2023年1月26日木曜日

 ご臨在のある所

 19867月、不思議なことが起こりました。玄関にある黒電話が不調を来し、二、三度鳴ると切れ、ぐずぐず鳴っては切れを繰り返しているのです。取り上げてもつながりません。その時、なぜだか分かりませんが、これは私の実家からかかってきたものだと直感しました。今、実家で何かが起こっている。そのために祈らなければならない、そういう思いが与えられ、あえて連絡を入れず、翌朝まで祈りに専念しました。

 早朝、実家から電話が入り、そこで父がゴルフ場で吐血し、食道静脈瘤破裂の危機に瀕していることを知りました。急いで飛行機で帰るべきでしょうが、祈り備えていきたいので新幹線を選び、10時間かけて鳴門の実家に着きました。

 出血が止まらないと、命に関わります。さぞかし重苦しい空気が流れているだろうと覚悟しました。ところが、病室の戸を開けると、何と圧倒されるほどの神のご臨在があったのです。どうしたの、と問う私に母は「神さまに、もう一度だけチャンスを下さい、と祈ったの。すると、なにか大勢というものが病室にやってきて」空気が一変したと母は言います。

 なるほど、父の病室にはおびただしい数の天の御使いが満ちており、御翼が触れ合うざわめきまで聞くことができました。主が来てくださったのです。そこにはきよさと力と勝利がありました。私たちは圧倒され、そこから奇跡が起こりました。私たちは、母と妹そして私の3名ですが、病人はその中の妹の手を握って離さないのです。聞くと、妹が手を置いた所は痛くなくなるというのです。何時間も手を離さないので、椅子を持ってきて妹を座らせ、ずっと手を置き続けました。そして、ついに止血に成功し、危篤状態から脱しました。

 ご臨在と神のわざには深い関わりがあります。それで、私たちの教会の最初の礼拝の時、牧師はご臨在があるかどうかをとても気にかけておられました。それが働きの成功と勝利を決めるポイントになるからです。そして迎えた当日、礼拝には豊かなご臨在が現されました。そこから教会は短期間で100名を超える礼拝出席者を数えるようになり、その働きは大きく広がり今に至ります。

 私が救われたのもご臨在によります。教会に行った時、教会の屋根裏部屋で牧師が私を祈ってくださいました。目には見えませんがこの場に満ちておられる主よ、そう牧師が祈り始めると、私も心をそのお方に向けました。すると不思議なことに少しずつ身体が押されるのです。ついに畳の上に身を投げ出してしまいました。起き上がろうとしたその瞬間、昔歌った讃美歌の1節が思い起こされ、なつかしさと慕わしさで、産声を上げてみ神のもとに帰りました。こうして、私は救われました。ご臨在の中で生ける神に触れたのです。

 ご臨在とは、そこに神ご自身がおられるということです。人が救われるのも、いやしがなされるのも、すべてのわざは神によります。神は全能で、いつの時代にもご自分の心をわが心として歩む人物を探しておられます。ご臨在のある所には神のわざが起こります。私たちは勝利を受け、また奇跡を見るのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年1月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年1月21日土曜日

天国への行き方

 私の母方の祖父は、心配性であり慎重で、とても細やかな神経の持ち主でした。信心もあつく、施しに励み、毎月の寺社参りを欠かすことがありませんでした。祖父ならきっと、死んでも天国に行くことができるのではないか、と私は思いましたし、本人もそう思っていたと思います。

 ところが、最晩年、病院に入院していた祖父を見舞った時、祖父は弱っていて、何かにおびえた様子を見せました。長年、祖父は信心しましたが、救われたかといえばそうでもなく、ここにきてこれから行こうとする天国への確信が持てない様子でした。いざ死を前にして、誰かが天国への行き方を教える必要がありましたが、そのような人がいなかったのです。

 しかし、そのころ既に私はクリスチャンでしたので、すがるような祖父のまなざしに、救われるべきたましいがここにあるのを認めることができました。私は幼い孫でしたが、祖父は真剣でした。両手を合わせ寺社で祈る形をして見せ、次いでキリスト教式に手を組んで祈る形を作り、これからはこれで行くと示してくれました。そして、これでいいんだね、と目配せして私に同意を求めてきました。祖父は救われました。イエス・キリストを信じ、ようやく天国に行く備えができたのです。

 祖父を救ったのは、長年信頼を置いていたお金ではありませんでした。むしろお金で買えないものです。拝んでいた偶像でもなく、信仰心でもなく、善い行いでもありません。今までより頼んでいたものは、死を前にした時、全く無力だったのです。また、宗教数多しといっても、救いを語り救いを約束する宗教はキリスト教を除いて他にはありません。仏教には天国に当たるものとして「涅槃(ねはん)」があるようですが、無条件で入れるものではないようです。ましてや、永遠のいのちが与えられるなど、逆立ちしてもできっこありません。

 天国に入るにはただ一つ、イエスさまを信じていることが必要です。というのも、私たちは生まれながらの罪人(つみびと)であり、罪の行きつく先である「死」に支配されているからです。言うまでもなく、罪や死を持ったまま永遠の天国に入ることはできません。神が下さる永遠のいのちに関して、私たちは長年望みのない者であったのです。ですから神は、定められた時に御子イエスを世に遣わし、イエスさまは私たちのすべての罪を負って十字架で死なれました。そして、3日目によみがえられ、ご自分の肉によってただ一度、完全な贖(あがな)いを成し遂げられました。こうして、御子を信じる者は誰でも天の御国に行くことができるようになり、神は、イエス・キリストを通して、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。

 それ故、あなたも、御子イエスを信じましょう。イエス・キリストの存在を信じるのではありません。イエスが、あなたのために成し遂げてくださった十字架の救いを信じるのです。他の重荷は一切ありません。神の前に自分の義を立てることができる人は一人もいません。天の御国に入るのは神の義によるのです。恵みによって与えられたこの十字架の福音を信じるなら、この時にも私たちは、死からいのちに移っているのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年1月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年1月11日水曜日

ソロモンの凋落

 ソロモンは、イスラエルの王ダビデとバテ・シェバの間に生まれた男児です。ダビデには多くの息子がいました。しかし、ダビデの王座を受け継いだのはソロモンでした。ソロモン王朝は祝福され、イスラエルは古今東西、類を見ないほどの繫栄を遂げた国家となりました。

 青年ソロモンは、心の低い好青年でした。王としての任命を受けると、当時会見の天幕があったギブオンに行き、そこの祭壇の上に1000頭の全焼のいけにえをささげました。するとその夜、主は夢のうちにソロモンに現れ、こう言われました。「あなたに何を与えようか。願え

 それに対してソロモンは言います。「主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。(中略)善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください」(列王記第一3章参照)

 この願い事は主のみこころにかないました。それで主は、「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。(中略)そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう

 その通り、ソロモン王朝は人類史上、最も繁栄した国となりました。ただ、若いうちは腰が低くかったソロモン王ですが、繁栄の中で何かが変わってしまったようです。

 旧約聖書に、「伝道者の書」という巻があります。本文中にソロモンの作だと書かれているのでそうだと思います。ところが、この書のテーマは一貫して「空の空」、つまり空しさにあるのです。内容は、喜びや楽しみとは程遠いもので、とてもあの謙遜で信仰に満ちていたソロモンが書き上げたものだとは思えません。ソロモンは、誰よりも富みましたがそれを楽しむことはできず、また快楽を求めて多くのそばめを持ちましたが、かえって女の苦々しさを知ることになりました。富に関しては、持ち主に害を加えるとさえ書かれています。

 ソロモンには、一切の物が与えられていました。望みさえすれば、さらに加えて与えられたでしょう。また、多くのそばめを持つことによって、彼女らを通して異教の神々に近づいたのも、彼にとっては落とし穴の一つでした。その心は次第に神・主から離れてしまったのです。

 こうして、ソロモン王朝は凋落(ちょうらく)の一途をたどります。エルサレムで神殿奉献を成し遂げ、素晴らしい働きをしたソロモンでしたが、在位40年で幕を閉じます。苦みの中で彼が見いだしたことは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道者の書1213節)という一文に尽きます。神を恐れ、神に聞き従うことの重要性を、反面教師として示しました。

 このソロモンのことばを、今の私たちに当てはめるなら、それは「主イエス・キリストを信じ、あなたの救い主として受け入れなさい」ということになるでしょう。いつまでも続くものは、往々にして目には見えないものです。人にとって最も大切なこと、それは、イエス・キリストを信じることであるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年1月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年1月1日日曜日

たとえ一人であっても 

 皆さんがご自分の人生の中で、成し遂げたい大きな働きに直面する時、私はそれを行いたいけれど、たった1人ではいったい何になろう、そう思って手を出せずにいることはありませんか。

 そんなあなたに私は問いたい。1人とは、そんなに弱いものなのでしょうか。神があなたになさせようと与えてくださった働きに対して、同時に、それを全うする力と助けを与えてくださらないと、誰が知るでしょう。聖書には、たった1人でも主の御力を頂いて、神の陣営を鼓舞するような戦いを成し遂げた信仰の先人が多くいます。

 1例は、ダビデです。少年ダビデは羊飼いでした。その頃、イスラエルはペリシテ人との戦いの中にありました。ペリシテ人陣営にはゴリヤテという代表戦士の巨人がいて、朝夕姿を現してイスラエルの陣営に向かってなぶるのです。「さしで勝負させろ。おれを撃ち殺すなら、お前たちの奴隷となる。おれが勝つなら、おまえらがおれたちの奴隷となるのだ」。これを聞いてサウル王とイスラエルは意気消沈し、非常に恐れました。

 けれども、それを聞いて少年ダビデは激昂します。「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」。こう言ってダビデは戦うために、川から五つのなめらかな石を取り、羊飼いが持つ投石袋に入れ、石投げを手にしてゴリヤテに近づきました。ダビデは言います。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(中略)この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(サムエル記第一17章抜粋)

 こうして、ダビデは石を一つ取り、ペリシテ人ゴリヤテの額を打つと、石は額に食い込み、ゴリヤテはうつぶせに倒れ、ダビデはその首を取りました。一部始終を見ていたペリシテ人は逃げ出し、イスラエルは彼らを追い、勝利を得ました。確かに、この戦いは主の戦いであったのです。ダビデには何の武器もなく、共に戦ってくれる人もいませんでした。1人であったのです。しかしダビデは、神の陣営にはすべてがあること、この戦いに働かれるのは主であることを固く信じ、また知っていました。それでゴリヤテに立ち向かったのです。

 ダビデに起こった勝利は、私たちにも起こる奇跡です。私たちはもはや、自分1人では何ができるだろう、と嘆く必要はありません。たった1人でも神が共におられるなら、神はその人に勝利の実を結ばせてくださいます。問題は巨人のように大きく見えます。しかし、キリストを迎えた今、それもまた神によって解決しているのです。

 信仰を用い進んでください。1人の手は確かに小さいが、その手に置かれた神の御手は、はなはだ大きなものであるのです。いかに大きな事が起こるかを、この先、私たちは見ることでしょう。

 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(歴代誌第二169節)

 主に信頼しましょう。たった1人であったとしても、主が共に働いてくださるなら、どんなことでもできるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年1月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/