2021年12月27日月曜日

サタンに立ち向かえ

 私たちがキリストによって救いを受けること、恵みを受けることをサタンは嫌います。何とかしてこれを阻止しようとして働きます。

 独身の時に私は、家族が救われるという神の勝利を頂きました。そこに至るまで、サタンがいかに働き妨害してきたかをお分ちしたく思います。その頃教会では、韓国の断食祈祷院に祈りに行くということが開かれていて、私も妹とともに行こうとしていました。ところが、思いがけないことが起こりました。突然父がゴルフ場で吐血し、病院に搬送されたのです。食道静脈瘤破裂という事態で数日間生死の境をさまよいました。

 ようやく危機を脱した時、韓国行きに関して、父が病んでいるのに観光に行くのか、もしもの時になったらどうするつもりか、と父にも親戚にも非難されました。しかし、私たちは押しました。なおさら韓国で祈ることが必要だと思われたからです。すると行く直前、今度は私が交通事故にあいました。取ったばかりの免許で原付バイクを走らせていたところ、公道に入ろうとする車を見て急ブレーキをかけてしまい、後輪が浮いて数メートル飛ばされてしまいました。幸い骨折などはなかったのですが、広範囲の打撲や膿が出るようなひどい擦り傷を負いました。

 病院に行くと韓国行きを反対されるかもしれないし、家族に知られても反対されるだけだと思い、決意して薬局に行き、たくさんガーゼや塗り薬を買い、翌々日の韓国行きに備えました。

 こうして、1週間韓国にいて断食をして祈り、勝利を確信しました。韓国は儒教をベースに持つ国ですから、父の救いといやしを祈る娘たちは親孝行にうつるようで、好意的に扱ってくださり、趙鏞基(チョウ・ヨンギ)牧師に祈ってもらえるよう取り次いであげるといってくださいました。私たちは、しかし祈りの中で父の救いといやしを既に確信していたので、謝意を伝え、イエスさまの働きに期待しつつ帰国しました。

 帰国すると、父は3日後に大きな手術を控えていました。イエスさまがいやしてくださったのだから、この手術をしないで、と妹は父に嘆願しました。私は、イエスさまはお父さんの身代わりになって死んでくださったから、手術前にイエスさまを信じて、この手術をイエスさまに担っていただこう、と提案しました。父は、ここまで来たなら穏やかに手術を受けさせてくれ、と言いイエスさまを信じる祈りをなし、救いを受けました。

 手術中、父は天国に行きました。雲に乗り天の栄光を見ました。また、イエスさまが天国を案内してくれたと言います。その詳細は次の機会に譲りますが、天国は素晴らしい所だったと言います。

 神のみわざがなされる前には必ずさまざまな形でサタンが妨害してきます。しかし既にサタンは敗北しているのです。それ故、敵に背を見せてはなりません。立ち向かうのです。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ローマ人への手紙1620節)

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2021年12月19日日曜日

サウルの失敗

 サウルは、イスラエルの初代の王様です。サムエルを通して主がイスラエルを治めていた時、民は周りの国々と同様、王を欲しがりました。そこで、サウルが起こされました。サウルは多くの方がまさに王だと納得するような外貌を備えた麗しい人物でした。しかし彼は、人を恐れるという弱さを持っていたのです。

 ぺリシテ人との戦いに入った時、サウルは、戦勝祈願に来るはずのサムエルを、彼の言葉通り7日間待ちました。しかしサムエルは来ず、民が離れ去ってゆくことを恐れたサウロは自分の手で全焼のいけにえを捧げてしまいました。そこへサムエルがやってきて、「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。今は、あなたの王国は立たない」と宣言しました。

 時は移り、神はアマレクを打ち、すべてのものを聖絶するようサウルに命じます。イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにした仕打ちを罰するというのがその理由です。サウルは、歩兵20万、ユダの兵士1万をもって戦い、アマレクを打ちました。しかし、サウルはアマレク人の王アガグを生けどりにし、また肥えた羊や牛の最も良いものを惜しみ、ただつまらない、値打のないものだけを聖絶しました。

 翌朝早く、サムエルにサウルが自分のための戦勝記念碑を立てたということが知らされました。サムエルがサウルに会いに行くと、サウルは「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました」と言いました。しかし、サムエルは「では、私の耳にはいる羊や牛の声は何ですか」と言います。「主はあなたに使命を授け、『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。絶滅させるまで戦え』と語られたのに、なぜ主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか」とサムエルは言いました。サウルは、民に責任転嫁して、民は主にいけにえをささげるために最上のものとして分捕り物の中から羊と牛を取ったのですと弁明しました。主にささげるためなら、聖絶せずに残しておいてもよいだろう、というすりかえが起こっていました。サウルは聖絶せよという神のことばに従いませんでした。

 これに対してサムエルは「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」と言います。

 神が私たちに望んでいることは多くありません。むしろ一つで、それは主の御声に聞き従うということです。サウルは、自分は主に従っているつもりでいました。どうしてこんなずれができたのでしょうか。思うに信仰には2つの型があります。文字通り御声に聞き従うという在り方と、主はこうお考えだろうと類推する在り方です。多くのものが、神を知らないので後者の生き方をしています。

 両者の違いは、神と自分どちらが中心となっているかによります。私たちが、神さまのために良かれと思ったことを行うことと、神さまに聞いて、神さまが語られたことを行うこととは、似ているようですが根本から違います。聞き従いは神が中心です。私たちが受ける祝福もまた聞き従いとともにあります。サウルの失敗から学びましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年12月12日日曜日

神との和解

 キリストに出会う前、罪に対して私たちは、絶望的な者でした。生まれながらの罪人である私たちは、どう気をつけていても、日常の営みの中でさまざまな罪を犯してしまいます。これに対してはあわれみを乞うよりほかありません。しかし人の誰が、犯した罪を赦すことができるでしょうか。罪を詫びると隣人はあるいは許してくれるでしょう。でも、その人もまた罪を犯す同じ人間なので、罪を犯した私の罪を赦す力は持ちません。罪の赦しを取り持つのは、一度も罪を犯したことのない人物でなければならないのです。

 旧約時代は、罪のためのいけにえに子羊をとり、自分の身代わりとして屠(ほふ)りささげました。当時は、これがオーソドックスな罪の赦しであったのです。しかし、それには限界がありました。いくら羊をいけにえにささげても罪が完全に無くなるわけでなく、年ごとに繰り返しささげなければならず、返ってそのことによって罪意識は昂じました。そこで、神はご自身のひとり子であるイエス・キリストをくださったのです。イエス・キリストは、罪のないお方です。神の満ち満ちた実質を体現した神のひとり子です。私たちを贖うことができる唯一のお方です。

 そして事実、イエス・キリストは約2000年前にこの世に来られました。神であられるのに身をいやしくし肉をまとわれ、病をいやし奇跡を行い神の恵みの日が来たことを証しされました。そして、ご自身が世に来られた理由であり使命であった罪の贖いを成し遂げてくださいました。主イエスはカルバリの丘で、全人類の罪を負って十字架にかけられ、死んでくださったのです。

 しかし、この方がいつまでも死につながれていることなどありません。イエスさまは亡くなりましたが、3日目に死者の中から復活を遂げられました。ここに人類に対する贖いがなされ、救いが完成しました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自身の肉によって敵意を廃棄されました。(エペソ人への手紙215節)死と復活という試みを通られたられたイエスさまだけが罪の赦しをなされる権威をお持ちなのです。

 こういう訳で、イエス・キリストによる贖罪が完成した今、私たちに対する神さまのみこころは和解にあります。コリント人への手紙第二5章には次のように書かれています。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられたのです」(19節)違反行為の責めとは罪のことです。もはや、それが問われることはなく、神は愛するあなたがご自分の元に帰って来るのを待っておられます。神の和解に応じましょう。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2021年12月5日日曜日

信仰、望みえない時に

  義人は信仰によって生きる、と聖書には書かれています。(へブル人への手紙1028節)クリスチャンの多くは、信仰を増し加えてほしい、信仰を通しての神のみ働きに与りたいと、そう願っているものです。聖会などで、祈りを求めて並ばれる方の多くが、信仰が増し加わることを祈りの課題として挙げておられます。

 私もそれには同感で、日々の営みの中で、つい不信仰になってしまうことが多々あります。期待するべき時に不信仰に捕らわれ、神の手を止めてしまう失敗を何度も経験しました。信じようとしない頑な心、不信仰に対しては、聖書の中でもたびたび主は嘆かれています。なぜなら、主は最善のものを用意してくださっているのに、不信仰であるがために私たちがそれを受けないで終わってしまうのです。

 信仰って何でしょう。考えてみたことはありますか。自分は不信仰だという苦手意識が感情を支配していませんか。確かにここには戦いがあります。しかし、信仰は神が与えてくださるものでもあるのです。

 ローマ人への手紙418節に、「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という一文があります。これは、直接にはアブラハムの信仰について書かれているものです。アブラハムはもう子をもうけるのは不可能な年齢でありながら、約束の子イサクを受け、更にはあらゆる国の人々の父となるという神の約束が自分に成就することを信じたのです。この信仰が大きく彼の人生を変えていきました。

 信仰は、「望み得ないときに」というこの一語に集約されています。というのも、望み得る状況であるなら、人はわざわざ望むようなことはしませんし信仰を用いることもしません。望み得ない状況で望むのが信仰なのです。ですから、私たちの信仰はおおよそ望みを得ない状況からスタートするのです。

 恐れてはなりません。信仰は全て、望み得ないという所から始まります。望み得ない状況、これが信仰の出発点となり、ここから奇跡を見、解決を見るのです。最初は誰でも疑います。信仰が持てない環境にあるかもしれません。しかしその時こそ、信仰を用いるその時なのです。望み得ない今こそ、まさに信じる時なのです。

 聖書に、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル人への手紙122節)と書かれています。神によって始まったことは神ご自身が完成させてくださいます。私たちの望みは、神にあります。信仰をもって、神に近づき神の実を結びましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年12月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月28日日曜日

足を洗われたイエスさま

  ヨハネの福音書13章には、ヨハネだけが言及しているイエスさまのお姿があります。

 過ぎ越しの祭りの前のことです。いよいよ弟子たちとの別れの時が来たことを知ったイエスさまは、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいでふき始められました。こうすることによって、イエスさまは弟子たちへの愛を示されました。

 お弟子たちは、さぞ困惑したことでしょう。ペテロは、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」といいました。イエスさまは「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃいました。

 ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください」と辞退しようとします。しかし、イエスさまが「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語られると、今度は一転し「足だけでなく、手も頭も洗ってください」といいます。イエスさまは、「水浴した者は、足以外には洗う必要がありません。全身きよいのです」とおっしゃいました。

 これは、私たちの日々の罪の赦しに関わってくる事柄でもあります。イエスを信じ罪の赦しを得た私たちですが、罪自体がなくなったわけではありません。原罪を持ち、生まれながらの罪人である私たちは日々犯してしまう小さな罪があります。それが足につく汚れで、それをも拭ってくださるという意味もあるようです。

 また、同1415節にはこう書かれています。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」

 こうしてイエスさまは、世にある私たちにご愛を示されました。そこに見えるのは、謙遜の姿です。

 主イエスにならい、互いに赦し合うこと仕え合うことを、イエスさまは体をもって教えてくださったのです。このような形で、神、主イエスは私たちにご愛を示されたのです。

 愛を示すということは大切なことです。私は、クリスチャンとしては家族の初穂です。しかし未熟であったために、遅れて信仰を持った父に律法をあてがい、裁くようなことばかり語っていました。すると、ある神の人から、父が神さまの愛を分からないで戸惑いまた傷ついている、だからあなたは神の愛で接し、お父さんにキリストの愛を示していきなさい、という勧めを受けました。これを実行した時、父も私も変わりました。赦し赦され、口先だけでなく、熱心に愛し合う関係になりました。

 神は愛です。赦すために主は来られたのです。この愛のうちに留まり、互いに足を洗い合いましょう。そうすることによって、神は栄光をお受けになられます。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月21日日曜日

時代 

 教会の修養会の帰りに、芥川賞作家の重兼芳子先生に渋谷の大学まで車で送っていただいたことがあります。小説家は憧れの職業であったので、どうすれば小説家になれるのか聞いてみました。すると、意外な答えが返ってきました。

 時代が変わったからだ、というのです。昔は作家の弟子に入ったりした、ごく限られた人しか小説家になる道がなかったけれど、今は誰でもやろうと思えばできる。音楽も昔は一部の人しかできなかった職業だったけれども、今は誰でもできるようになっている、それと同じことなのよと話してくださいました。

 それから、三十数年、さらに世は大きく変化して行きました。特筆すべきは、ネットを通しての働きです。世は、情報社会になりました。テレビ局など一部の人しか扱うことができなかったメディアの働きですが、今ではスマホや端末を用いて、誰でも瞬時に情報を世界中に発信することができます。「YouTuber」や「ブロガー」として収入を得て、暮らして行ける時代なのです。

 とはいえ、良いことばかりではありません。情報は生き物で、それを掌握するものは巨大な力を持つからです。一見、言論の自由を得たように見えますが、実は反面、強い管理のうちにあり、いともたやすく情報統制がなされる時代となっています。

 そして世界は今、民族や国境の垣根を超えて、ひとつの政府になろうと、産みの苦しみの始まりを迎えています。このことに関しては、聖書はこと細かに述べています。そして、この世界政府の頂点に立つ人物こそ、まさに反キリストであると言われています。反キリストは情報を掌握し、心の赴くままに曲がった情報を流し、民心を掌握します。彼は人気者となり、終には自分を神だと宣言します。そして、真に神に聞き従っているクリスチャンを憎み、迫害します。

 今回、コロナウイルスの世界的な大流行が起こりましたが、これは私たちを眠りから覚ます神の手となりました。コロナ禍は象徴的な出来事です。コロナは国境を越え拡がりました。これを時として、時代が変わったのです。顧みればお金も電子マネーにうって代わろうとしていますし、マイナンバー制への移行が世界的に推し進められています。体内にチップを埋め込むことはもう現実のこととなっています。反キリストは、いよいよ表舞台に出て来るでしょう。時は、終末を指し示しています。

 こういう訳で、時代に飲み込まれないよう、しっかりと神に目を向け、目を覚ましていましょう。神を避け所としなければ、乗り越えられない困難がこれから次々に起こってきます。しかし間もなく再び主が来られます。主は王として来られ、私たちを永遠の住まいに、天国に導いて下さいます。こういう訳で、私たちは主がいつ来られてもいいように、日々救いの達成につとめましょう。

 「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」(マタイの福音書2414節) 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月16日火曜日

 宗教

 私は、宗教が大嫌いでした。本当に嫌いです。しかし、元から嫌いであったわけではありません。むしろ好きなほうで、いろいろな本を読み、信心は持ち合わせていた方です。中学生の時には母の代理で、ある宗教の総本山に行きました。

 その総本山に行ったことを機に、「鰯の頭も信心から」ということわざから、信じる対象は何でもいいわけだから、思い切ってこれを信じてみようと決め、タスキを掛けました。そして教えられた通り朝夕のお勤めをして信徒になりました。しかし、その姿を叔母に目撃されてしまい、真夜中に父が怒りに燃えてやって来て、私を起こし拳で打ちました。

 これは魂に大きな傷を残した出来事で、これを最後に私は、ありとあらゆる宗教を嫌うようになりました。また、宗教に対して疑問も感じていました。信仰にお金が絡んでくることです。1人につきいくらという供養料を払うようになっていて出費や負担が大きいのです。人の弱みを食い物としているように見え、こんな宗教とは一生関わりたくないと思いました。その宗教ばかりでなくすべての宗教を封印し、一生無宗教で生きよう、と堅く決心しました。

 このように私は宗教嫌いを誓っていたのですが、その後、青天の霹靂で、何と私はクリスチャンに、宗教家に、なったのです。キリスト教の牧師である夫の妻として、今に至るまで三十数年間を神の教会で神に仕えて過ごしました。この展開は人生の不思議さを表し、頂いた救いは神さまの深い恵みです。18歳になった時、神は人手によることなく私を新しくしてくださり、私はイエス・キリストを救い主として信じました。お金で買えない真の救いに与り、この出会いに背かずこの道に進みました。

 今、私の回りにいる人々は、子育てを終え、老親や伴侶を天に送り、自分の時間ができた人が多いように思います。人生の完成を考える年頃であり、再び宗教を考える時に来ています。知人たちは、宗教に関心を持っています。教会にも来ますが、いろいろな宗教にも足を向けています。何かに祈りたいという気持ちや、近づく死に対して、備えや確信を得たいと願ってのことでしょう。

 人には宗教は必要でしょうか。かつてはノーと言いましたが、今は人と宗教は分かつことのできない関係であるというのが私の確信です。伝道者の書511節には「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」と書かれています。人は生まれながらに神を求め、永遠を求めるよう造られているのです。また、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(同12章1節)とも書かれています。

 それ故、どうかあなたの救いの達成につとめてください。今がその時です。世界は未曽有の患難に突入しようとしています。あなたは今、神を知ったかもしれません。しかし、神は世が始まる前から、あなたを知っておられ、あなたとあなたの人生を用意してくださいました。イエス・キリストを下さった御神の愛こそ私たちの住まいです。神の元に帰りましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月10日水曜日

新しい人

 コリント人への手紙第二に、次のようなことばがあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(517節)

 その通り、誰であれ御子イエス・キリストを信じ、自らの救い主として心にお迎えする人は、新しく造られた者です。なぜなら、その人はイエスを信じることによって「救い」を受けたからです。今から約2000年前、イエス・キリストが世に来られ十字架で死なれたのは、私の罪を贖い赦すために私の身代わりとなって死なれたのであり、またイエス・キリストが三日目に死からよみがえられたことによって、人類は死に勝利し、信じる者は誰一人として例外なく永遠のいのちを持つようになりました。それまでは、罪過の中に死んでいた何の望みもなかった私たちですが、キリストが来られたことによって、すべてが一新されました。古い私は過ぎ去り、すべてが新しくなったのです。

 新しくなった、というのは古いものが過ぎ去ったということです。そしてこれはイエス・キリストによって実現しました。キリストを信じる以前の私は、世にあってさまざまな悩みに縛られていました。端的に言えばサタンの支配の中にいたのです。自分で自分を救うことはできません。そういう点では、囚われ人であったと言えるでしょう。

 しかし、キリストが来てくださったことによって、できないことができるようになりました。その最も大きな出来事は救いを得るというものでした。罪からのきよめ、死からの復活、病のいやし、悪霊からの解放、問題からの解決を頂きました。目には見えませんが、私はキリストにあって、新しく生まれたのです。

 新しくなったということで最も大切なのは、サタンの支配から神の支配へと移されたということです。私たちはサタンの支配下にありましたが、イエスを信じることによって神の、御父の支配のもとに置かれるようになったのです。

 ある時、私は牧師に聞いたことがあります。サタンに攻撃されたり、支配されたりすることが不安だ、というものです。

 それに対して、牧師は「新しいあなたに対してサタンは何の手出しもできませんよ」と言いました。本当にその通りなのです。キリストにあって新しく生まれた者に対しては、どんなにサタンが攻撃の手を尽くそうとも効き目がないのです。十字架のイエスさまは、真実、私たちを贖ってくださったのです。

 新しい私は、完全な罪の赦しを受けています。また、聖霊の導きの中に生き、死から命へと移っています。恐れることはありません。サタンはもはや敗退し、信じる者はキリストの支配のうちに置かれています。この素晴らしい救いにあなたもこの瞬間から加わることができます。見よ、すべてが新しくなりました。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月6日土曜日

天国

 昨年最後の日曜日に、教会の姉妹が召天しました。姉妹とは、教会のスタート時から今に至るまで30数年間、共に教会で過ごしました。親しい方であったので第一報を聞いた時には驚きました。けれども、彼女は天国に行った、ということがなぜかよく分かりました。そして、天国が急にとても近く感じられるようになりました。

 天国は、私たちクリスチャンにとって故郷でありホーム(家)です。懐かしい方々がそこにおられます。すべてのことを感謝することを教えてくれたマーリン・キャロザースさんや若いころ大変お世話になった新井先生、断食祈祷の力を教えて下さった崔子実先生も。フィリピンで殉教したジャッキーやジュリエッタたち、そして私の父も息子も。他にもSさん、Mさん、Tさん、Aさんもと枚挙にいとまがありません。多くの友人知人が既に御国の子となって、パラダイスにいます。ひょっとすると地上にいる私たちより天にいる者たちのほうが人数多くなったかもしれません。

 天に召されて、今、姉妹は、天国のすばらしさに満ち足りていることでしょう。先に天に行かれたご主人とも再開を果たされたでしょうし、ひょっとしたらマーリンさんとともに「プレイザロード」と神を讃えているかもしれません。姉妹の喜びが伝わってくる思いがします。

 天国がどれほど素晴らしいところか、皆さん薄々は分かっておられるように思います。しかし、知ってはいても、この素晴らしい天国に入るにはどうすればよいのかまで知っている人は極わずかです。また、死んだあと自分はどうなるのか、これも誰もが問いたい疑問です。

 聖書によれば、イエスさまを自分の救い主と信じる者は、罪赦されて、死んだらパラダイス(天国)へ行きます。しかし、信じることをせず、罪の赦しを受けない者は、おのれの罪と不義の中に死にます。そしてハデス(黄泉)に置かれるのです。日本語では、一口に「地獄」と言われていますが、聖書では地獄は「ハデス」と「ゲヘナ」の2つに分かれていて、前者ハデスはキリストを信じないで亡くなった死者が一時的に置かれる場所で、後者ゲヘナは、文字通りの地獄で、昼も夜も苦しみを受ける硫黄の燃える火の池です。

 信じることによる天国の救いのハードルは、驚くほど低いことを知ってください。ローマ人への手紙10章には、このように書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(910節)

 すべての者が救われるために、神はただ御子を信じることを唯一の救いの条件とされました。信じるならば救われる、ただこれだけです。神はあなたが信じて永遠のいのちを受けることをみこころとされています。福音を信じましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月3日水曜日

神の慰め 

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」これは、コリント人への手紙第二14節にあることばであって、私たちへの神の約束です。まもなく還暦を控える自分の人生を顧みると、一度や二度ならず深い苦しみの時があり、挫折し倒れたこともありました。

 多くの方は、神に関して厳しい方というイメージを持っていますが、それは私たちの罪に対する神の神性、そして、その神の聖さに対する私たちの罪に対する自覚がそうさせるのであって、神さまご自身は慈愛の父、慰めの神であり、変わりないお方です。また、神は聖であり義なる方であるため、生まれながらに原罪を持つ罪人である人間とは相交わることはできません。なので、私たちがいつでも神に帰ってくることができるよう、神は罪人が神に立ち返るご計画を立て、私たちに御子イエスさまを下さいました。イエスさまは私たちの赦しのために、およそ、2千年前、一度世に来られ、十字架で私たち人類のすべての罪を担い、死んで下さり、三日目によみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。ここに、神のご愛は十字架という形に結実し、私たちの「救い」が決定したのです。

 神は私たちを愛しておられます。私たちには苦しみが許されることがありますが、その苦しみの中で、私たちを愛してくださるのも、また神でした。神は、幾度となく慈愛の父、慰めの神となってくださり、私を庇い、敵の前でご愛を注いでくださいました。

 それ故分かります。この方が、裁きをするなら、その裁きは正しいのです。この方のご愛は、律法以上に働き、罪を超え、どんな罪人であっても、悔い改めるよう働きます。そして悔い改めの実を結ばせると、今度は私たちを慰めてくださるのです。罪の赦しは、想像を超えるような大罪を犯していても、些細な罪であっても、どのような時であっても、神が私たちの避け所であって、私たちの罪のために流された御子イエスの血は全ての罪を赦し清めます。

 さて、イエスさまのご愛に関してマタイの福音書1220節にはこう書いてあります。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」というものです。彼とはイエスさまであり、そのご愛は慰めに満ちています。そして忍耐のある愛だと言えるでしょう。いたんだ葦とは、折れかけている葦で、くすぶる燈心は、今にも消えそうな明かりです。しかし決して、その葦も燈心も消し去られることはありません。イエスさまが、守ってくださるのです。

 イエスさまの慰めは私たちに満ち満ちています。イザヤ書5112節では「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間を恐れるとは」、と書かれています。私たちを慰めてくださるのは神ご自身です。私たちが試練、困難の中にある時、神は確かに人の世にはないようなご自身の深い慰めを注いでくださいます。そして、人の知られない所にその慰めは届き、私たちの苦しみは祝福へと変えられるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年10月26日火曜日

恐れ 

 恐れは、私たちの感情の1つですが、扱うのに厄介なものです。恐れは私たちを委縮させ、恐れさせているものの奴隷とならせます。ですから、恐れに勝利した人は、人生の成功者だと言っても過言ではないでしょう。

 かつて、難易度の高い空中ブランコに挑戦するあるサーカスの団員がいました。十分に訓練を重ねて来たので、演技にも自信を持っていました。いよいよ本番という時、カーテンの袖で出番を待つその人に、トレーナーがあるひと言をかけました。「大丈夫か。本当に大丈夫なのか」。

 何ということでしょう。トレーナーのその一言で、その人の心に一点の「疑い」が入りました。そしてその疑いはその人に「現状」を見させたのです。その人は初めて、失敗するかもしれない、という「不安」に囚われたのです。その不安は的中し、その人は失敗してしまいました。もし、トレーナーが、「お前にはできる。大丈夫だ、行ってこい!」と語ってくれていたら、また結果が違ったのではないかと私は思います。

 詩篇2925節にこのような記述があります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」というものです。確かに人を恐れる者は、自らわなに落ち込んでしまいます。しかし、神に信頼するなら、その中でも守られていくのです。

 聖書の中で、人を恐れて失敗した代表例は、イスラエルの初代王であるサウルです。(サムエル記第一1315章参照)サウルは、ぺリシテ人との戦いに備えて士気を上げるため、全焼のいけにえをささげたいと思っていました。しかしサムエルが定めた7日間を待ちましたがサムエルは来ません。人々が自分から離れ散ってゆくのを見て恐れたサウルは、許されていないにも関わらず、自分で全焼のいけにえをささげてしまいました。人間的な手段をもって民の心をつなぎとめようとしたところにサウルの失敗があります。遅れて来たサムエルは、愚かなことをしたものだ。あなたの王国は立たないと宣告しました。

 その後、アマレクとの戦いがありました。ここでもサウルはアマレクを聖絶せよという主の命令に聞き従わず、価値のないものばかりを聖絶し、主に逆らいました。それに対してサウルは、罪を認めました。でも、私は民を恐れて彼らの声に聞き従ったのですというのがサウルの弁明で、そこには責任転嫁が見られます。しかもサウルは王としてのメンツ保持のために、サムエルに私と一緒に帰り私の面目を立ててくださいと懇願しました。サウルにとっては、神の前に自分がどうあるか、ということが関心事なのではなく、民にどう思われているのかが大事であったのです。神の前に真の悔い改めがあったかどうかは疑問です。

 確かに、人を恐れるとわなにかかります。恐れは失敗を生むものなのです。前述の空中ブランコの人が失敗したのは、トレーナーのひと言によって自分を見、現実を見、思わずも恐れに囚われてしまったからです。それに引き換え神への信頼、神への聞き従いは、わなに勝る生き方です。それ故、私たちは神を恐れることを学びましょう。主に信頼する者は守られます。神を恐れ、神に聞き従うことをあなたの人生の土台としてゆきましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2021年10月18日月曜日

ご臨在 

 神さまご自身がまさにここにおられる、そのように感じられるもの、それが「ご臨在」です。

 198312月に私は、東京都杉並区のМキリスト教会を訪ねました。小学校の時に日曜学校に通っていたので、教会の温もりや教会の聖さ、そして教会の喜びが思い出され、懐かしさとともにその日何か期待するものがありました。

 何かが違う、その何かがその日私にはたらきました。礼拝の後に、教会の牧師が祈ってくださいました。すると、昔歌った「いつくしみ深き」という讃美歌が胸によみがえってきました。そして「などかは下ろさぬ、負える重荷を」という歌詞を思い出し、それが心に深く触れました。イエスさまが、おまえはどうして重荷を下ろそうとしないのか、と懇ろに語ってくださるかのようで、身も心もたちまち主の元に立ち返りました。私は、救われたのです。目には見えませんが見える以上に神がそこにおられることを、感じ取っていました。理屈ではなく神がそこにおられる、これが「ご臨在」で「ご臨在」のある所に神のわざがあり、救いがあります。

 また「臨在」は力です。かつて父が、危篤の床にあった時、母が「もう一度チャンスをください」と祈ったら、大勢の御使いたちが病室に来たというようなざわめきが起こり、病室の空気が一変しました。さぞかし厳しい戦いがあるだろうと覚悟して病室に向かいましたが、ドアを開けてみると既に「ご臨在」があるので驚きました。主が来てくださっていたのです。人にはできないことでも神に不可能はありません。主は「ご臨在」の内におられ、奇跡が起こりました。父は危篤を脱しました。

 慕わしいもの、それは「ご臨在」です。ロサンゼルスにあるオン・ザ・ウエイ教会にプレイヤーチャペルがあります。ここは、四隅に天使が立ち、チャペルが「ご臨在」に満ち満ちて、霧のように一面に覆われた所として有名です。私たちは、幾度となくこのチャペルを訪れ、祈りつつ時には眠りつつ、一日中そこにいて祈り込みました。「ご臨在」の中には豊かさがあり恵みに満ち、 1歳を迎えたばかりの私の娘は、初めて1人で立ち上がって歩きました。忘れ得ぬワンシーンです。

 「ご臨在」を、ひと言でいうと、「その場から立ち去りがたい」というものです。ずっとここに居たい、心ゆくまで主と交わりたい、そういう願いが尽きず御神が慕わしいのです。詩篇の作者はこう歌いました。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」(1611節)その通り、ご臨在の中に主は生きておられ、また満ちておられるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年10月13日水曜日

愛のかたち

 私の夫は、生まれた時から病弱で、この子は二十歳まで生きないであろうと医者に言い渡されていました。そこで、小学3年から3年間、区内の体の弱い子たちが集まる千葉の健康学園にいきました。そこでは学業が今一つ振るわないので、ある時、義母が学校に呼び出されました。ところが義母は、そこで担当の先生に啖呵を切ったのです。「うちのこはな、生きているだけでいいんだよ! いいか、勉強しなさいなんて絶対言うなよ。言うと承知しないからな」圧巻です。子に対する母の愛はかくも深いものなのかと、私も面喰いました。

 母の愛と言えば、皇后雅子さまは、娘の愛子さまが不登校であった時、いつも学校に付き添われました。それをバッシングされ、いろんなストレスがあったでしょう。しかしそれでも雅子さまは、ご自分の体調がすぐれないのにもかかわらず、付き添いを続けられました。ことわが子の事であるなら、親は困難を耐え忍ぶことができるのです。これは、愛です。確かに愛だと思います。

 10代の後半、私は重い病気になりました。車いすで飛行場に着いた時、真っ先に父が駆け寄り迎えてくれました。父は知人に「代われるものなら代わってやりたい」と語ったといいます。父とはよく喧嘩し、勘当され、仲が悪かったのです。しかし、本当のところは、父にも愛されていたのです。私が思うような形の愛ではなかったのでそれが見えなかっただけで、私は愛されていました。

 愛は、自らを犠牲としてささげることをいとわぬものです。私の次女は重症のアレルギーで、治療のために除去食の実行が必要でした。アレルギーの子専用のミルクもありますが苦くて飲まないので、代わりに私が除去食をして母乳で育てました。よくそこまでできるわね、と感心されましたが、子どものためなら苦にはなりません。これは今までにない発見で、私にも愛がはたらいていたと思います。

 先日、ある若い女性と結婚について語り合いました。彼女は、自分以上にその人が大事で、自分を忘れるくらいその人のことを大切に思える、そんな人が現れたら結婚してみたいな、と控えめに語りました。なるほどと思います。それが出会いというものなのでしょう。愛は、そのかたちにおいて自己否定を伴います。逆に言えば、自己否定できるのが愛です。自分以上に大切なものとして相手を持つこと、それは一つの愛のかたちだと思います。

 イエス・キリストは、その生涯において、私たちを愛されました。イエスさまは、私たちを贖うために世に来られました。十字架で死なれたのは、それが私たちを贖うための代価であったからです。イエスさまは、罪人である私たちの身代わりとしてただ一度死なれたのです。そして、その死を代価に、人類のすべての罪が贖われ、またそれによって罪の赦しを受けました。そして、それが確かなものであることのあかしとして、イエスさまは死んで3日目に復活を遂げられました。このことを信じ告白するなら、私たちは救いに与かります。

 世にはさまざまな愛のかたちがあります。親子の愛、友愛、男女の愛、そして神の愛です。すべての愛の土台となるのは、キリスト・イエスにある神の愛です。神はあなたを愛しておられます。主イエスをあなたの救い主として心にお迎えいたしましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2021年10月5日火曜日

笑顔のクリスチャン 

  世の中には善良で従順な、誰が見てもクリスチャンだと分かる輝きを放つ人がいます。本当に、クリスチャンという人は、喜びに満ちた笑顔をし、何より聖霊に満たされています。どうしてあなたはそんなに輝いているの? その喜びは一体どこから来るの? なぜ、悪いことが起こったのにそれを感謝するの? 多くの人がその秘訣を聞きたいと願っています。

 マーリン・キャロザース師はそのことの第一人者です。マーリンさんは、見るからにクリスチャンだと分かるような輝きがあります。全身が喜びに満ち、神の栄光を現しています。ご自身の書かれた本の表紙に取り上げられているマーリンさんのお写真は、おそらくプレイズ・ザ・ロード!と言って主をたたえておられる時のものでしょう、内側に深い喜びがあって体全身が明るく輝いています。この方は、世にありながら既に天国を生きている、そういう印象を受けました。

 体全体が明るく照らされているということに関しては、マタイの福音書6章に、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(22節)という一文があります。このことばがマーリンさんの上に実現しているのです。目は心の鏡といいます。目が病んでいるならそれは体全体が病んでおり、目に力があるならそれは体全体を明るく照らすのです。マーリンさんは全身が明かりに照らされた、神の器です。

 他にも、近しい所ではレーナマリアさんや、田原米子さんなどが上げられます。お二人は体に障がいを持ちながら、最大級の喜びを頂いてイエス・キリストの栄光を現しておられます。お二人にとっては、障がいの二文字は全く効き目がありません。そもそもお二人とも、ご自分を障がい者として見ていないでしょう。お二人は、神は私をとても愛してくださっている、と言います。この神さまの素晴らしさ故に、常に主をほめたたえているのです。彼女たちは、多くの者が神に立ち返るためのきっかけとして広く用いられています。

 さて、教会にはいろんな方が来られます。事実は小説より奇なりと言うように、私たちには信じがたい苦難に会った人が大勢いるのです。それは望み得ない病気であったり、貧しさであったり、罪の縄目の苦しみであったりします。けれども、教会に来てしばらくたつと、少しずつ神の愛がその人の心に浸透し、その人は変わっていきます。そして遂には、唇に嘆きの言葉ではなく感謝がのぼるようになり、キリストの栄光を現します。イエスの十字架によってすべての罪が赦された今、誰もが神の元に帰ることができます。涙に変えて、とびっきりの笑顔で神をほめたたえるようになります。

 この笑顔はどこから来るのでしょうか。実はこれこそ私が伝えたいことなのです。今日、あなたの心にイエスさまをお迎えしましょう。そうすれば主はあなたを救い、あなたの内に一点の曇りもない喜びを与えてくださいます。それ故、笑顔でいましょう。イエスさまは私たちを救ってくださいましたし、これから先も救ってくださいます。主イエスこそ、あなたの心の喜びです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/