2019年12月25日水曜日

危険な遊び

 小学生の頃、友人の家に集まり、皆で「こっくりさん」をして遊びました。文字盤の上に置かれた10円玉がスイスイ動いていくのが不思議で、私は誰と結婚しますか、とか何歳の頃ですかなどと聞いては、半信半疑でうれしがっていました。女児たちは皆、占いが大好きで、ゲーム感覚でそれを楽しみました。しかし、これこそが遊びを隠れみのにしたサタンの思惑であったのです。
 サタンは巧妙で、かつ自分を隠すことにたけています。そもそもサタンなどいないと思うこと自体がサタンが作り上げた妄想で、広く世に浸透しています。私たちにとってはたわいない遊びのつもりでも、こっくりさんはれっきとした悪霊で、行っていることは霊との交信です。
 こういう訳で、霊と関わりを持った私は、後日、精神を病みました。何をやっても自殺の思いが切れないのです。医者も薬も効き目がありません。サタンの論理はギブ・アンド・テークです。サタンの力を利用して何かを得たなら、必ずその見返りが求められます。サタンが狙っているのは私たちのたましいであり命であって、その行き着く所は死です。
 しかし、あわれみ深い神は、滅びゆく人間を惜しんでくださいました。18歳の時に私はイエス・キリストに出会い、救いを受けました。イエス・キリストは十字架で死なれました。それはサタンに捕らわれた私を、神が永久に買い戻してくださるためであったのです。
 それから四十数年がたち、今は21世紀です。インターネットを用いての働きが大きく展開し、さまざまなゲームが提供されています。中には本物の呪文や魔方陣を使っている作品もあり、無自覚にそれに触れている人は多いです。しかしこれは危険な遊びです。サタンのわなを見分け、サタンに心を奪われることなく、主イエスを信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月29日号(第1074号)より転載—

2019年12月18日水曜日

救いについて

 救いって何でしょう? 救いはキリスト教の専門用語です。仏教系の宗教では悟りという境地を約束していますが、それとも違います。
 救いは、天地万物を造られた全能の神が用意してくださったものであり、恵みによって誰もが受けることができる祝福です。
 救いに関しては聖書に、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒の働き4章12節)と書かれており、この方とはイエス・キリストです。世に宗教多しといえども、救いを語るのはイエス・キリストの福音以外にありません。ですから救いを受けるためイエス・キリストを信じましょう。
 具体的にはどのようにすればよいのでしょうか。ローマ人への手紙10章には次のように書かれています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(9、10節)
 救いと告白は密接な関係にあります。コリント人への手紙第一12章3節には、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことができません」と書かれています。それ故、イエスを主と口で告白することは重要です。
 また、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったというのはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストが贖(あがな)いを成し遂げてくださったということです。イエス・キリストは、私たちの一切の罪を負って十字架で死なれ、贖いを果たし3日目に死者の中からよみがえりを果たされました。ここに救いが完成されました。誰でもこの福音を信じるなら救われます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月22日号(第1073号)より転載—

2019年12月11日水曜日

神の戦い

 近現代における戦争は、武器によって勝敗が決まります。聖書の時代では剣やよろいはあったものの武器に差はなく、基本的には人数の勝負です。千名と万名の戦いでは万名が勝利するのです。
 にもかかわらず、士師記におけるギデオンは、ミデアン人・アマレク人との戦いの際、神さまによって兵士の人数を300名にまで減らされました。自分の手で自分を救ったと誇るといけないから(7章2節)だというのがその理由で、主はこの300名を用い敵陣で同士打ちが起こるよう仕向けられ、イスラエルは勝利しました。
 また、サムエル記第一17章には、イスラエルとぺリシテ人との戦いが記されています。すなわち少年ダビデとゴリアテとの戦いです。
 ゴリアテは大男の職業戦士で、日々イスラエルの陣営をなぶり、人々を恐れさせていました。ただ、ダビデだけは「この割礼を受けていないぺリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」(26節)と語り、ゴリアテとの戦いに挑みます。
 ダビデは言いました。「おまえは、剣と、槍(やり)と、投げ槍(やり)を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(中略)この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(4547節)
 こうしてダビデは、石投げ器と一つの石でゴリアテに向かい、彼の額を打ち、その一打で彼を打ち殺してしまいました。神がそれをなされたのです。
 ギデオンとダビデに共通することは、彼らが戦ったのは神の戦いであったということです。現実的にはとても勝ち目のない戦いが、生ける神に聞き従うことによって大勝利を得たのです。私たちが直面する戦いもまた神の戦いです。堅く信仰に立ち、神の救いを待ち望みましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月15日号(第1072号)より転載—

2019年12月4日水曜日

 

 苦難のしもべヨブをご存じでしょうか。聖書に「ヨブ記」があり、その主題は「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という所にあります。
 ある時、神の許しの中でヨブは、理不尽としかいえない取り扱いの中に置かれました。1日にして家族と全財産を失ってしまったのです。もちろんヨブは、起こったすべての事につぶやくことなく、感謝をささげ、信仰を用い、非の打ちどころのない対応をしました。それは称賛に値するものでした。ところが、試練はそれで終わらず、さらに厳しい試練が許されます。サタンは、ヨブを悪性の皮膚病で打ちました。
 ヨブは生まれて初めて自分の生まれた日をのろいました。生きていることをいとうまでこの試練は厳しいものでした。さらに、ヨブの友人たちは、むなしい慰め手で、ヨブに非があるからこんな事が起こるのだという論調でヨブに向かい、ヨブの苦しみをさらに増し加えました。
 ヨブが苦しんだのは、神が沈黙を守られたからです。問うても尋ねても何をしても、神はご自身を隠されました。どんなに苦しくても厳しくても、神、主を認めることさえできれば、ヨブは満足したでしょう。でも神は現れてくださいませんでした。これがヨブの最も大きな苦しみでした。なぜ答えてくださらないのですか。切々とヨブは祈ります。信仰ももう破綻という所までヨブは試されました。
 やがて時が来て、嵐の中から神はヨブを呼ばれました。ヨブは神にあずかり、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」と語りました。新しい段階の、神との出会いを頂き、神はヨブに失ったものの2倍を与え、ヨブを祝福されました。
 信仰が試されると忍耐を生じます。忍耐の末にこそ受けるべき祝福があります。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月8日号(第1071号)より転載—

2019年11月27日水曜日

 死について

 伝道者の書でソロモンは「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがいよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(7章2節)と書きました。
 確かにその通りで、すべての人生には終わりがあります。死です。私たちは普段、死を意識しないで生きています。今日と明日は同じ、その先もずっと同じ。そこへ突然やってくるのが命の終わり、死なのです。
 先日、伯父が急逝しました。ガンと戦っていたのですが予期せぬ事故で生涯を終えました。思うに、人は病気だから死ぬのではありません。事故だから死ぬのでもありません。神が定めた命の時間が終わる時、死を迎えるのです。
 しかし、その時はだれも知ることはできません。ですから、人生に終わりがあることを知って生きることと、死者の中から最初によみがえられたイエス・キリストを、ご自分の救い主として心にお迎えすることは非常に重要なのです。
 イエスさまは死者の中から最初によみがえった方であり、死に打ち勝った勝利です。それ故、パウロはこう言いました。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」(55節)コリント人への手紙第一5章54節にも「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着る時、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」と書かれています。朽ちるもの、死ぬものというのは私たちのことであり、朽ちないものというのはイエスさまです。
 誰でもイエス・キリストの救いを信じる者は死からいのちに移っており、死はもはや私たちを支配することがありません。私たちは、死にあっても逃れ場があります。イエス・キリストを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月1日号(第1070号)より転載—

2019年11月20日水曜日

告発者  サタン

 あなたのことを本気で殺そうとしているものがいます。サタンです。こんなことを言う私は極端でしょうか。いいえ、本当の事なのです。
 かの世界でも、すごんでくるのは下っ端で、本当に怖いのはそんな様子をみじんも見せないトップだといいます。人当たりの良さと裏腹に根っこは残忍な破壊者であったりするのです。
 そもそも、サタンは神の敵という意味で、その頭は堕天使ルシファーです。彼は美の極みであり天使の筆頭でした。非の打ちどころなく神に仕えていましたが、ある時彼は自分が神になろうとしたのです。彼はすみやかにさばかれ、彼に付き従う天使たちとともに、天国を追われ、地上に落とされました。黙示録12章によれば、「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下った」(12節)と書かれています。
 サタンは私たち人間をねたみ、またひどく憎んでいます。やがては自分が燃える火の池に投げ込まれることを知っているので、1人でも多くの人間を救いから遠ざけたいと、とにかく神が愛している人間がねたましく、滅ぼしたくて仕方がないのです。
 こうして悪魔は世に下り、日夜私たちの罪を神に告発し、救いの道から私たちを締め出そうと働いています。神は聖(きよ)いお方で、原罪を持つ私たちは直接近づくことはできません。そこに目を付けサタンは罪を告発するのです。
 しかし、それに対して神さまは、解決をお持ちでした。私たちを贖(あがな)い、神の子としてくださるために、ご自身のひとり子イエスさまをくださったのです。
 イエスさまは神であられ罪のないお方です。私たちの罪を負って十字架で死に、3日目によみがえられ私たちを死や滅びから贖ってくださいました。イエスさまを信じるなら私たちは神の子です。神の元に帰りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月24日号(第1069号)より転載—

2019年11月13日水曜日

 

 先日、ネットを通して流れてきた天皇の即位祝賀パレードを目にした時よりこのかた、「祝福」について深く考えさせられました。神がくださる祝福とは、世のものではありません。
 箴言1022節には「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」と書かれています。神さまの祝福は無条件で人を富ませるものです。そして、分かち合えば分かち合うほど倍増していくものだと思います。神の祝福は、人の苦労によって得られるようなものではなく、神さまの一方的な恵みとして与えられるものだとも知りました。
 旧約聖書の申命記28章は、興味深い箇所で、神は民にご自分に聞き従うように語り、聞き従う人生における祝福と、聞き従わない人生ののろいを語り、祝福の人生を選ぶよう私たちに語られました。
 約束された祝福は、あらゆる側面に及びます。例を挙げると「町にあっても祝福され、野にあっても祝福され入るときも祝福され、出て行くときにも祝福されるあなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださるあなたのすべての手のわざを祝福される」等々で、聖書はこれでもかと言わんばかりの祝福を約束しています。
 新約時代に生きる私たちクリスチャンもまた、同様に主の祝福にあずかっています。上記の祝福ばかりか天の報いが私たちに用意されています。神に聞き従うことによる主の祝福は、私たちのいのちの日の限り私たちを追ってくるでしょう。
 こういう訳ですから、私たちは神に聞き従う人生を選びましょう。その報いは大きく、私たちに注がれる神の愛は無限です。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月17日号(第1068号)より転載—

2019年11月6日水曜日

 

 娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい(マルコの福音書5章24節)
 これは、イエスさまが、18年もの間長血を患いご自身によっていやされたある婦人にかけられたことばです。この女性は、医者からひどい目に遭わされて、お金も底をつき悪くなるばかりの病状に、頼るはもうイエスさまのほかありませんでした。お着物にさわることでもできれば、きっと直る、そう信じて群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの着物に触りました。するとたちどころに血の源が枯れてひどい痛みが消えました。
 イエスさまもまた、ご自分の内から力が出て行ったことに気づいて、誰が私の着物に触ったのかと問われ、群衆を見回しておられました。女性は恐れおののき、イエスの前にひれ伏し、自分に起こったことを余すことなく打ち明けました。それに答えてイエスさまは冒頭のことばをかけられたのです。何と慈愛に満ちたことばでしょう。
 さて、信仰とは何でしょう。ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と書かれています。
 長血の女性が受けたのは信仰によるいやしでした。彼女は、きっと直る(報いてくださる)と信じてイエスさまの着物に触れたのです。そして信じた通りになりました。
 信仰はあやふやなものではありません。あなたが信仰を持って神に近づくなら、神は、必ずその信仰に報いてくださいます。そしてそればかりではなく、喜んでくださいます。
 信仰はあなたを勝利に導く一筋の光です。私たちもまた、信仰によって神に近づきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月10日号(第1067号)より転載—

2019年10月30日水曜日

罪の赦し

 私たちは、日々いろんな罪を犯します。それ故、イエスさまの名によって悔い改めることはとても重要です。どんな罪でも悔い改め、言い表し捨てるなら、あたかもそれがなかったかのような赦しを受け、祝福さえ頂きます。ヨハネの手紙第一に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1章9節)と書かれている通りです。
 一口に罪といっても、盗みから殺人までその内容は千差万別です。確かに人の目には、大きな罪小さな罪と区別されるべきものがあるでしょう。しかし、神の前には、罪は、あるかないかのどちらかなのです。神は義なるお方で、その聖(きよ)さはどんな微小の罪であってもはじきます。聖なる方は、決して罪と相いれることはありません。こういう訳で人が神に近づくには贖(あがな)いが必要であり、私たちの先祖は、救い主であるイエスさまが来られるということを長い間待ち望んでいました。
 そして、事実イエスさまは、およそ2000年前に、人と神の仲介者として世に来られました。私たちのすべての罪を身に負って、十字架の死によって私たちを贖い、また3日目に復活を遂げ、救いをなし遂げられました。
 ただ信じるだけでよいのです。神さまの前には、今や赦されない罪は一つもありません。どんな罪でも悔い改めるなら完全に赦されます。これこそ神が恐れられるゆえんなのです。マルコの福音書でイエスさまはこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」(2章10節)
 罪を赦す権威、これこそイエスが救い主であることのしるしです。罪の奴隷であった私たちですが、今やイエスにあって神の子とされたのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年11月3日号(第1066号)より転載—

2019年10月23日水曜日

 

 先日、夫が車のオイル交換へ行ってきました。車は製造から20年近くたつので、当時最高とされていたエンジンオイルの規格は、いまでは最低以下で、もうその規格のオイルは市場には出回ってないそうです。旧車の愛好家たちにとっては、結構シビアな問題だそうです。
 自動車は時代とともに大きく発展し、同じ「車」であっても、今と昔では大きく違います。それ故、エンジンオイルに関しても、今のオイルを昔の車に使うと不具合が生じるそうです。夫も、時代の違いを痛感する、と言っていました。
 聖書でも、時代や世代は一つの区切りとなっています。イスラエルの民はモーセに従って、エジプトからカナンの地に向かって出発したのです。
 しかし、民にカナンの地を受け継がせたのはモーセではなくて、モーセの従者ヨシュアでした。
 というのも、出エジプトしたイスラエルは神に聞き従うことをせず、不信仰で度々神を怒らせました。そしてついに神はカナンの地に入らせないと祖先たちに告げられたのです。そして、そればかりではなくモーセにもまた、「あなたもそこに、入れない。ヨシュアがそこにはいるのだあなたがたが、略奪されるだろうといったあなたがたの幼子たちがそこに入る」(出エジプト記11章参照)と宣告されたのです。
 こういう訳で40年間民は荒野をさまよい、ヨシュアとカレブ以外の者たちは死に絶えてしまいました。その結果、次の時代の者たち、成人した幼子たちがカナンを受け継いだのです。
 世界的に新しい時代が始まりました。聖書的にみれば「終末」と言われる時代です。しかし、今までにない大きな救いが現される時代です。この働きを担うのが私たちです。神を恐れかしこみ、それぞれの使命に向かって進んでいきましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月27日号(第1065号)より転載—

2019年10月16日水曜日



 愛はキリスト教の神髄です。神は愛です。神を抜きにして愛はなく、愛は神そのものです。
 皆さんは、愛といえばどういうイメージを持ちますか。日本語では、愛は愛というその一言でまとめられます。しかし、他言語では男女間の愛、友愛、神の愛とそれぞれが違う言葉が充てられています。実質が違うので言葉が違うのです。
 神の愛とは、イエス・キリストの生涯そのものです。ヨハネの福音書に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(3章16節)と書かれています。神は世にある私たちを愛されたが故、ひとり子なるイエスさまを私たちに下さいました。大きな犠牲です。しかし神はそうすることをみこころとされたのです。そこに、私たちへの神の愛が明らかにされています。
 しかし、その愛は目をそむけたくなるような厳しいものであったのです。イエスさまは王であるにもかかわらず、誰よりも虐げられました。神は、子羊イエスさまの上に私たち人類の全ての罪を置かれ、イエスさまは十字架で死なれました。そして、贖(あがな)いの完了のしるしとして、3日目に死からよみがえりを果たされました。
 その愛は決してきれいなばかりではありません。愛の中の愛、神の愛であっても、イエスさまを思い出してください。いばらの冠をかぶらされ、着物を取られ、むち打たれました。何でこんな苦しみを耐えられたのでしょう。私たちのため、私たちが生きるため、救われるために、イエスさまは十字架を忍んでくださったのです。
 愛はその本質において自己犠牲を伴います。痛みのない愛はありません。傷ついて、涙して、愛を学んでいくのです。負けたように見えるかもしれない。しかしそうではありません。十字架の主を仰ぎ見ましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月20日号(第1064号)より転載—

2019年10月9日水曜日

救 い

 世には多くの宗教があり、救いや解決をうたっています。しかし、それらの宗教には何の確証も無く、かえって弱さに付け込んで、食い物にしているように私には見えます。
 以前、救いに関して図を書いて教えられたことがあります。天と地があって、地から天に向かって伸びている幾本もの柱があります。この柱とは人間の「努力」です。一番長い柱も天には届くことができませんでした。
 次いで見てみると、天から地上に差し伸べられている一本の柱があります。この柱は「救い」といいます。この柱に応答して登るなら天に行くことができます。
 救いは努力で手に入れられるものではありません。確かに世には苦行や物断ちなど、お勤めを語る宗教は数多くあります。しかし、それら宗教の内には救いを約束するものは一つとしてないのです。
 使徒の働き412節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と書かれています。
 この方とは、イエスキリストです。イエスさまは天から来られました。先ほど語ったように、天から地へと差し伸べられた一本の柱、それはイエスさまとその福音です。
 イエスさまは、罪の奴隷である私たちを愛し憐れみ、死に打ち勝つ救いをもたらすために時至って世に来られました。そして、その十字架の死を通して私たちを贖(あがな)い、3日目によみがえりを果たされ、ここに福音を打ち立てられました。
 あなたもまた、このイエスキリストを信じ、救い主として心にお迎えするなら、救われます。神さまのみこころはあなたが救われることにあります。救いはキリストにあります。ただ信じることによってすべてが全うされます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月13日号(第1063号)より転載—

2019年10月2日水曜日

アブラハムの信仰

 へブル人の手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書かれています。アブラハムは、まさにこの信仰を持つ人物でした。
 ローマ人への手紙418節には「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という1節があります。これは直接にはアブラハムのことを語った言葉です。アブラハムはおよそ10
0歳になって、妻のサラの胎が死んだも同然であるのにもかかわらず、神が約束された男の子、イサクを受けると信じました。望み得ないときに信じたのです。そして約束通り、イサクが誕生しました。
 その後、アブラハムは試練に入ります。神が約束の子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう語られたのです。アブラハムへのすべての約束は、イサクに継承されるものであったので、イサクが死んだら約束は成り立ちなくなります。しかし、これを聞くとアブラハムは直ちにイサクを伴い、示された場所であるモリヤの地の山へ向かいました。そこで祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛りその上に置きました。そして、刀を取って今まさに屠(ほふ)ろうとしたその時でした。
 「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子さえ惜しまないでわたしにささげた」主の使いが天から彼を呼びました。
 アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることができる、と考えたのです。それで彼は死者の中からイサクを取り戻しました。私たちもまた、信仰によるなら同じことが起こります。アブラハムの信仰にならいましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年10月6日号(第1062号)より転載—

2019年9月25日水曜日

病のいやし

 先日、親しい知人が他界しました。大腸がんでした。何でも、手術できない所にあるがんであったということで、治療しようがなかったと聞きました。治癒を望みえない治療はつらかっただろうと思います。「これじゃあ棺おけに足を半分入れているようなものだよ」と本人は冗談めかして笑っていましたが、迫りくる最後にお1人で戦われたその胸中はいかばかりであったでしょう。
 当然のことですが、世の中には医者が治せない病がまだまだ多くあることに気づかされます。確かに、多くの医学者の研究によって医療は日進月歩を遂げておりその努力には敬意を表します。しかし、医学は万能ではないのです。本当の意味ではいやしは神の領域でしかない、と私は思っています。いやしは神のものでありキリストに属するものです。そして、その根拠はキリストの十字架の贖いです。
 イザヤ書53章に「彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)という一文があります。これは、神のいやしの根拠としてしばしば引用される聖書のことばです。私たちのいやしの根拠はイエスさまの十字架でのみ苦しみにあり、その打ち傷にひきかえて私たちにいやしが与えられるのだというのです。
 また、詩篇103篇3節には「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし」と書かれています。赦しといやしには密接な関係があります。
 まず、神さまから赦されること、それが、いやしの始まりとなります。イエスさまの十字架は、私たちの罪の身代わりであったと信じるのなら、その人は赦しを得ています。そして、多くの縛りから解放され、病からも解放(いやし)されます。イエスさまを信じ、すべての点で幸いと健康を受けましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月29日号(第1061号)より転載—

2019年9月18日水曜日

国 籍


 某自動車会社前会長のG氏は、ブラジル、レバノン、フランスと3つの国籍を持っています。国籍は主に血統主義と出生地主義と2つに分かれているため合法的に複数の国籍を持つことができます。日本では当たり前のように与えられている国籍ですが、国際社会の厳しさを知る者は、幾つかの国籍を持ち、安定した基盤を得ようと労苦しており、これは珍しい事ではありません。
 国籍とは「所属」です。私たちの所属を証明するもので、重要なものです。日本国籍を持つ者には日本のパスポートが与えられます。今の日本のパスポートでは、北朝鮮を除くあらゆる国々に行くことができます。
 また、世界には「難民」と呼ばれる方々がいます。紛争や人権侵害などから自分の命を守るためにやむを得ず母国を追われ逃げざるを得なかった人たちで、アイデンティティーを保証する祖国を失った彼らは、パスポートもなく所属も国籍もありません。国籍に関しては、聖書ではピリピ人への手紙3章20節に「けれども、私たちの国籍は天にあります」と書かれています。
 ある青年が、長年国籍のことで悩んでいました。A国か日本かという葛藤があったと聞いています。彼がその悩みから吹っ切れたのは、先ほどの聖書の言葉によりました。A国人でも日本人でもなく、自分はクリスチャン、すなわち天国人であると彼は知ったのです。自分の国籍は天国だと知った時、長年彼を縛ってきたものが解かれていきました。
 誰でも、福音を聞いて、イエスさまを救い主として信じるなら、神の子とされます。そして、天の国籍を持つ者として、新しく生まれます。それ故、地上の歩みが終わる時には、無条件で天へ迎え入れられます。
 あなたもイエスさまを信じて、天の国籍を受けましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月22日号(第1060号)より転載—

2019年9月11日水曜日

待たされる

 神さまの道を進んで行くと、必ず通されるレッスンがあります。「待たされる」ことで、それを好む人は稀(まれ)でしょう。しかも、神さまは私たちに対して、時に沈黙を守られます。この狭間(はざま)にあって悩み苦しんだのが「ヨブ記」のヨブです。時が来るまで彼は待たされました。
 また、詩篇105篇19節には「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」と書かれています。彼とはヨセフです。ヨセフは偉くなるという示しを受けていました。しかし現実は奴隷に売られ、監獄に入れられ、示しとは真逆の道を進みました。彼もまた、待たされた人でした。
 更に、ハバクク書2章には「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(3節)と書かれています。これは、リバイバルを約束する神の言葉として、教会に与えられた言葉です。そこから待たされ、今はもう三十数年になります。
 ヤコブの手紙1章には次のように書かれています。「私の兄弟たち。さまざまな試練にあうときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためさると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」(24節)
 すべては私たちを立て上げるため、神は悩みの炉さえもゆるされるのです。信仰と忍耐は密接な関係にあり、約束の成就に至るまで信仰はためされます。ここに忍耐が生じます。待たされるのです。しかし、終(つい)に時が来ます。忍耐の末にヨブは失ったものの二倍の祝福にあずかりました。ヨセフは一日にして囚人からエジプトの大臣になりました。神さまは真実なお方です。試練はこの上ない喜びです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月15日号(第1059号)より転載—

2019年9月4日水曜日

一粒の麦

 ヨハネの福音書1224節に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」という聖句があります。哲学的で、含蓄の深いことばです。けれども、一粒の麦として死ぬということがどういうことなのか今一つ、よく分かりませんでした。
 23
節でイエスさまは「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と語っておられます。栄光とは、イエスさまが十字架にかかられ死なれる時がやってきた、ということで、ここでいう一粒の麦とは、直接的にはイエスさまのことを指しています。イエスさまがわたしたちの罪の身代わりとなって、死ぬことが無ければ、ただ一人の死で終わります。しかし、もし神のご計画の内に十字架で死ねば、そのみ苦しみの末に豊かな救いの実を見ることができる、というのです。
 また、25節にはこう書かれています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」これも24節と同様に逆説的な表現です。いのちを憎むことが、いのちを得ることに繫がるというのです。
 自分のいのちを愛するのは私たちの肉です。時にその肉のいのちを憎むほどまでして神に従ってゆくことが求められます。自分のいのちを自分のものとせずに福音のためにいのちを捨てるなら、かえってそれを得るようになります。この聖句は、殉教への招きのみことばでもあるのです。
 この世のいのち以上に大切なものがあります。それは永遠のいのちであり、天の報いです。あなたもキリストに従い通して、一粒の麦として地に蒔かれるなら、そこから確かに大収穫がもたらされ、報いとして天の宝を受けるでしょう。共にキリストに従いましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月8日号(第1058号)より転載—

2019年8月28日水曜日

世界で一番強いもの

 女は弱しされど母は強し。これはよく聞く名言で、子を持つ母は、子を守るためには考えられないような強さを発揮するといいます。以前、夫不在の中で台風の直撃を受けた時、暴風でガラスの窓がしなり、今にも割れそうになりました。そこで、押し入れを開け、1歳の娘を寝かせ、台風が去るまで一晩中起きて娘を守りました。自分のうちにこんな強さがあるなんて初めて体験しました。
 愛は、自分を犠牲にすることをものともしません。神は愛であり、愛とはイエスキリストの十字架です。私たちは生まれながらの罪人であり、行き着くところは死と滅びです。それをあわれんで父なる神は、時を定めてご自身のひとり子なるイエスさまを世に与えてくださいました。
 誰でもイエスキリストを信じるなら、サタンの支配から解放され、神の支配に移されます。イエスさまの死は、私たちを生かすために支払われた尊い贖いの代価です。死に定められている私たちを神は愛し、惜しんでくださったのです。
 ローマ人への手紙8章32節に「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死にわたされた方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と書かれています。父なる神さまにとって、御子より大切なものはありません。その御子を下さったということは全てのものを下さったということに等しいのです。
 さらに聖書は「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(39節)と続きます。世界で一番強いもの、それは、私たちを愛する神の愛です。
 あなたもまた、イエスさまを信じてこの愛に留まりましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月1日号(第1057号)より転載—

2019年8月21日水曜日

長血の女の信仰

 イエスさまが、会堂管理者であるヤイロの娘をいやしに行く途中、多くの群衆が、イエスに押し迫っていました。その中に1人の女がいました。彼女は、12年の間長血を患っていました。恐らく婦人科系の難治性の病であろうと言われています。聖書の語るところでは、彼女は多くの医者からひどいめに遭わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方だったといいます。
 彼女にとってイエスさまは最後の希望でした。医師に恵まれず、お金も底をつき、残された唯一の頼みがイエスさまでした。人々が語っているこの方なら私を救ってくださる、そうだ、お着物にさわることでもできれば、きっと直る。いつしかそれは彼女の信仰となっていったのです。
 そして、ついに群衆の中に紛れ込み、女は後ろから、イエスの着物に触りました。すると、すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。
 イエスさまも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。そして、それをした人を知ろうとして見回しておられました。
 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けました。するとイエスさまはこう言いました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(ルカの福音書5章34節)
 お着物に触ることでもできればきっと直る、そう信じた彼女の信仰はイエスさまからいやしを引き出しました。私たちもイエスさまを信じ、また従いましょう。イエスさまへの信頼は、裏切られることがありません。(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月25日号(第1056号)より転載—

2019年8月14日水曜日

できるものなら

 人の親となることは何て難しいことでしょう。たとえ世間が子を見捨ても、親はやすやすと子を見捨てることができません。それが親というものなら、その愛には本当に頭が下がります。
 マルコの福音書9章に、おしの霊に憑かれた息子を持つ父親が登場します。霊が子に憑りつくと、ところかまわずその子を押し倒し、泡を吹き歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。父親はイエスさまの弟子たちに、霊を追い出しくれるよう願いましたが、お弟子たちにはできませんでした。
 そこで、イエスさまのもとにその子を連れていくと、イエスさまは父親に「この子がこんなになってから、どれくらいになりますか」と尋ねられました。父親は言いました。「幼い時からです。この霊はこの子を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」。
 するとイエスさまは「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と直ちに父親を一喝されました。これを聞くと父親は、叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。
 お父さんを責めることはできません。長年、できることはみな行ったでしょう。それでも好転しなかったのです。あきらめが先に立つ父親の心の屈折をイエスさまはよくご存じでした。またご自身が働かれるには信仰が必要であることもです。それゆえ父親の心から不信仰を払拭(ふっしょく)するため、イエスさまは声を上げられたのです。「できるものなら、というのか」と。
 できるのです。イエスさまはどんなことでもできますし、また、なしてくださいます。これを確信としてイエスさまに期待するなら、奇跡の御手(みて)が現されます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月18日号(第1055号)より転載—

2019年8月7日水曜日

世代交代

 イスラエルの民は、モーセに従って出エジプトしました。神がイスラエルに与えられた約束の地カナンに入るまで、荒野で40年間さまよいました。本当はもっと早くカナンへ入るはずでした。
 最初、彼らがカナンを目前にした時、モーセは族長たちを遣わし、その地を偵察させました。40日がたって彼らは帰って来て報告します。「そこにはまことに乳と蜜が流れています。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きくアナクの子孫を見ました」
 確かにそこは最高の地でした。しかしカナンには先住民族がいて、戦っても勝てないと彼らは言ったので、会衆は大声をあげて泣き明かしたと書かれています。ただヨシュアとカレブだけは彼らと違い「神はカナンの地を私たちに下さる」と語り民を説得しようとしました。
 イスラエル人のつぶやき不信仰は、神の知るところとなり、神は次のように宣告されました。(民数記14章参照)
 「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。(29節)さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう(31節)しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない」(33節)
 ここに厳粛に、世代交代が宣言されました。カナンの斥候に費やした四十日を、一日を1年と数えて、四十年の間に親世代は全員荒野で死に絶えてしまいます。代わって彼らの子世代の者たちがカナンの地に入り、神との契約を継承しました。
 聖書は、世代ということを重く見ています。新しい時代には新しい世代が用いられます。私たちは、私たちのなすべきことに忠実でありましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月11日号(第1054号)より転載—

2019年7月31日水曜日

忠実さ

 神の働きのために私たちに求められるのは忠実さです。ルカによる福音書16章には次のように書かれています。
 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(10節)
 以前、ある祈りの器がこの箇所から説教しました。日々の小さな祈りの積み上げがないなら、いざ大きな事が起こった時、それを祈りにもってゆくことは難しい。小さな事を祈れないで、突然大きなことを祈ることは困難だというのです。
 また聖書はこう続きます。「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう」(11節)
 私たちは、後に相続するようになる神の国のものに忠実であるかどうかを、この世にあってさまざまな事で試されているようです。
 さらに、マタイの福音書25章にも興味深い記述があります。ある人が、旅に出るのでしもべたちを呼び、おのおのの能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを渡しました。やがて主人が帰って来た時、5タラント預かった者は、商売をして5タラントをもうけ、2タラントの者も2タラントをもうけました。主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と祝福されました。
 しかし、1タラントを預かった者は「私はこわくなりあなたの1タラントを地の中に隠しておきました」と語り、主人の怒りを買いました。ここでも、小さな事に忠実であることの教えが書かれています。
 与えられた小さなものに忠実であるところ、神の称賛と栄誉が与えられます。ただ、忠実であるよう、祈り求めて歩みましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月4日号(第1053号)より転載—

2019年7月24日水曜日

金持ちは幸せか?

 聖書の福音書に、富める若人として知られる1人の役人が登場します。
 この人はイエスさまに「何をしたら永遠のいのちを受けることができますか」と問うた人です。
 イエスさまが律法を守ることを語ると、彼は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えました。イエスさまは彼を見つめ、いつくしんで言いました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そのうえで、わたしについて来なさい」
 これを聞いて、彼は、悲しみながら立ち去りました。大変な金持ちだったからである、と聖書は記しています(ルカの福音書182123節)。
 私の知り合いにもお金持ちがいます。その人はお金があるのに貧しい生活を好み、極端にまでお金を使うことを嫌います。お金は一見、万能のように見え、お金を持つことが人生の勝利だと信じているのです。
 しかし、本当にそうでしょうか。イエスさまは、その後、エリコに住むザアカイの家に行きました。彼もまた大変な金持ちです。取税人の頭で皆の嫌われものでしたが意に介することなく、お金を追求する人生を送っていました。
 しかし、イエスさまが彼の所に来られたことによって彼は一変します。宴たけなわになった時、彼は、イエスさまに「主よ。財産の半分を貧しい人たちに施します。だましとった物は四倍にして返します」と宣言しました(同19章1~10節)。
 もしお金が本当に彼の心を満たしていたなら、このような変化は起こらないでしょう。イエスさまと出会ったことによってザアカイの心のよりどころは、お金からイエスへ移りました。
 彼は、本当に心を満たすキリストの愛に出会ったのです。お金では得られないもの、それはキリストイエスの愛ではないでしょうか。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月28日号(第1052号)より転載—

2019年7月17日水曜日

 

 聖書は、世界中で最も多く読まれている書物で、永遠のベストセラーといわれています。座右の書に聖書を挙げる人は少なくありません。
 聖書を理解するには聖書から入るのが最善で、テモテの手紙第二3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」と書かれています。
 まず知っていただきたいのは、聖書はすべて神の霊感によるものだということです。聖書は霊的な書物です。正しく聖書を読むには聖霊の助けが必要になります。クリスチャンになる以前の私も聖書を読んでいましたが、その解釈は極端で一人よがりなものでした。まさに矯正が必要で、自分の考えに合わせた私的解釈、つまりは都合のいい読み方をしていたのです。神のことばに聞く、というへりくだった心の姿勢があって初めて、神のことばは正しく聞けるのです。
 どういうふうに聞けるのかというと、皆さんが詩を読む時のことを思い起こしてください。ある一節が心に響く、そういった事があるでしょう。こういった事が聖書を読むことによっても起こります。それが語りかけというものです。
 救われた時、これからは毎日聖書を読み、毎日祈りなさいと勧められました。聖書を読むことはご飯を食べるようなもの、祈ることは息を吸うことだと言います。確かにこの二つによって私たちの霊のいのちが養われていきます。
 こうした霊性を土台にして、次第に私たちのうちに「聞く耳」が作られていきます。神のことばに親しい「耳」です。これを持つことは何よりも大きな祝福です。これこそ聖書の与える力であり、教えと戒めと矯正と義の訓練に欠けることのない有益なものをあなたにもたらせます。
 聖書を読みましょう。また、祈りましょう。
(イスラエル北野)


み声新聞2019年7月21日号(第1051号)より転載—

2019年7月10日水曜日

唯一の救い

 あなたにとって、イエスさまはどういうお方でしょうか。救われる前、私はイエスさまのことは、よくできたお話だと思っていました。
 ところがイエス・キリストの御名(みな)は世界中に知れ渡っており、この信仰は現在も多くの実を結び続けています。死人がよみがえり、病がいやされ、サタンの縛りからの解放がイエスさまのお名前によって今なおなされています。
 イエス・キリストは、神のひとり子です。神さまは私たちを愛するが故に罪や死から私たちを贖(あがな)い出そうと救いの計画をお持ちでした。そこで、今から約2000年前にイエスさまがこの世にお生まれになったのです。イエスさまはおよそ30歳で公生涯に立たれ、多くの病人をいやし、悪霊に制せられている者を解放し、神の国の到来を告げ知らされました。
 そして3年半の後、イエス・キリストは十字架にかけられ死なれました。イエスに期待した者たちは望みがついえ、悲しみます。
 しかしその死が何よりも大きな勝利であったのです。イエス・キリストの死は、私たちの罪が贖われるための代価であり、私たちはこれによって救いを受けたのです。
 さらに、イエスさまは3日目に復活されました。贖いはここに完成しました。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めるなら、もはや罪に定められることはありません。私たちは永遠のいのちを持つようになったのです。
 コリント人への手紙第一1555節には「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」と書かれています。主は死に打ち勝たれました。イエスさまを信じるなら、もはや死を恐れることはありません。十字架という代価を払って主は私たちをご自身の元へ買い戻してくださいました。イエスさまこそ唯一の救いです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月14日号(第1050号)より転載—

2019年7月3日水曜日

 

 イエスさまは、公生涯においてさまざまな奇跡を行われました。その中で、5000人の給食として有名な奇跡が各福音書に記されています。ヨハネの福音書6章をご覧ください。
 大勢の人の群れがご自分の方に来るのを見て、イエスさまはまず弟子のピリポを試して言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5節)。頭の良いピリポは、概算して言います。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリ(労働者の200日分の給与)では足りません」(7節)。これは、ピリポにとって思い付く最高の金額でした。しかし、それでも足りないと分かっています。計算不能。これがピリポの答えでした。
 次いでアンデレがイエスさまの所にやってきて言いました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」(9節)。彼もまた足りないことを承知の上で、パンと魚を差し出してイエスさまを待ちました。
 そこでイエスさまは、群衆をすわらせ、パンを取り感謝をささげてそれを分け、魚も同じように欲しいだけ人々に分けられました。その上で、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。アンデレが「それが何になりましょう」と語った五つのパンと二匹の魚から、万という数の人々が食べ、また養われました。これは、奇跡です。
 こういう訳で、私たちもまた、神さまに信頼して信仰を働かせていきましょう。たとえ、あなたの持っているものがわずかなものであっても、またあなたに力や能力が無くても、持てる全てのものをキリストにささげ、より頼むなら、必ずイエスさまは全能の御腕(みうで)をもってあなたを受け取り、栄光を現してくださいます。信仰のあるところに奇跡があります。(イスラエル北野)

み声新聞2019年7月7日号(第1049号)より転載—

2019年6月26日水曜日

狭い門

 終わりの時代のリバイバルの働きのため、再臨に至るまでの神の働きのため、これら二つを担うべきビジョンとして、私たちの教会は1984年41日に東京都国分寺市に産声を上げました。
 集められたのは、一風変わった人ばかりです。マルコの福音書1210節に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」というみことばがあります。その通り、集まった人たちは他の所でやっていくことができないような、ならず者ばかりでした。にもかかわらず、彼らを土台として教会形成が始まりました。
 神さまのお心は、リバイバルにありました。リバイバルの器にしてあげようという神の招きは広くいき渡り、ならず者たちはそれを信じ、人生をささげたのです。
 それから30数年。30年はちょうど一世代に当たります。待たされ、試され、去って行った者もあれば、神の助けを頂いて残った者もありました。イエスさまは、マタイの福音書2214節で「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」と語られましたが、その通りに、わずかな者だけが残りました。
 また、同7章でイエスさまはこう語られました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(1314節)
 門とは、入り口です。私たちにとって選びやすいのは広い門です。多くの人が広い門から入ります。しかしこれは滅びに至るのです。
 一方、いのちに至る門があります。その門は小さく狭く、まさかこれがと思うような門です。それはイエスさまです。イエスさまを通して私たちはまことのいのちを受けます。イエスさま以外に救いはありません。狭い門から入りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月30日号(第1048号)より転載—

2019年6月19日水曜日

自己実現と自己否定

 私が成人を迎えた頃は、ちょうど「キャリアウーマン」という語が世に出てきた時代で、その流れで「自己実現」ということが大きく人々の関心を引いた時でもありました。
 自己実現という言葉は、自尊心をくすぐる甘い誘惑でした。その頃私はすでにクリスチャンでしたが、すっかり惑わされてしまい、クリスチャンライフもまた、自己実現の一つだと考えるようになりました。突き詰めてみるとそれは私のためにイエスさまがあるというスタンスで、自分に死んで「イエスさまに聞き従う」という、イエスさまによる「自己実現」とは正反対のものであったのです。
 イエス・キリストを、自己実現のための方策の一つとして捉え、イエスさまを、私の自己実現をなしてくださるお方として見たとき、神の恵みから外れました。それは、イエスさまでなく自分を主とする生き方であったのです。
 マタイの福音書に「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(1039節)という一文があります。これは、聖書にはよくあるのですが、逆説的な表現です。自分のいのちを自分のものとしないで、むしろ失うなら、いのちを得るというのです。聖書は自己実現よりむしろ、キリストにある自己否定である、「祈り聞き従い」を推奨し、世に死んでキリストに生きることを語っています。そしてそれこそが、イエスさまが下さる本当の、神による自己実現です。
 私たちは、試されます。キリストに名を借りて、多くの人が自分の生き方を主張し、それを実現しようとします。しかし、人間にとって最も大切なことは自分に死に、神に対して生きることです。神に従うことこそが、本当の自己実現なのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月23日号(第1047号)より転載—

2019年6月12日水曜日

 

 中学生の頃、母の代理で、ある新興宗教の総本山へ行きました。強烈な体験でした。自分と同じ年代の者たちが熱心に信心している姿を見て、私も思い切って信じることにしました。
 大きな偶像を前にいろんな作法を教えられました。寝る時、偶像に足を向けてはならないとか、偶像の置かれている部屋は素足で入ってはいけないとか。また、お経が伝記のように読めるので意味を尋ねると、お経はありがたいものなので、理解するものではないと言われました。
 先祖親族の供養が勧められ、1人につき幾らという供養料を払い、お勤めを欠かさぬよう指導されます。とにかくお金がかかりました。今から思えばこれら全ては宗教ビジネスであったと思います。地獄の沙汰も金次第。希望をちらつかせてはいるものの、宗教は何をもって救いを確約できるのか、その点が曖昧です。
 それに対して神は、栄光を輝かせられました。神は、生まれながらの罪人でやがて死んでゆくはかない私たちを愛しあわれみ、ご自身のひとり子なる神イエス・キリストを下さいました。イエス・キリストは、私たちを救うために私たちの罪を贖(あがな)うため、2000年ほど前にこの世に来られ、十字架の死を遂げられ3日目に復活されました。ここに私たちの贖いは完了し、以来この福音を信じる者は誰でも皆、無条件で救われます。
 使徒の働き4章12節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と書かれています。
 偶像は人から出、人が作ったものです。しかし本当の救いは、真の神から出ました。むなしい偶像を捨て、真の神、イエス・キリストに立ち返りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月16日号(第1046号)より転載—

2019年6月5日水曜日

賛美の力

 賛美は強力な力を持っています。1983年1218日、杉並区高円寺にあるキリスト教会の一室で私は神さまに立ち返りました。
 牧師が祈ってくださったのですが、祈られると不思議なことに私の体が右へ右へと押されるのです。ついには畳の上に身を投げ出してしまいました。ややあって、何ばかな事をしているのだ、と立ち上がろうとした瞬間、聖霊に打たれました。
 幼い頃、日曜学校で歌っていた「いつくしみ深き」の1節が、突如私に触れました。「などかは下ろさぬ負える重荷を」。お前はどうして負っている重荷を下ろそうとしないのか? そんな言葉とメロディーに触れられ、その日、私はみ父の元に帰りました。
 その頃はちょうど、アメリカのリバイバルソングが、日本でも歌われるようになっていた時でした。中でも「シングハレルヤ」という歌は、シング・ハレルヤ・トウ・ザ・ロードという言葉を繰り返すだけです。しかしそのメロデイは絶妙で、涙ぐんでしまうような深いご臨在がありました。
 詩篇22篇3節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」という一文があります。私たちが賛美によって触れられるのは、賛美の中に神ご自身が住まわれているからに他なりません。計り知れない強力な力が賛美にはあります。
 1989年8月、ダバオで、オーストラリア人宣教師のジャッキー・ハミルさんが殉教しました。銃撃戦の中で後ろから銃で撃たれ即死の状態でした。にもかかわらず彼女は、20分ほどその場で賛美をささげていたといいます。そして最期に、大きく息を吐いてイエスさまの所に向かいました。
 賛美は、生ける神が人に与えてくださった最高のささげものです。賛美を通して私たちは大胆に神に近づくことができるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月9日号(第1045号)より転載—

2019年5月29日水曜日

逆転勝利

 新約聖書のコリント人への手紙第二12章に、興味深いことばがあります。パウロが語ったことばで、「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(9節)とも、「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(10節)とも、書かれています。
 私は、このことばを知れば知るほど、自分の人生観が変わってきたことに驚いています。弱さは決してマイナスの要因ではなく、むしろ神が働かれる土台、祝福を受けるポイントとして用いられるのです。あわや、という状況の中で幾度も神による逆転勝利を見てきました。
 私の住む旭川市は、旭山動物園で有名になりました。廃園寸前のところにいましたが、そこから盛り返したのです。画期的な運営は成功し、日本の動物園全体に大きな影響を与えました。
 私の両親は離婚寸前、突如父にガンが見つかりました。そこから父母は離婚を止め、力を合わせて闘病しました。離婚するはずの2人でしたが、病院でおしどり夫婦として有名になるほどの大逆転が起きました。
 さらに、教会のキャンプ場として、白馬に素晴らしいホテルが開かれていますが、これも元をたどれば、ヤングキャンプの場所がない、という絶体絶命からの大逆転でした。
 イエスさまの生涯もまた、逆転勝利といえるのではないでしょうか。イエスさまが十字架の上で息を引き取られた時、サタンは神のひとり子を殺したと有頂天になっていたでしょう。しかし、神はイエスさまを死からよみがえらされました。全てがひっくり返ったのです。
 他にも多くの逆転勝利を挙げることができます。ですから問題を恐れないで、イエスさまを信じて神さまに期待しましょう。神さまにおできにならないことは一つもありません。これから神による逆転勝利があなたの内にも起こります。 (イスラエル北野)

み声新聞2019年6月2日号(第1044号)より転載—

2019年5月22日水曜日

霊の世界

 「令和」という時代になって、多くの人が御朱印を求めて寺社に並んでいる様子をテレビが伝えていました。御朱印というのは、寺社仏閣に参拝したことの証しに求めるもので、日付と寺社名が筆で書かれ、赤い印が押されたものです。御朱印を頂くことは、その寺社との霊的な関係が結ばれたことを意味するといいます。
 私は、四国出身です。四国は「四国八十八箇所」という弘法大師が開いたとされる
88
の霊場を巡礼するお遍路さんで有名です。私の家族親族もこれに帰依して家には大きな額縁がありました。88の御朱印を一つに集めて額縁に仕立てています。とても高価なものです。
 さて、ある時、父が病を得、大きな手術をしなければならなくなりました。何とか助かってほしいと願った母と妹と私はこの額縁を捨てることにしました。父は激怒するでしょう。しかし、命には代えられません。聖書では、悔い改めて高きところを取り除くと、神が祈りに心をとどめられ、あわれんでくださったという記述があるので、偶像を取り除き神にあわれみを請う、もう私たちにはこれしかありませんでした。
 手術は成功しました。術中父は、夢なのか現実なのか白い雲に乗って天国に行ったと言います。予定より早く手術は終わり、医師も肝硬変には違いないがまだ大丈夫だと、早くもいやしさえ始まっていました。私はこれが、額縁を処分したことと深く関わっていると信じています。御朱印によって付けられた悪霊との関係が断ち切られ、キリストの支配のうちに入ったのです。
 世の中には、見えるところによらない霊的な世界というものがあります。特にいやしでは顕著にそれが現れてきます。悔い改め神に立ち返るなら、あなたは永遠のいのちを得ます。救いはキリストのうちにあるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年5月26日号(第1043号)より転載—

2019年5月15日水曜日

弱 さ

 罪はいろいろありますが、「高ぶり」は人が最も陥りやすい罪だと思います。自分を高くしてしまうとまず元に戻ることはできません。私もこれで幾つか手痛い失敗をしました。
 使徒パウロは、ユダヤ人社会のセレブです。誇れるものはたくさんあります。にもかかわらず彼は、コリント人への手紙第二12章5節で「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」と告白しています。
 何があったのでしょうか。7節ではこう書かれています。「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」
 パウロが主から受けた啓示があまりにも素晴らしいものであったので、高ぶることがないよう、神はパウロに肉体のトゲを与えました。一説では病気であるといわれています。このトゲはパウロに絶えず弱さを思い起こさせるものとなりました。またパウロは、3度、これを私から去らせてくださいと神に願いました。しかし、神は「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(9節)と語られました。
 世は弱さを恥とします。しかし、神の前では弱さは恵みであり祝福です。なぜなら、弱いところには神が働くからです。
 それを悟ったパウロは「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語りました。神は、私たちの弱さを、恵みによって、強さへと変えられます。
 イエスさまを信じましょう。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(10節)ということばは、あなたの上にも必ず成就する、神の恵みのことばです。 (イスエル北野)

み声新聞2019年5月19日号(第1042号)より転載—

2019年5月8日水曜日

救 い

 大学生の時、友人に連れられてMキリスト教会に行きました。実は小学校の時に日曜学校に通っていたので、教会は初めてという訳ではありませんでした。それから数年、大学で心理学を学び、そこにこそ解決があるように思い高ぶり、キリスト教は(宗教は)もう卒業したと豪語する者でした。M教会では、何名もの方が親切に声を掛けてくださいました。しかし話をすると、皆一様にあなたのような人は救われないだろうと言い、私自身もそう思っていました。
 ところが、神の愛と恵みによって私は救われたのです。その日、M教会の一室で祈った時、聖霊さまのご臨在に触れ、神の元に帰りました。全てが一変しました。見るものも触れるもの全てが新しく、心に大きな喜びが注がれました。
 人を救うのは神です。自分の力でも人の力でもありません。神の恵みです。ですから私は無条件に救いにあずかりました。どんなかたくなな人であっても、神さまにはおできにならないことは一つもありません。ですから、広く救いを求めていただきたいのです。
 使徒の働き1631節に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と書かれています。このことばは真実で、私が無理だと諦めていた家族親族が次々に信仰に入りました。救いは絶対に無理と思われた迫害の人・父さえも、妹を通して救われました。驚くことに、信仰に入ることを強く反対しているような人ほど、救われると一変して、猛烈に神さまに仕えるようになります。使徒パウロがその一例です。
 家族の救いは神さまの約束です。私たちに必要なのは、主イエスさまを信じること、ただそれだけです。主の恵みは深いのです。あなたもあなたの家族も救われます。主イエスを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年5月12日号(第1041号)より転載—

2019年5月1日水曜日

赦された罪人

 12
章には「私たちの兄弟たちの告発者」という一文があり、サタンは
私たちを神に告発するものです。
 サタンは、やがては自分が滅びることを知っているので、神に愛されている人間をとても憎んでいます。あわよくば地獄に連れて行きたいと、私たちの罪を激しく糾弾して、神に訴えているのです。
 サタンは巧妙に自分を隠します。サタンなんているはずがないという思索を吹き込んでいるので、私も未信者の時にはそう信じていました。しかし、いないなんてとんでもない、それこそが最大の惑わしです。
 そもそも、サタンは大うそつきです。創世記3章で、蛇(サタン)はエバを惑わしました。神さまは人に「善悪の知識の木」から取って食べてはならない、それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ、と語られました。しかし蛇は「あなたがたは決して死にません」と大うそを語って、エバを惑わし、結果、人類に死が入りました。
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世紀の今でも、昔同様、サタンは暗躍しています。しかし、イエスさまが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったので、サタンはもう敗れています。
 キリストを信じる私たちは罪の赦しを頂いたので、全てさばきは無効となりました。罪人であることには変わりありませんが、私たちは赦された罪人です。そして神に愛されているのです。
 あなたも神を信じ、祝福を受けましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年5月5日号(第1040号)より転載—

2019年4月24日水曜日

口にする言葉

 舌、つまりは私たちが口にする言葉は、コントロールするに困難なものです。箴言に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(1821節)とあります。語る言葉は命にもなるし、死にもなります。どちらを選ぶのかは人に任されています。悪い言葉は悪い事をもたらし、良い言葉は良い実を結ばせます。
 言った言葉を取り返せないのが失言です。つい先日、某復興大臣が辞任しました。党員の応援演説の席で、口が滑って被災者の方々より選挙の方が大切であるかのように語ってしまいました。言ってしまったら最後、もう取り返しは利きません。結局大臣は辞任しました。
 私も先日、娘を泣かせてしまいました。娘が嫌がることを嫌がるタイミングで、つい口にしてしまったのです。気を付けてはいたのですが油断して無意識のうちに失言しました。娘の涙を見てはっと気付きましたが後の祭りです。大概にして傷つける方は何ともないです。しかし傷つけられた方は、心の痛みに懸命に耐えているのです。
 人の舌は心にある隠された本音を語ってしまうものです。語ってしまったら最後、慌てて取り繕うとしてもぼろが出るばかりです。しかし、神に感謝です。悔い改め、主にすがるなら、主は私たちの全ての罪を赦し、そして全てを益に変えてくださいます。
 私たちが祝福の言葉を語るなら、相手も私たちも祝福されます。しかし、否定的な言葉を語るのなら、失うばかりで、何も良いものを得ることはありません。それ故、語るなら、自分も周りの人たちも祝福され、豊かになる言葉を語りましょう。
 イエスさまを信じて救いを得、神さまに求めましょう。神さまが私たちに下さるのは、愛といのちのことばです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月28日号(第1039号)より転載—

2019年4月17日水曜日

あなたを知っている方

 「自分のことを一番よく知っているのは自分だ」。よくこんなことを言う人がいます。本当にそうでしょうか。私はむしろ人の一生は、自分を知るための旅であるように思います。
 伝道者の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という一文があります。神は創造者です。神が私たちを造りました。ですから、自分が何者であるかということは、神に聞くのが一番です。しかも若い時にと、ここには書かれています。
 具体的に話しましょう。バスケットボールと時計があります。バスケットボールは飛び跳ねる物として神は造られました。バンバン床に弾むことがバスケットボールの栄光です。それを見ていた時計は、自分もまた床にバンバン打ち付けられることが栄光の現れだと思ってしまいました。そこで、床に身を打ち付けると、時計は精密機械だから、ひどく壊れてしまいます。
 人との比較によって自分を知ろうとすると、こうなります。時計の栄光は、正確に時を刻むことにあります。バスケットボールにならって床に打ち付けようものなら、それは時計としての自殺行為です。
 父なる神さまは、私たちを愛された故に、ご計画をもって私たちを造ってくださいました。私が何者であるのか、その答えは創造主である神さまのうちにあります。
 私たちの人生の完成は、神抜きにしてはあり得ません。私たちは皆、意味や使命をもって神によって造られたのです。神に立ち返り、神に聞くなら、神さまはあなたのために立ててくださった計画を教えてくださいます。エレミヤ書33章3節にはこう書かれています。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう」(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月21日号(第1038号)より転載—

2019年4月10日水曜日

いやし
 宗教といやしは密接な関わりがあります。小さい頃、月詣で山岳信仰の寺院によく連れていかれました。一角に祠(ほこら)があり、たくさんのギプスやつえが奉献されていました。おそらく、いやされた人の物でしょう。興味深いことに、宗教はどの宗教も病のいやしをうたっています。
 キリスト教においても病のいやしはあります。むしろキリスト教の方が本家です。イエスさまが世に来られ宣教をされた時、多くの病人や悪霊につかれた人がいやされ、解放を受けました。救いの道筋を作るにあたって、いやしの働きは大いにそれを助けました。
 キリスト教のいやしの根拠は、イザヤ書53章のことばにあります。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)このことばが、今なお生きて人をいやすのです。彼というのはイエスさまです。イエスさまは約2000年前にこの世に来られ、神の国の到来を告げ知らせ、多くの人をいやし、死人をよみがえらせました。最期には十字架によって私たちの全ての罪を担い、死んでくださいました。そして、3日目に死者の中からよみがえりを果たされたのです。このイエスさまの、み苦しみを引き換えに、私たちはいやしを受け、また永遠のいのちを受けるのです。
 先日、急に妹がぎっくり腰になりました。仕事があるので休めず、牧師である母に祈ってもらうと、患部が熱くなり痛みが消えたと言います。神さまは今もいやしてくださいます。詩篇103篇3節にも「(主は)あなたのすべての病をいやし」と書かれています。私たちが健やかでいることは神さまのみこころです。
 こういう訳で、イエスさまを信じましょう。そして求めましょう。イエスさまは病をいやし、永遠のいのちを与えてくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月14日号(第1037号)より転載—

2019年4月3日水曜日

「死」と「無」

 死んだらどうなるのだろう、誰もが問いたい疑問です。天国に行く、地獄に行く、「無」になる、いろんな人がいろんな考えを持っています。特に「無」になるという説は、今風で魅力的です。俳優のMさんは、自分の墓石に「無」と刻みました。死んでしまったら、自分は「無」になるのだと信じてのことでした。
 私もまた、死ねば「無」になると思っていた時期がありました。
 10代の頃、自分を否定する思いが高じて、何度か死のうとしました。確かに死ぬと肉体はちりに帰ります。しかし、ものを考え判断するこの私自身は神が造られたものであり、そういう意味では人間は霊的な存在です。死んだとしても、「無」になることはありません。私が自殺をやめた最大の理由は、そこにあります。死んでもその「死」は、地上の命が終わったことを意味するだけで、「無」になるわけではない、と知ったからです。
 「死」や「無」はよく同列に論じられます。しかし「死」は決して終わりではありませんし、あなたという存在は、「無」にはなりません。私たちは神の前に神に対して生きているのです。コリント人への手紙第一15章に「朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか』」(5455節)と書かれています。死のとげはクリスチャンには効き目がありません。それどころかイエス・キリストを信じる者は皆、復活するのです。
 イエス・キリストを信じるなら、パラダイス(天国)です。「無」でもなく、「死」でもありません。私たちは永遠に神とともに生きるのです。イエスさまを信じましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年4月7日号(第1036号)より転載—

2019年3月27日水曜日

いやしと聞き従い

 列王記第二5章に、ナアマンという将軍が登場します。彼はアラムの王の将軍で、主君に重んじられ、また人々に尊敬されていました。ただ、彼はツァラアトという重い皮膚病にかかっていました。
 彼の妻の下女が、サマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっとツァラアトを直してくださるでしょう、と言ったところから、ナアマンは、馬や戦車をもって預言者エリシャの家を訪ね、入り口に立ちました。エリシャは、彼に使いをやって言いました。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」(10節)
 これを聞いてナアマンは激怒します。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川は、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」(1112節)
 長年の闘病生活の中で、ナアマンは自分の病のいやしに関して既に固定したイメージを持っていました。ですから、姿さえ見せずに、使いをやって一方的に言葉を伝えただけのエリシャの対応に心底から怒ったのです。
 帰ろうとしたところ、家来の1人が彼を助けました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことを命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか」(13節)
 そこで、ナアマンは思い直して下って行き、エリシャの言った通りにヨルダン川で七たび身を浸すと、彼のからだは幼子のからだのようにきよくなりました。ナアマンは、エリシャが語った「神のことば」に従った時、いやしを見ました。いやしのポイントは、実は聞き従いにあるのです。神のことばを受け、従うこと。これがいやしの秘訣(ひけつ)です。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月31日号(第1035号)より転載—

2019年3月20日水曜日

よみがえり

 マルタとマリヤの姉妹は、兄弟ラザロの病を案じてイエスさまに使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。
 これに対してイエスさまは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためのものです」(ヨハネの福音書11章4節)とお答えになりました。
 イエスさまは、既にご自分がなすべきことをご存じでした。それは死者のよみがえりです。ラザロが死んで4日たち、望みが絶たれた頃、イエスさまは墓に着かれました。そこで、大声で「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれると、死んでいた人が布切れのまま出て来ました。ラザロはよみがえったのです。イエスさまの言葉通り、病や死に打ち勝った神の栄光が勝利のうちに現されました。
 そして、イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(2526節)と語られました。
 死に対する勝利がここにはあります。死は人類の最後の敵です。ラザロのよみがえりは、後に来る、イエスさまの復活の先取りといえます。それゆえイエスさまは私たちに先立って、死からのよみがえりを果たされました。
 イエスさまは、ご自身死者からのよみがえりを果たすことを通して、救いの道を完成されました。こういう訳で、私たちはもはや死を恐れることはありません。あなたに関する全てを主イエスは成し遂げてくださいました。病もまた、栄光のうちに良きものに変えてくださいます。イエスにつく私たちもまた、イエスさまにあって死からよみがえります。イエス・キリストの元に帰りましょう。      (イスラエル北野)

み声新聞2019年3月24日号(第1034号)より転載—

2019年3月12日火曜日

希望は天にあり

 今年もまた春がやって来ました。桜の花をめでながら、天に帰って行った父を思い出します。1999年4月19日に父は肝臓がんで地上での生涯を終えました。55歳でした。父のがんは進行が速く、闘病生活は2年に満ちませんでした。
 父の病気に関して、神さまは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(ヨハネの福音書114節)ということばを下さっていました。 
 現状が現状なので、「死」ということばにはドキリとしました。また、栄光とは一体何が起こるのか、その意味するところを理解できませんでした。 
 幸いなことに、父は入院前に妹を通して救われていました。病は父の信仰を立て上げました。病状が進む中、父は一切愚痴を口にせず、激烈な痛みにじっと耐え、助けてくださる方々に感謝の言葉を語り、最期までイエスさまのいやしに期待して闘病生活を全うしました。父は勝利の凱旋(がいせん)を遂げ、私たちは確かに神の栄光を見ました。
 目には見えませんが、教会にはイエス・キリストがおられます。イエスさまは病をいやしてくださいます。私たちが健康であることは神のみこころにかなうことです。ですから、大胆にいやしを求めて良いのです。そしてその通り、多くの人が祈り、がんが縮小したり消滅したり、神の奇跡と栄光の現れを見ました。
 しかし、いやしを受けながらも、結局は亡くなってしまうこともありました。それは、病のいやしは、究極的には天において復活のからだを頂くこと、すなわち「救い」にあるからです。
 私たちの希望は天にあります。天の報いこそ、私たちの永遠の取り分です。病のいやしもさることながら、天への希望こそが、神が私たちに約束されたご自身の栄光です。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月17日号(第1033号)より転載—

2019年3月5日火曜日


父の愛

 ルカの福音書15章に、放蕩息子のたとえと呼ばれる箇所があります。登場人物は、神さまを指す父、優等生の兄、そして出来の悪い弟の3名です。
 ある時、弟は財産分与を父に願い出ます。父はそれを聞いてやりました。すると、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。
 その地で彼は、放蕩の限りを尽くし、湯水のように財産を使ってしまいました。そこへ大飢饉(ききん)が起こり、食べるにも困るようになりました。そこで、ある人のもとに身を寄せたところ、彼を畑にやって豚の世話をさせました。ユダヤ人にとって豚の世話は忌み嫌われている仕事です。しかも、彼がどんなに空腹であっても、誰も彼に食べ物をくれず、豚が食べている豆で腹を満たしたいほどでした。
 悩みを受けて、彼は父とその国とのことを思い起こします。彼は決意しました、帰ろうと。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」。こう語るつもりでした。ところが、まだ家から遠かったのに、父は彼を見つけました。かわいそうに思って走り寄り、彼を抱き、口づけしました。
 父はこう言います。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい」。父は、彼を再び子として迎えてくださったのです。兄は、放蕩ざんまいで身を持ち崩した弟に祝宴を設ける父に不服でしたが、父は、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ」「楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と言いました(1132節参照)。
 神さまは、たぎる愛をもって、あなたが帰ってくるのを待っておられます。み父の元に帰りましょう。神はあなたを、愛する子として迎えてくださいます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月10日号(第1032号)より転載—

2019年2月27日水曜日

老いにあっても

 私は50代の主婦です。若い頃の自分が考えていた50代というのは「年寄り」のイメージでした。しかし、いざ自分が50代に踏み込むと、心はとても若いのです。自分を「年寄り」として認めるにはまだ早いかな、と思います。
 昔は還暦といえば長生きした方で、60歳になると、よくここまで生きてこられましたね、と赤いちゃんちゃんこを着て祝いました。そこから見ると今の日本は、押すに押されぬ長寿国になりました。昔の60歳と今の60歳では大きく異なると言われています。
 とはいえ、寄る年波には勝てずと言います。加齢とともに少しずつ不自由になっていく身体に向かい合う中で、余生をいかに生き、いかに人生の幕を下ろすかということを思わない人はいないと思います。
 イザヤ書40章にはこのように書かれています。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(3031節)
 また申命記34章には「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とあります。
 聖書が言う、たゆまぬ力、はどこから来るのでしょう。それは神から来ます。ですから、キリストを信じることがとても大切です。神を信じ、神の御声に従うこと、それが力だと聖書は語っています。神が下さる力は、肉体の若さ以上に優れて偉大です。主を待ち望むことは私たちの力です。
 アブラハムもモーセも、年を取ってからその人生のクライマックスを迎えました。神にあって彼らは壮健でした。私たちもまた、イエスさまを信じてイエスさまに従う人生を行きましょう。神とともに歩む人生には、神の力が注がれます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月3日号(第1031号)より転載—

2019年2月20日水曜日

期待する心
 
 クリスチャンライフの中で最も重要なものは信仰です。ところが私は、信仰と聞くたびに苦手意識が頭をもたげます。敵の攻撃なのでしょうが、私は不信仰だから何も起こらないだろうと、信仰の不足を責められているように感じていました。
 信仰とは何でしょう。確かにいろいろな意見があるとは思いますが、私は「期待する心」だと思います。例えば聖書には「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイの福音書7章7節)という約束があります。この一文を読んで、そうだ、と期待する心を持って近づくなら、そこに信仰が働き、神さまの手が動きます。神さまは、約束を果たされるお方ですから、その約束は必ず実現します。
 しかし信じていない人はどうでしょう。それらの人々は、初めから期待などしていません。ですから祈りもしません。結果、何の神のわざも見ないのです。不信仰は、期待しない心の成れの果てです。
 願うこと、求めることは、信仰によります。信じていない者がどうして祈ることができましょう。神は答えてくださると信じたその信仰だけが、神の約束を確かなものにするのです。願うこと、求めることは、信仰によります。それ故、私たちは期待する心をもって神に近づきましょう。信じるなら、私たちは等しく神の御手(みて)が動くさまを見ていきます。
 こういう訳で、期待するということはとても重要なことです。そこには信仰が伴うからです。信仰と行いは密接な関わりがあります。結局、人の一生は、何を信じるかによって決まります。ヨハネの福音書2027節には、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と書かれています。これはイエスさまが弟子トマスに語ったことばです。神のことばを信じ、期待し、信仰の実を結びましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月24日号(第1030号)より転載—

2019年2月13日水曜日

曲がった時代
 先週は、千葉県野田市の小学4年生の女児が、父親から虐待され死亡したという事件でもちきりでした。
 他にも記憶に新しいところでは、2018年3月に、目黒の5歳児の虐待死がありました。食事を与えられず、衰弱死した女児ですが、就学前なのに平仮名を学んで、必死に書き残した文面はたどたどしく、「もうおねがいゆるして」の文字は多くの人の涙を誘いました。それでも最後まで親に子どもらしい信頼を寄せていることが文面にうかがえ、なお、悲しい事件でした。
 子どもだけではなく、高齢者にも社会のしわ寄せがきています。
 テレビで見たある老夫婦は、わずかに残った全財産を引き出して、死出の旅に出ました。ちょっとぜいたくな旅館に泊まり、チップまで置いて過ごしました。やがてお金が尽きると、2人はあらかじめ決めていた通り、日本海で入水(じゅすい)自殺をはかり、生涯を閉じました。どんな気持ちで最期を迎えておられたか察するに余りあります。
 政治家のHさんは以前、お金がないことが分からない、というようなことを言っていました。よく億単位のお金が母親から小遣いとして振り込まれるといいます。これを聞くと、日本は中流意識が高いと言われたのも過去のことで、今は、一握りの富裕層と大多数の貧民、という格差社会へと向かって移行しているように思います。
 時代は変わりました。マタイの福音書24章は「小黙示録」と呼ばれ、特に終末の事が書かれています。その中で12節には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書かれています。確かにその通り愛が冷えているのを感じます。
 ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2章40節)と語りました。主イエスを信じ、救いを受けましょう。(イスラエル北野)
み声新聞2019年2月17日号(第1029号)より転載—

2019年2月6日水曜日

ライト(光)

 あと2年で私は、父が召天した年齢になります。父が結んだ実は多岐多様で、私など及ぶべくもない波乱万丈の人生でした。
 その日、父はゴルフ場で吐血しました。食道静脈瘤(りゅう)破裂です。病院に入院し、バルーンを調整して止血を図り、何とか一命を取り留めました。
 ヨハネの福音書1章に「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)という一文があります。これは、強力なみことばで、父の枕元に立ってこの聖句をゆっくりと朗読すると、父を取り巻いているあしきものが一つ一つ消えて行きました。この聖句は、キリストの勝利のことばでもあり、このみことばを用いるにあたって神さまの勝利がどれほど大きいかを知るようになりました。
 聖書に触れる機会が少ない日本人は、無意識のうちに、神さまとサタンを同列に見ようとする傾向があります。けれども、それは誤りです。神さまとサタンでは、光と暗闇ほどの違いがあります。光と闇は別物で、決して両者が交わることはありません。神は全能者で、サタンは被造物なのです。どんなに深い闇であっても、そこに光が置かれるなら、たちまちにして闇は消失します。両者にはこれほどの違いがあるのです。
 ヨハネの手紙第一には「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(1章5節)と書かれており、ここでも光の絶対的な勝利が記されています。イエスさまご自身もまた、こう語っておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネの福音書8章12節)
 今は、救いの時です。「あなたがたがに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネの福音書1236節)(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月10日号(第1028号)より転載—

2019年1月30日水曜日

幸せにするために

 出エジプト記は、壮大なスケールで展開される聖書の一大巨編です。イスラエルの民はモーセのつえに従い、奴隷の身分から解かれ、エジプトを脱出し、神が与える約束の地カナンに向かいます。とはいえ、エジプトがそうやすやすと許す訳がありません。パロは、幾たびも心変わりをし、イスラエルを使役しようとし、追い掛けました。
 気付けば、絶体絶命のピンチが来ていました。後ろにはエジプト軍、前は海という状況となったのです。民は、この荒野で死ぬよりエジプトで奴隷であった方が良かった、とつぶやきました。しかし神は前進と語られたのです。モーセが手を海の上に差し伸ばすと海が二つに分かれ、海の底の乾いた道を民は行き、出エジプトの栄光が現されました。
 時折、私たちは、主に従ってきたのに、なぜこんな悪い事が起こるのかといったことを、つぶやくことがあります。悩みますが、それは神さまがあなたに対して、ご自身のご栄光の計画をお持ちだからだと思います。悪い事も良い事も、神は測って与えてくださいます。意味のないものは一つもありません。試練ですら神は祝福とされるのです。
 試練はさばきに見えますが、違います。試練は良きものです。愛から出ているからです。神さまは私たちを愛しておられるのです。親が子を愛するように、この霊の父もまた、私たちを子として愛するが故に、懲らしめたり悟らせたりするのです。
 神さま、なぜこんな試練をお許しになったのですか、という祈りをした時、申命記8章16節に答えを見付けました。そこには「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」と書かれていました。あなたを幸せにするためにその試練は許されているのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月3日号(第1027号)より転載—

2019年1月23日水曜日

芸術家

 イタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロは、聖書からゴリアテに立ち向かう青年ダビデを彫刻で表現しました。「ダビデ像」は彼の代表作であり、目にした方も多いと思います。
 とかく芸術家というものは、凡人にはあずかり知れない感性を持つもので、彫刻に関して彼はこう語りました。「大理石の中に人が閉じ込められている。苦しそうだから早く出してやらないと
 私たちに見えるのは大理石の塊ですが、ミケランジェロには、その塊の中に完成されたダビデ像が見えていたのです。しかも、その大理石は、2人の芸術家がさじを投げたものであって、3番目にミケランジェロに回ってきた捨てられた石であったのです。そこから最高の芸術作品が生み出されました。神さまは、何と素晴らしいお方なのでしょう。
 マルコの福音書121011節に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」という一文があります。これはミケランジェロの彫刻に通じる話ではないでしょうか。
 神さまは最高の芸術家(陶器師)で、私たちは土くれです。失敗したからといって失望する必要はありません。どんな事でも神さまにおできになれない事はありませんし、神さまは、常にあなたに最善を図ってくださるお方だからです。
 私たちは、誰もが罪を持ち、失敗があります。しかし、イエスを主と信じる私たちは、芸術家の手によって最善のものへと作り変えられるのです。芸術家、それは神です。ローマ人への手紙828節をお読みください。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と約束されています。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月27日号(第1026号)より転載—

2019年1月16日水曜日

振り返らずに

 イスラエルの死海を訪れた際、ロトの妻といわれる岩塩の柱を見ました。そのいきさつは創世記19章をお読みください。神がソドムとゴモラを滅ぼそうとした時、御使いはロトを助けようと、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」と警告しました。しかしロトの妻は逃げる途中振り返ったので、塩の柱になってしまったというのがその由来です。
 聖書を読んでみると、神さまは、後ろを振り返ることがお嫌いであるようです。例えばイエスさまは、ルカの福音書9章62節で、家族にいとまごいさせてくれと請うた弟子に「だれでも、手を鋤(すき)につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」とおっしゃいました。
 また、ピリピ人への手紙3章でパウロはこう語っています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。(中略)ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(1214節)
 過去に目を留めると足が止まってしまいます。パウロが語っているように、後ろのものを忘れるということはとても大事なことです。そして、ひたむきに前のものに向かうということはそれ以上に大切です。
 イザヤ書43章にはこのように書かれています。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか」(1819節)
 あなたの所にも今、確かに新しい事が起ころうとしています。後ろを振りかえらず前へと進む時がやって来たのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月20日号(第1025号)より転載—

2019年1月9日水曜日

 

 祈りは一つの原則で、祈りは決して一方通行に終わるものではありません。今日救いを受けた方であっても、イエスさまの御名(みな)によって祈ることができます。そして、そればかりではなく、祈りの答えを見ることができます。クリスチャン1年生であっても、信仰歴数十年といった人と同様の結果を見るのです。
 それは、イエスさまの十字架の贖(あがな)いによって、私たちが、罪なき者とされたからです。罪があると、罪は神さまと私たちの間を遮断しますから、例外はあるとしても、祈りは聞かれません。しかし、悔い改めるなら、神は全ての罪を赦してくださるので、神のみこころに沿った祈りは聞かれます。
 経験でもなく年数でもありません。信仰です。信仰を運用し、信仰によって神に近づくなら、誰であっても神は祈りに応えてくださいます。これは原則です。
 信仰と祈りは、切っても切れない関係にあります。というのも、信じていない人は、はなから祈ることをしません。どうせ無駄だと諦めているのです。反対に、祈りを知っている人は、確信を持ってどんどん祈るようになります。祈ること自体が信仰の行いとなるので、祈る者は祈りに応えられる神さまの現実を体験するようになります。
 問題の中にある人は多いです。しかし、その中で祈りを用いる人は思いのほか少ないのです。祈りは神が働く基盤です。日々の小さな事柄を祈れる人は、大きな問題が来た時でも祈ることができます。
 祈りは、主イエスを信じる私たちの特権であり、祈りは神の手を動かします。それ故、祈ることをお勧めいたします。
 マルコの福音書1124節にはこのように書かれています。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月13日号(第1024号)より転載—

2019年1月2日水曜日

憎しみそして赦し

 世にある限り、恨みつらみは避けられません。私たちは皆、罪びとですから、人を傷つけ、また傷つけられます。それ故、「赦す」ということを学ぶことは誰にとっても必要です。しかし、これは簡単にできるものではありません。
 考えてみてください。大切な人を犯罪で殺された人はどうでしょう。犯人に復讐(ふくしゅう)してやりたいと思わないでしょうか。それを押さえて、その人を赦すことは大変な苦しみになります。
 私もまた、赦せないという心の痛みを戦っていた時期があります。しかし、あるシスターの書いた著書の一行で立ち直りました。「赦(ゆる)せないという悩みは、赦したいという心から始まっているのです」。確かそのように書かれていました。
 神さまは、赦したいのだという心の方を見てくださいます。間違っても、赦せないことを懲罰するお方ではありません。ですから、神に助けを求めていただきたいのです。神はあなたの味方です。
 ローマ人への手紙12章にはこのように書かれています。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをすると、主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。(中略)そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(1921節)
 十字架の上でイエスさまがなされたこともまた赦しでした。唾をかけられ、平手で打たれ、でもイエスさまは抵抗しません。私たちを贖(あがな)うため、赦すために、十字架で死なれました。イエスさまが私たちのために死んでくださったこの真実は、あなたに赦す力を与えます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年1月6日号(第1023号)より転載—