2012年5月27日日曜日

豊かに赦してくださる

 ある宣教師が証しされていた事なのですが、彼女は若いころ、他人に迷惑を掛けさえしなければ、何をやっても構わないという信条で生きていたそうです。
好き勝手に生きるというのは若者の特権なのでしょうか。
 彼女とよく似た道をたどった者に、ルカの福音書15章に出てくる、放蕩息子と語られる一人の人物がいます。彼は父に、兄との間に財産を分けてく れと願
い、それを持って遠い国へ旅立ち、放蕩三昧に明け暮れました。
 財産はあっという間に無くなり、そこに飢饉が起こりました。食うにも事欠くようになった彼はある人の元に身を寄せ、人の嫌がる豚の世話をし、し かも豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほど飢えていましたが、誰一人として与えてはくれませんでした。
 彼の人生は破綻しました。悩みに練られた放蕩息子はへりくだり、父の元に帰ろう、そして、父の家の雇い人の一人としてもらおうと心に決めて帰る ことにしました。
 ところが、まだ家まで遠かったにもかかわらず、父は彼に走り寄って彼を迎え、子とし、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかっ たのだから」と言って、祝宴まで開いてくださったのです。
 父とは、神さまのことを言っています。神さまは、私たちを愛してくださっています。今か今かと、私たちが、ご自身に立ち返ってくるのを日々待っ ておられます。たとえどんなに罪に汚れていようが、神に帰るなら、神はありのままの私たちを愛してくださり、あらゆる問題から、救い出してくださ います。神にあって赦されない罪はありません。ですから、どうか神に帰る勇気を持ちましょう。神は豊かに赦してくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年6月3日号(第678号)より転載—



2012年5月22日火曜日

 先週、母の日に子どもたちから予期せぬプレゼントをもらいました。うれしかったです。というのも、前々日にちょっとした言い合いがあって、子育 てに足りない自分を責めていた矢先のことだったので、目に見える形であらためて愛を示してくれた娘たちに感謝し、また、愛を学びました。
 愛とは奥深いもので、私のペンではとてもそれを語ることができません。それで、聖書のヨハネの手紙第一4章をお読みになることをお勧めします。
 そこには、このように書かれています。「愛のない者に、神はわかりません。
なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方に よって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(8―10節)
 キリストを知る以前、私は愛も神も語るに苦手でした。愛といっても、それが分からなかったのです。しかし、分からない私を神さまは忍耐をもって 接し、愛で囲み、福音によって救ってくださいました。
 前述の「ひとり子」とはイエスさまのことです。神さまは御子イエスさまが、十字架で死なれることを良しとされました。それは、私たちがもはや罪 にとらわれることなく、神の前に永遠に生きるためでした。
 神さまは、全ての人を愛しておられます。イエスさまの十字架の死は自分のためであったと受け入れ、信じる時、この神さまの愛が分かり始めます。
 あなたもイエスさまを信じ、この素晴らしい愛の中に身を置いてください。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月27日号(第677号)より転載—



2012年5月14日月曜日

暮らし向きの自慢

 娘が幼かったころ、よく同級生のお母さん方と茶話会をしました。わが子の自慢や、夫のキャリア、購入したマンションに、名家の血統、これらの自 慢に話の花を咲かせます。住む世界が違いました。
 ヨハネの手紙第一2章には、このように書いてあります。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。(中略)すべての世にあるもの、すな わち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、 神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」(15—17節)
 ある知人ですが、彼女の願いは、マイホームを持つことでした。この目的に向けて、彼女はまっしぐらに生きてきました。そして、ついに念願のマイ ホームを手に入れたのです。ところが、奇妙な事が起こってきました。燃え尽き症候群というのでしょうか、やっと手にしたマイホームですが、喜びも 束の間で、彼女は鬱状態になりました。次なる目標が無くなってしまったからです。本当に彼女が必要とし、また求めたのは、何だったのでしょうか。
 悩みの中で彼女は、解決を教会に、イエス・キリストに求めました。それは正解でした。イエスさまこそが彼女の心の求めるところであったからで す。
 彼女は、今、牧師をしています。誰よりも生きる喜びを輝かせながら、本当の幸いを内側に頂いています。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神の みこころを行う者はいつまでも永らえます。こういうわけですから、私たちもまた神さまの元に帰りましょう。
 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37篇4節)
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月20日号(第676号)より転載—




2012年5月7日月曜日

赦されます

 私の祖母は、神さまが嫌われるようなことを何十年にわたって行っていました。霊媒、口寄せに聞き、四国八十八カ所巡礼を何度も繰り返し、自分の 死に装束に八十八の朱印を押したものを用意して、弘法大師に帰依していました。
 渦中にある本人には分からないことでしょうが、これは神の前に大きな罪です。神は、わたしのほかに、ほかの神々があってはならないとも、自分の ために偶像を造ってはならない、それを拝んではならないとも、十戒の中で語っておられるからです。
 幾重もの偶像礼拝の中で生きてきた祖母に、果たして福音は届くだろうかと私は悩みましたが、何回目かの福音を聞いた日、神はわざをなされまし た。祖母は「自分は今までいろいろな事(偶像礼拝等)をやってきたから…」という、認罪の言葉を、初めて、口にしたのです。自分のしてきた偶像礼 拝ですが、祖母はそれが罪であることを知り、それ故、自分は救いにあずかれないような罪人である、ということが分かったのです。祖母は衣装を着替 えて、その日、バプテスマを受けました。
 ヨハネの手紙第一1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを きよめてくださいます」と書かれています。
 神のことばは真実です。どんなに大きい罪であろうとまたささいな罪であろうとも、それは人の感じ方であって、神の前には罪は大小みな等しく罪で あることに変わりはないのです。聖書では、十字架の贖いによって、全ての罪は赦されると書いてあります。どんな罪人でも、罪を告白して捨てるな ら、あわれみを受けるのです。十字架の救いを信じてください。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年5月13日号(第675号)より転載—