2024年1月11日木曜日

ただ忠実でありなさい

 私たちは人と自分を比べてしまいやすいものです。そして、落ち込んだり、ねたんだり、逆に高ぶってしまったりします。また、世は結果主義で、能力のある人が良しとされます。しかし、神さまはどう見ておられるでしょうか。

 マタイの福音書25章に、その答えとなるたとえが記されています。タラントのたとえと呼ばれる箇所です。タラントとは能力という意味で、主はそれぞれの能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、旅に出かけました。

 5タラント、2タラントを受けたしもべは、すぐさまそれで商売をして、それぞれ5タラント2タラントをもうけました。ところが、1タラント預かった者は出ていくと、地を掘って主人の金を隠しました。

 よほどたってから、主人が帰って来て清算しました。5タラント預かったしもべは、さらに5タラントもうけましたと言い、2タラント預かったしもべも2タラントもうけましたと報告しました。主は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」とおっしゃいました。

 ところが、1タラントを預かったしもべは「ご主人さま。あなたは、蒔(ま)かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」と差し出したところ、主人の怒りを買います。

 「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい」

 ここから読み解けるのは、主人である神さまは、タラントの数の大きい小さいを全く気にしておられないということです。人はタラントの大きい小さいを見てしまうものです。しかし、神が見ているのは能力ではありません。その人の忠実さなのです。与えられたものにいかに忠実であったか、それだけが神が私たちに求めておられることなのです。

 ルカの福音書には、このように書かれています。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(1610節)

 かつて、ある祈りの器(奉仕者)が興味深いことを語りました。小さなことを日々祈っているなら、その人は大きな問題が起こってもそのことを祈ることができる。しかし、小さなことを忠実に祈るという土台を持っていなかったら、大きな問題が起こった時、いざそれを祈りに持っていくことは困難だ。とても祈れなくなるというのです。

 また、同1112節にはこう書かれています。「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」。今の世の忠実さは、後の世に主が私たちに任せようとしているものに関わってくるというのです。

 それゆえ私たちは、それぞれ任され与えられているタラントを用いて働き、神の前に、ただ忠実であることを求めてまいりましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年1月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年1月3日水曜日

蒔く者と刈る者

 詩篇126篇にこのような詩があります。「涙とともに種を蒔(ま)く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」(56節)

 どこかで、この詩をイラストにした絵を見たような気がします。ありありとその情景が脳裏に浮かびます。これは主(おも)には、福音宣教のことを言っているのでしょう。福音の種まきは戦いがあり、総じて厳しいものです。まさに泣きながら私たちはまきました。けれども、すぐに結果が出るものではありません。これが何になるという試しと信仰の使命の中で、泣きながらまいたのです。

 だからこそ、それが実ったその収穫は、心からの喜びとなりました。ここでは喜び叫ぶと書かれています。決して大げさではないです。収穫は種をまいた者たちへの報いの時です。まかれた種が成長し確かな実を結ぶと、過ぎた労苦を忘れるほどの喜びでいっぱいになります。

 ヨハネの福音書4章で、イエスさまはこう言われました。「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです」(38節)

 本当にその通りです。日本においても涙とともにまく時がありました。1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が宣べ伝えられ、福音の種まきがなされるようになりました。急速に宣教は進み、おびただしい数の人々が福音を信じるようになり、時代を動かし、時の権力者を動かし、ついには日本二十六聖人を初めとする多くの殉教者を出しました。殉教者たちは、世の命を捨て、主がその血に報いて大勢のたましいの救いをもたらしてくださることを信じ、一粒の麦として、死んでいきました。

 その報いの時が、いよいよやって来ようとしているのです。空前絶後の刈り入れの時代に私たちはいるのです。イエスさまもまた「『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです」とおっしゃいました(37節)。彼らは、まきました。私たちは、刈り取るのです。先人たちの労苦の実を刈り取る、栄光ある務めが任されています。

 イエスさまは、こう言われました。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」(3536節)

 時は来たのです。畑は色づいて、刈り入れるばかりになっています。信仰を働かせ、多くのたましいをキリストのもとに導くよう働きましょう。まく者、刈る者双方の喜びの日が来ました。主の再臨に備える後の雨リバイバルは既に始まっています。

MIKOE NEWSから転載」 2024年1月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/