2023年8月30日水曜日

 つぶやき

 私たちは、マーリン・キャロザースさんから「すべてのことを感謝すること」を学びました。良いと思えることだけを感謝するのではなく、感謝できないことにこそ感謝を用いるのだと教えられました。では、「感謝」の反対語とは何でしょう。それは「つぶやき」です。人というものはつぶやきやすいもので、試練のたびに幾度神を怒らせたことでしょう。

 イスラエルの民が出エジプトし、紅海が割れるというあれほどの奇跡にあずかったにもかかわらず、何もないシンの荒野に入ると、民はモーセとアロンにつぶやき、「エジプトは良かった。満ちたりるまでパンを食べていた。なのにここで全集団を飢え死にさせる気か」と詰め寄りました(出エジプト記16章参照)。そこで神は天からのパン、マナを彼らに与えられました。しかし、ここから悟ることもせず、マナに飽きた民は、今度は「ああ、肉が食べたい。エジプトでただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にらも。だが今や、何もなくて、このマナを見るだけだ」と泣いてつぶやいたのです。

 主の怒りは激しく燃え上がり、主は、「肉を与える。それも一日や十日でなく一カ月もであって、ついには吐き気を催すほどになる」と語られ、徒歩の男子だけで60万人にもなる民のところに、うずらが山をなすほど飛んできました。それで、神のことば通り民は肉を食べました。ところが、肉が彼らの歯の間にあってかみ終わらないうちに、主の怒りが燃え上がり、主は激しい疫病で民を打ったのです(民数記11章参照)。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と自ら語られた通りです。

 神をあなどってはなりません。神は私たちのことばを聞いておられるのです。神への恐れを失うことは、決してあってはなりません。主はすべてのことを正しくさばかれるからです。

 モーセ率いる全イスラエルがツィンの荒野に入ると、ここでも民は飲み水さえないとつぶやき逆らいました。神は、「岩に命じなさい。すると岩は水を出す」と言われました。しかし、度重なる民のかたくなさに憤っていたモーセとアロンは、「逆らう者たちよ。(中略)私たちが水を出さなければならないのか」と言い、命じるのではなく杖で岩を二度打ちました。たくさんの水がわき出ました。しかし神の栄光の前に立ちはだかり、自分たちがそれを起こすかのように言い、杖で岩を打ったことで、神はモーセを退けたのです。かたくなさの恐ろしいところです。つぶやく会衆は指導者にとって、まるでわなのようです。当人だけではなく指導者をまきこんでさばきはなされ、事実モーセは、約束の地を目の前にしながら入ることなく亡くなったのです。

 つぶやきを捨てましょう。つぶやく心の気持ちは分かります。神さまも分かってくださっているでしょう。しかし、そこはむしろ感謝して神さまに委ねる時なのです。どんな問題でも神は脱出の道を用意してくださっています。それゆえ、信仰と忍耐を働かせ、つぶやきを感謝に変えるのです。

 つぶやきは犯しやすい罪です。もし、つぶやきに勝てる人がいたとすれば、その人は感謝の人だと私は思います。マーリンさんは、感謝を身に付けるのは語学を学ぶほど難しいと言っておられました。確かに感謝の学びはなかなか身に付きにくいものです。しかし、感謝のあるところ、喜びがあり、慰めがあり、奇跡さえあります。主はあなたの戦いを戦ってくださいます。主を信頼しましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年8月23日水曜日

ことば~運用編

  ヨハネの福音書11節。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった

 私たちは普段何気なくことばを使っています。しかし、ことばは被造物の中で人間だけに与えられている特権です。また一口にことばと言っても、ことばには霊的な段階があり、その頂点は神です。ことばは天地創造の初めからあるもので、ことばによって万物は成り、ことばは神です。バベルで散らされて以降、人の語ることばは不完全なものになってしまいました。けれども、それでもことばは生きており、神の手が動きます。

 ことばと心は密接な関係にあります。よく、人は心に思ったことを口にするものだといいます。それは本当で、ヤコブの手紙311節にはこう書かれています。「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか」というもので、良い心からは良い言葉が出ますし、悪い心は悪い言葉を口にするのです。

 ことばは、人を殺し、また生かしもします。ことばは、人を失意のどん底に落とすこともできれば、希望を与え、立ち上がらせることもできるのです。ある時神さまが、悩んでいる女性に慰めのことばを掛けるよう導かれました。特別なことを語ったわけではありません。しかし、語った瞬間、女性の顔がパッと明るくなりました。これを見て、神が与えてくださることばには力があること、それが、いのちのことばであることを私は知りました。

 イザヤ書に「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え」(504節)という一文があります。慰め、励まし、いやし、これらはいのちことばです。これらのことばをもって、互いに人に仕え合うことを神はみこころとしておられます。

 人は、神からいのちのことばを委ねられているのです。私たちは罪人(つみびと)であり、死のことばにつながれていました。しかし、神は、いのちのことばであるキリスト・イエスを私たちに下さり、救いを与えてくださったのです。私たちが、新しく生まれ、いのちのことばを語るようにしてくださいました。

 あなたのことばをもって、神をほめたたえましょう。その口に置かれたいのちのことばを語ってまいりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年8月15日火曜日

ことば~成り立ち編

  残念なことですが、犬や猫には言葉がありません。犬や猫だけでなく、さえずる鳥も、教えた言葉を語るという九官鳥であってもそこには会話はなく、あらゆる動物や生き物は私たちが持っているような言葉を持ちません。しかし、それぞれコミュニケーションの手段は持っているので、人との間においても、同じ生きものの間でも、心は互いに通い合います。わんわんにゃんにゃんで十分分かり合えるのです。

 むしろ、ここで分かるのは、人間が特別な存在であるということです。被造物で、言葉を持っているのは人間だけです。というのも、動物と人間は成り立ちが違うのです。創世記によれば、生き物はみな神のことばによってそれぞれその種類に従って造られました。それをよしとされた神は次いでこう言います。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」(創世記126節)。こうして「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(27節)のです。神のかたちとはどんなかたちでしょう。とても興味があります。そして、おそらく、人は神のかたちとして創造されたゆえに、言葉を持つものとなったのではないかと私は考えています。

 言葉がいかに力あるものか、それを逆説的に表しているのが創世記11章にあるバベルの塔事件です。その時まで全地は一つの民で、一つの話し言葉でした。彼らはれんがを造り繁栄していました。そのうちに町を建て、「さあ、われわれは頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」と塔を築き出したのです。主はそれを見に来られ、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」と語り、人々を散らされました(19節)。こういう訳で、今の私たちが使う言葉や民族はさまざまに分かれており、もともとの言葉から比べると、言葉も不完全なものになりました。

 一方、コリント人への手紙第二1224節で、パウロは、恐らくご自分のことでしょう、ある時パラダイスにまで引き上げられました。そしてそこで、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたといいます。天上においてはそのようなことばもまたあるのです。

 また、後に私たちをさばくのもことばによります。イエスさまはマタイの福音書12章でこう語りました。「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです

 いかに言葉というものが重要なものであるか、これらの箇所から分かるでしょう。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。私たちは罪人(つみびと)ですから、言葉で失敗することは多々あります。しかし、その一方で言葉を通して神の祝福を流すことができるのです。まさに、生かすも殺すも言葉次第です。言葉は、諸刃の剣です。

 イエス・キリストは、完全な神であられかつ完全な人です。そして「いのちのことば」と呼ばれています。イエスさまにあって、信じる者の内には聖霊さまが内住され、このお方がいのちに至ることばをくださるのです。私たちもまた主イエスを信じ、救いに至るこのいのちのことばを受け、また語りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年8月9日水曜日

羊の門

  ヨハネの福音書10章で、イエスさまはご自分のことを羊の門だと語られました。「わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(10711節)

 そのことばの通り、今から2000年前、イエスさまは私たちの罪を負って、十字架でいのちを捨てられました。そして三日目によみがえり、私たち人間の贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。罪の奴隷であり、やがては滅びるしかない私たちを神はあわれまれ、その愛ゆえに神はひとり子イエスを、救い主として私たちに下さいました。

 私は、他の宗教を経て、18歳の時にこのキリストの福音を信じ救われました。キリスト教はただイエス・キリストを救い主として信じる、それだけで、救われるのです。それに比べてキリスト教の前に来た宗教は、イエスさまのおっしゃる通り、まさに盗人であり強盗でした。何かにつけてお金が絡みました。母とともに入信したのですが1人につき何万円もの供養料を払い、偶像の前に毎日水を上げ、題目を唱え勤行を積むように言われました。まるで宗教の奴隷でした。供養料も供養すべき人も増やされる一方でどんどんお金がかかりました。しかも、そこまでしても救いが約束されるわけでもないのです。今から思うとこれは信心につけこんだビジネスです。好き放題食い物にされたように思います。その時私は16歳でしたが、これからはどんな宗教にも決して心を開くまいと固く誓いました。今考えてみると私は主の羊であったので、もとから彼らの言う宗教とは相いれなかったのだと思います。

 聖書のことば通り、次に来てくださったのが、イエスさまでした。「羊のためにいのちを捨てます」と語られたお方です。イエスを信じるということは、イエスという門をくぐるということです。主イエスの門をくぐると私たちは牧草を見つけます。憩いの中で豊かに養われ、慰めを受け、いやしを受けます。そしてそればかりか、神は、イエスを通して永遠のいのちまでも与えてくださるのです。

 イエスさまは救いに入る唯一の門です。この門を通して私たちは天の祝福にあずかります。私たちは、世の子から神の子となるのです。また、羊は羊飼いの声を知っています。興味深いことに羊は何でも真っすぐに進む習性があります。メーメー言いながら集団で動きますが、羊飼いのつえをちゃんと捉えていて、つえのある所どこまでもついて行くのです。私たちはその羊です。

 世には、世の宗教が百花繚(りょう)乱、至る所に咲き乱れているので、心をそれに向ける人は少なくありません。人を喜ばせることを第一とし、楽しいばかりの宗教もあります。中には、宗教としてのキリスト教は、おとなしくて力がない、そんな見方をする人もいました。しかしそれは神もその御力も知らないのです。

 聖書にはこう書かれています。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイの福音書71314節)

 狭き門とは、門の幅が狭いという意味ではありません。入るために熾烈(しれつ)な競争があるわけでもありません。あまりも身近な所にあり、人の目を引くようなこともないありふれた門なので、多くの人が素通りするのです。しかし、ここにこそ救いがあるのです。私たちはこの狭き門から入りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年8月2日水曜日

 薔薇(ばら)の花は美しいが棘(とげ)がある。いかにも残念そうに人はそう言います。とげというものは本当に小さなものでありながら、刺すような強い痛みを引き起こします。これさえなかったらどんなに良いだろう、とあの大使徒パウロでさえも、それを嘆きました。

 コリント人への手紙第二127節でパウロはこう語りました。「その啓示があまりにも素晴らしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです

 パウロといえばペテロと並んで、キリスト・イエスの弟子の双璧であり、多くの神のわざを取り次ぎました。これを否定する人はいないでしょう。彼は、神に仕え、第三の天にまで引き上げられ、天の御国について人々が知り得ないような奥義まで知らされていた器であったのです。そのパウロに、神が置かれたのが肉体のとげでした。よほどつらかったのでしょう。パウロは、これを私から去らせてくださいと三度も主に願いました。しかし、神さまは首を縦に振らなかったのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」。こうおっしゃいました。

 私たちは弱いのです。いとも簡単にサタンの言葉に乗せられて、高ぶってしまうのです。用いられるうちに次第に神さまが見えなくなってしまい、神さまのご栄光の前に立ちはだかり、挙句の果てには自分を偉大な者だとうぬぼれて肉を誇り始めます。こうならないように、神はパウロに肉体のとげを許されたのだというのです。

 確かに痛いけれど、とげは私に弱さを教えてくれます。自分が肉に過ぎぬ者だということを思い起こさせてくれます。ですから常に神のみ顔を仰ぎ、神のことばを聞くことができます。これこそが、神が与えてくださった祝福なのです。神の下さるものは人の物差しでは測れません。人の弱さは世では歓迎されないものですが、神にあってそれはどれ程の恵みであることでしょう。

 というのも、神の力は弱さのうちに完全に現れるからです。ゼカリヤ書46節に次のように書かれています。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」というもので、権力というのは集団の力を、能力というのは個人の力を言います。そのどちらでもなく、神によるのだということをここで語られています。何かを作るのには力が要ります。しかし、神はそれを力ではなくご自身の霊によってなされるということを明らかにしておられます。それでは、どのようにしてなされるのでしょう。

 それが、弱さなのです。弱さは、神の御力の通り道です。神が業をなされるには、私たちの弱さが必要なのです。ついにそれを悟ったパウロは「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(9節)と告白する者となりました。そして、10節では「私が弱い時にこそ、私は強いからです」とさえ語っています。

 エリート街道まっしぐらで来たパウロは、そのすべてを捨てました。キリストのうちにあるものの素晴らしさを知ったからです。神さまは、あなたの能力を必要とされているのではありません。能力のある人なんてごまんといるでしょうし、そもそもその能力も、もとはといえば神が下さったものではありませんか。

 そこにあるのは愛です。受ける一方の神の愛です。ただ、あなたを愛しているから、神はあなたを通してご自身を現してくださるのです。必要とされているのは、皆さん自身なのです。皆さんの力や能力ではありません。弱さを覚えますか? とげに苦しんでいますか? それでいいのです。神はありのままのあなたを愛しておられます。やがては、弱さがあなたを祝福していることを悟る時が来るでしょう。すべてのことを感謝しましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年8月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/