2020年10月24日土曜日

 マリヤ

 ルカの福音書1章は、バプテスマのヨハネの誕生や、キリスト・イエスの受胎告知に関して書かれています。受胎告知を受けたマリヤはどのような人物であったのでしょう

 カトリックでは、マリヤをキリストの母として礼拝の対象としていますが、聖書に出てくるマリヤはナザレに住むいわゆる田舎娘であって、カトリックが主張するような「無原罪」(一度も罪を犯したことのない)の存在ではありません。このことと、この違いをはっきりととらえておいてください。

 聖書に書かれているマリヤはうら若き処女であって、ダビデの家系に属するヨセフの許嫁でした。後のバプテスマのヨハネを身ごもった不妊の女エリサベツが妊娠6カ月になった時、神からことばを託されたみ使いガブリエルがマリヤの所に来たのです。そして言います。

  「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます」しかし、マリヤはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何のあいさつかと考え込みました。み使いは「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を生みます。名をイエスとつけなさい」と言いました。

 受胎告知の瞬間です。しかし、マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言いました。

 するとみ使いはマリヤに告げます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(中略)神にとって不可能なことは1つもありません」。

 これを聞いてマリヤはどう答えたでしょう。「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」そう言いました。

   私たちは、この告白のうちにマリヤの神への全き信頼と真の謙遜を読み取ることができます。ガブリエルが語った言葉は世にあっては正気の沙汰とは思えないような言葉です。でも、マリヤはこの言葉を額面通りに受け取ったのです。そして、そればかりではなく、マリヤのへりくだった心は「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」という告白につながりました。

  マリヤの素晴らしいところは、神に対する全き信頼にあります。理解できることはともかくとして、理解できないことであっても、この神さまがお定めになったのだから、という深い信頼があるのです。私たちもまたマリヤの信仰にならいましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年10月18日日曜日

 愛のかたち

 シェークスピアは、『ハムレット』の中で「弱きもの,汝の名は女なり」という一文を書きました。

 うら若き頃、弱くて消え入りそうな手弱女(たおやめ)もその後405060歳と年を重ねるうちに、とても手弱女と呼べるような者ではなくなってきます。太ってしまったり、恥らいを失ったり、うわさ話が大好きだったり、かつての手弱女は年月とともに、続々と「手強いおばさん」に仕上がっていきます。

   日本では、結婚したら、かかあ天下になるのが「家」の安泰だと思われている節があります。そんな文化だからか、おばさん達の中には、自分の連れ合いのことをうちの「宿六」(やどろく)と呼んでみたり「ごくつぶし」と言ってみたりします。ちなみに「宿六」の六というのは、「ろくでなし」の「6」で、家を宿代わりに寝に帰ってくるだけのろくでなし、というのが、その意味するところです。「ごくつぶし」は、飯を食うのだけは一人前だが、ほかにはこれといった能力が無い、といった意味です。これらは日本語特有の親しみをこめた言い方といえなくはありませんが、「家」の縛りが強すぎて個々人としての夫婦の姿や成長を見ることができません。

 聖書を土台とした結婚観では、結婚は、頭であるキリストとみからだなる教会を指す奥義で、「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」というものです。神が引き合わせた一人の男と一人の女は、「もはやふたりではなくひとりなのです」と宣言され、夫婦になるのです。 

 エペソ人への手紙5章は結婚に関して書かれている箇所として有名です。結婚生活においては、夫と妻それぞれに求められている働きは異なります。結婚が目指すところは、夫と妻2人が同じになっていくことではなく、神を真ん中にして異なる2人が互いに結ばれ、一つ心同じ体となって助け合うようになることです。ですから聖書は妻に対しては、「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)と「従う」ことを語り、夫に対しては「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)と「愛する」ことが求められているのです。 

 神は愛であり、愛は神です。従う愛があり、愛する愛があります。いずれも聖書で語られている神の大きな愛の中の一側面です。一口に愛といっても神の愛と人の愛は違いますし、求められるところもまた両性において異なります。男の助けとして創造られてきた女はそれ故に男以上に優秀なところがあります。妻は夫に一番近いので、夫の弱さ、夫の足りなさが、よく見えるところにいます。しかし、その時、夫をさげすむ者は、そこにある祝福を受けることができません。しかし、幻を共有して助け従ってゆくなら大いに祝福されます。それは、女性の側の選びに任されるところが大きいのではないかと思います。

 こういう訳であなたの宿六を敬い、宿六を感謝しましょう。彼はあなたを愛する愛を既に神さまからもらっています。ありがとうと言ってみませんか。彼はあなたを「私の骨からの骨」と呼び、無限に愛を注いでくれるに違いありません。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年10月10日土曜日

 罪の赦し

 マタイの福音書18章は、赦しのことを取り上げていることでよく知られています。

  いつものことですが、主イエスの弟子のペテロは、イエスさまに良い所を見せたいと思ったのでしょう。こういう質問をイエスにしました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」7度というのはペテロにとってかなり譲歩したつもりの回数です。

 イエスさまは、それに対して「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」とおっしゃいました。勿論これは490回赦しなさい、という意味ではなく、徹底して、幾度であっても、赦しなさいと語っておられるのです。

 赦しはキリスト教の根幹をなす教えです。この赦しの教えがどこから始まったかというとやはり、イエスさまの十字架上でのおことばからでしょう。十字架にかけられ罪人の一人として数えられたイエスさまは、み苦しみの中にあっても、私たちをとりなしておられました。34節では「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、十字架の上から祈られています。責めることもなく、裁くこともなく、私たちを赦し、愛を示されました。

 人を赦すということはとても難しいことだと思います。個人的な思いですが、赦しを思うと、いつもドミノ倒しが脳裏に浮かんできます。「連鎖」ということを考えるのです。ドミノでは誰かが第一番目のドミノを倒すなら、あとはもう誰も止められないほどの早さで事は一気に展開します。

 赦しというものもまた、ドミノ倒しのようだと私は思います。全体を動かす最初の1手がありさえすれば、あとは一気に進んで行きます。そして最初の1手となったのが、イエスさまの赦しです。十字架の愛です。イエスさまの十字架の死は、私たちを赦すために支払われた尊い贖いの代価です。

 赦された人は、赦す人になることができます。イエスさまが私たちを赦してくださったからこそ、私たちもまたキリストの愛によって、赦す力を頂くことができるのです。

   マタイによる福音書6章にはこう書かれています。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(1415節)

 人は、人を救う力を持ち合わせていません。でも、イエスさまは神の御子ですから、それを持っておられます。そして、イエスさまが十字架にかかって死なれたのは、ただ一度、ご自身の身を代価として、私たちの罪を永遠に贖うためであったのです。イエスさまは、死なれて後3日目に復活されました。贖いはここに完成しました。

 こういう訳で、イエスさまがあなたのすべての罪を赦されたのですから、私たちもまた、互いに罪を赦し合いましょう。それでは、まずあなたから始めましょう。主が赦されたのですから、私たちもまた、私たちに負い目のある人を赦しましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2020年10月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/