めは、神に対してなされるものであるのです。そして、罪が赦されるのもまた主によるのです。

 サウルとダビデは、どちらも罪を犯しました。面目を立ててくださいと懇願したサウルは、その通り人を恐れる者であり、主の前に直ちに悔い改めたダビデは、神を恐れる者でした。両者の違いはここにあるのです。

 そして言うまでもなく、神を恐れることが人を恐れることより優れています。神を恐れる者には真の自由がありますが、人を恐れる者は人の奴隷となります。もし、あなたがイエス・キリストを信じ、神に従う道を選ぶなら、あなたは神を恐れることを学び、そのことをもって、人を恐れることから解放されます。

 それゆえ私は言います。イエス・キリストを信じ、真の自由を得てください。主のくびきは軽く、あなたはあらゆる面で救いを受け、助けを受け、永遠の命を受けます。人に認められることより、神に認められることのほうがはるかに素晴らしいと私は思います。

MIKOE NEWSから転載」 2022年8月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/