2022年1月30日日曜日

御国の希望 

 ザビエルが日本に述べ伝えたキリスト教は、特に九州地方を中心に爆発的な広がりを見せました。交易の旨味があるので、信長も秀吉も、時の権力者たちは宣教師に保護を与えました。しかし、バテレンたちの宣教は、日本を植民地化するためだという声が上がると、一転して疑いの目で見るようになり彼らを追放し禁教・迫害に踏みきります。

 そんな中、京都で外国人宣教師や子どもを含む24名の者が、ただクリスチャンであることを理由に捕縛されました。信仰を捨てるなら命を助けてやろう、しかし、そうでないなら死だと脅されましたが、彼らは臆することなく信仰を選び「戻り橋」を渡りました。こうして、途中で加わった2名を加えて26名の者が、京都から長崎へと徒歩で向かい、25日長崎の西坂の丘で磔刑に処せられ殉教しました。彼らは、カトリックの方々によって日本二十六聖人と呼ばれ、その信仰は今なお私たちを励ますものとなっています。

 秀吉は、悲惨な磔刑を見ると、人々はキリスト教の信仰を捨てるだろうと思っていました。でもその目論見は外れました。むしろ逆であって、多くの人々が「私も信者です。私も磔刑に処してください」と願い出たといいます。またその場には賛美が満ち、ある者は十字架の上から生涯最後の説教を語りました。素晴らしい御国のご臨在が西坂を覆ったのです。処刑場の悲惨さはなく、天国が降りてきたようであったと記録に残っています。

 彼ら殉教者たちが見ていたものは何でしょうか。それは天であり天の報いです。目に見えるものは一時的であり、目に見えないものはいつまでも続く(コリント人への手紙第二418節参照)と聖書には書かれています。殉教者たちは、これから向かう天の御国をまっすぐに見ていたのです。そして神もまた、彼らの信仰に応えられるお方でした。苦難の中にも、神の慰めがあり、励ましがあり、希望がありました。天の御国は彼らの前に門を開き、彼らを迎え入れました。彼らは死に至るまで忠実であり、信仰を全うし、殉教者の数に加えられました。

 たとえ地上のすべてのものを失っても、命まで失っても、彼らは神にあって一切のものを持ち、永遠のいのちさえ持っています。彼らは殉教し、永遠の故郷である天に帰ったのです。それは喜ばしい天への凱旋です。

 誰でも、キリストのうちにあるなら、その人はもう世の者ではありません。神の所有の民として、新しく生まれた神の子です。神ご自身があなたの父であり、それ故あなたは死から命へと移されています。殉教は、一見命を失ない、すべてを失ったかのように見えます。しかし何も失ってはいないのです。イエス・キリストには永遠のいのちがあります。この命を受けましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年1月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年1月26日水曜日

死は解決ではない

  かれこれ4半世紀になるでしょうか、日本にバブルという特別な時代が訪れました。異常な好景気で、皆、株やゴルフの会員権、高価な時計や装飾品、土地などを買い漁りました。それがまた高く売れるのです。Aさんという知人がいましたが、彼は、転売して利鞘を稼ぐために借金をしてあちこちに土地を買いました。ところが間もなくバブルは破綻し、地価は暴落し、一転して莫大な借金だけが残りました。そんな時、突然Aさんが心臓発作で亡くなられたというニュースが入ってきました。ところがそれは自殺だったのです。返せないほどの借金を抱えたAさんは、死より外に解決を見いだせず自死を選んでしまいました。

 人はなぜ、死を選ぶのでしょう。楽になりたいから、というのが多くの人の語るところです。生きているのがつらいので、死んだ方がましだと思うのです。でも、本当にそうでしょうか。私たちにとって自死は,最後の切り札だと多くの方が思っています。死ぬことは行くことはできても、戻ることはできない一方通行の切り札で、あだやおろそかに用いるものではありません。死んだからといって、解決する保証などどこにもないからです。

 とはいえ、私も長い間自殺願望を持っていました。それは、医学の助けを必要とするほどのものでした。しかし、ある時からそこから解放されはじめました。というのも、自殺の思いを突き詰めていくと分かってきたことがあったからです。それは、私たちが直面する死は決して終わりではないということです。たとえ死んでも、死んだ先でも自分は自分という存在を持っていて、神の前に、神に対して生きています。死後の世界の中でも、生きている時と同様、そこでもなお死にたいと訴えているだろう自分の姿を、容易に想像することができました。死んだら無になる、そう私は思っていましたがとんでもない。決して無になどならないこと、私たち人間はそういう存在として造られているのだということを、神さまは示してくださいました。

 人の営みは死をもってしてもなお、終わるものではありません。死ぬことは肉体の終わりではありますが、霊たましいは神の領域にあるものであって、人は己の存在を消すことなどできません。また、それができるのは神さまお一人で、神さまはそういうかけがえのないものとして人をお造りになったのです。そしてかけがえのない愛で人を愛しておられます。

 死にたいと訴えるのは、往々にして解決が欲しいということの裏返しです。死を求めるのは、死が解決であると思っているからです。しかし、そうではないことは既に述べた通りです。問題の解決は、死ではなくイエス・キリストの内にあるのです。死は解決ではありません。

 それ故どうかイエスにあって生きる勇気を求めてください。なぜなら神はあなたを愛し、あなたを助けたいと思っておられるからです。イエス・キリストは、あなたを救うために世に来られ、あなたが神の元へ帰ることができるよう、十字架の死によってあなたを贖ってくださいました。そして聖書にはこう書かれています。

 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ人への手紙832節)イエスの慰め、イエスの助けこそが本当の解決です。

MIKOE NEWSから転載」 2022年1月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年1月18日火曜日

試みられたアブラハム

 アブラムが99歳になった時、主はアブラムに現れ契約を立てられました。彼の子孫をおびただしくふやし彼を多くの国民の父とすること、カナンの全土を彼と彼の子孫に永遠の所有として与えるということで、神はアブラムをアブラハムという名に変え、これをもって新しい出発とされました。

 100歳になった時、前もって告げられていた通りにアブラハムと妻サラとの間に嫡男イサクが生まれました。彼にはサラの女奴隷ハガルとの間にイシュマエルという子がいましたが、神はイサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれると言われたのです。イサクはアブラハムの契約を受け継ぐ約束の子孫です。彼がいかに重要な人物であるか伺い知れるでしょう。

 これらの出来事の後、神はアブラハムを試みに会わせられました。神は、アブラハムに「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と語られたのです。

 全焼のいけにえは献身を意味しています。神になだめの香りをささげるため、牛または羊を全部焼くもので、神はそれをイサクで行いなさいと言われたのです。イサクが死んでしまったら、神の約束を継承する者がなくなってしまいます。どうなるのでしょう。

 しかし、アブラハムは神のことばに従順でした。これを聞くと、翌朝早くただちにイサクと伴の者2人を連れ、告げられた場所へ出掛けました。そして3日目、その場所が見えてきました。アブラハムは伴の者を残し、全焼のいけにえのたきぎをイサクに負わせ、自分は火と刀を手に取り進んでいきました。

 途中イサクは、「お父さん。(中略)火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」と言いました。アブラハムは「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と答えました。ほどなく二人は到着し、アブラハムは祭壇を築き、たきぎを並べイサクを縛りその上に置きました。そして、刀を取ってイサクをほふろうとしました。

 その時、主の使いが天から彼を呼び言いました。「あなたの手を、その子に下してはならない。(中略)今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」また言います。「あなたが、このことをなし、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福しよう。(中略)あなたが私の声に聞き従ったからである」

 アブラハムは、この件で彼が神を恐れるかどうかを探られまた試されました。イサクは約束の子です。イサクが死んでしまうと神の約束もそこで終わります。でも、信仰の父アブラハムは、そうとは考えませんでした。彼は、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と考えた(へブル人への手紙1119節)のです。アブラハムは神を恐れ、よみがえりさえも信じていました。そして、事実その信仰はイサクを取り戻しました。

 神は私たちの心を見られます。また、心にあるものが明らかにされるために、あえて試みの中に捨て置かれることがあります。けれどもこれはアブラハムひとりに限ったことではなく、私たちもまた、同様です。しかし、神は、あなたが従えるよう必ず助けてくださいます。こういう訳で神を恐れ、また、神に信頼しましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2022年1月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年1月11日火曜日

十字架

 今は昔。(今となれば昔の話になりますが、)私は讃美歌262番が大好きで好んで歌っていました。「十字架のもとぞいと安けき。神の義と愛の会えるところ」というこの歌詞がとても心に響きます。神の義とは、神の正しさであり、神はそれ故に、人の罪を看過することはできません。しかし、神は私たちを愛されました。罪人であり、それ故神と断絶している私たちを憐れみ、何とか救いたいという神のご愛から出たのが、イエスの十字架です。

 神は私たちを愛するが故に、私たちの罪を、私たちでなく御子イエス・キリストの上に置かれました。イエスさまは私たちの罪を担い、十字架の死と、それに続く三日目の復活によって、私たちの罪を贖ってくださいました。讃美歌で歌われているように十字架は、神の義と愛の二つのものが出会い、一つとなった愛のかたちです。

 このことに関しては、エペソ人への手紙2章で次のように書かれています。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(中略)このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」(1416節)。

 二つのものとは、直接的にはユダヤ人と異邦人を差し、隔ての壁は、エルサレム神殿のユダヤ人の庭と異邦人の庭を仕切る壁のことをいいます。また、ご自分の肉において敵意を廃棄したというのは、キリスト・イエスが、肉体を取ってこの世に来られ、十字架で死なれたことをいっています(チェーン式バイブル脚注より引用)。深く読むなら、十字架は、神と人との和解であり、イエス・キリストによって実現されたものなのです。

 救いは、ただ十字架によってもたらされます。イエスさまが十字架で死んでくださったのは、復活の力によって死からの贖いを果たし、私たちを死から命へ買い戻すためでした。私たちには原罪があり、私たちは罪の奴隷で、その行き着く先は死です。誰もそれから逃れることはできません。しかし、神はそのことをよくご存知なので、イエスの十字架によって私たちを贖い、信仰と救いを下さいました。

 イエスの名によって悔い改めるならその罪はすべて赦されます。神は罪無きご自身と罪を持つ私たちを、イエスの十字架によって和解させ一つにしてくださったのです。

 こういう訳で、誰でもキリストの十字架を信じる者は、罪の赦しを受け、その人は死から命に移っています。また、私たちはイエス・キリストを信じることによって神の子としての身分を受けています。十字架によって私たちは神との和解がなされているのです。十字架の救いを受けましょう。これこそ私たちに永遠のいのちをもたらす神のご愛なのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2022年1月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年1月2日日曜日

パン

 パン。これは私たちの日用の糧であり、日々の生活を支える命です。人は食うためには働かずにはいられません。職を持つのもまたこれを得るためです。アダム以降、人類は土地を耕し労苦して糧を、パンを得るようになりました。

 しかしながら、マタイの福音書4節では、イエスさまはこんなふうに語っておられます。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(4節)

 これはどういうことなのでしょうか。パン(衣食住といっても良いでしょうか)の追求だけで人生は決まるものではないとイエスさまは語っておられるのです。生きることは、パンを得ることに留まるものではなく、折節の神のことばのうちにあるのです。

 私は、大学時代にボーンアゲインしたクリスチャンです。とても恵まれた環境に置かれ、学業は祝福されており、学者になろうとしていました。しかし、一応祈ってみようとしたところ、思いがけずはっきりとした神さまの答えを頂いたのです。

パン

 聖書のヨハネの福音書6章がそれです。ここは、5千人の給食として有名な箇所で、イエスさまは5つのパンと2匹の魚で5千人の群衆を養いました。それで群衆のある者たちはイエスを探して湖の向こう岸まで追いかけて来たのですが、イエスさまは彼らにこういいました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」(2627節)

 人生は、空腹を満たすためばかりに費やされるものではないのです。よりよい生活を追求することでもありません。人生は神とそのみこころを行うことにあるのです。こうして私は、永遠のいのちに至る食物のために生きることを知り、このことばをもって献身しました。

 人生には意味と目的があります。あなたでしかできない働きがあります。そして神の御守りがあなたとともにあります。もし、あなたが応答するなら、神はあなたもまた、永遠のいのちに至る食物のために用いてくださいます。それは何と素晴らしいものでしょうか。

 人生の意味なんてあるのかと、うそぶく人生は虚しく、自分のいのちを捨てていることに気付きません。しかし、今日決心するなら、今日あなたは、神の子神のしもべとして、新しく生まれるのです。イエスキリストをあなたの救い主として心にお迎えください。永遠のいのち、それは時空を超えた神の救いであり、今や神の愛はあなたを取り囲んでいます。

MIKOE NEWSから転載」 2022年1月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/