2021年6月15日火曜日

お入り用なのです

  「赤鼻のトナカイ」という歌があります。クリスマスによく聞く歌ですが、その歌詞がまた、とても素晴らしいのです。赤鼻のトナカイ君は、いつもみんなの笑い者でした。でも、その年のクリスマスの日に、サンタのおじさんは、トナカイ君に言いました。「暗い夜道はぴかぴかのおまえの鼻が役に立つのだよ」いつも泣いていたトナカイ君は、「今宵こそは」と喜びました、というストーリーです。

 この話から、サンタさんがトナカイ君の心に深く愛を注いでくださったことが分かります。赤鼻のトナカイ君は赤鼻が心の傷となっていたのです。しかし、サンタさんは、その心の傷を良いことに逆転させてくださったのです。お前の赤い鼻は、夜道を行く時にぴかぴか光るので、とても役に立っているのだよ。サンタさんにこう言われると、長年彼にとってマイナスであった赤鼻は、この瞬間いっきにプラスに変わりました。こうしてサンタの言葉によって自分に意義を見出だしたトナカイ君は、すっかり元気になり、張り切ってサンタをお乗せし、その日の夜空を駆け巡ったのです。

 赤鼻のトナカイ君が立ち直ることができたのは、トナカイ君がサンタさんの言葉によって、自分が役に立っている、必要とされている、ということを知ったからです。自分が必要とされるということは、素晴らしいことであり、神さまは、そのように私たちをかけがえのない存在としてご愛を示されています。

 話は変わりますが、福音書によるとイエスさまがエルサレムに入場する際、預言書に従って子ろばが必要でした。その子ろばを調達するに当たってイエスさまは、持ち主に「主がお入り用なのです」と言いなさいと弟子たちに指示を与えています。子ろばはやって来て、イエスさまをお乗せする祝福に与りました。イエスさまはご自身のお望みになる者を入用とされ、呼ばれるのです。

 終わりの時代の大リバイバルが始まっているので、父なる神さまは今、至る所でリクルートをされています。ぜひあなたも、神の子としてこの招きに応じましょう。あなたが神に立ち帰り神に従うなら、神もまたあなたを選び、あなたを尊い働きにつかせて下さいます。主はあなたが「お入り用」なのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年6月8日火曜日

感謝の勧め

 聖書には数多くの勧めがあります。その中でも、テサロニケ人への手紙第一518節の「すべての事について、感謝しなさい」という勧めは、実行すれば人生を一変させるほどの強力な力があります。私たちはそれをマーリン・キャロザース師から学びました。マーリン師は、絶えず神をたたえている器で、プレイザロード!ハレルヤ!サンキュージーザス!などの言葉が口癖のようにあふれ出てきます。このマーリン師の肝入りで私たちは「すべての事を感謝する」ことの学びを始めました。

 マーリン師は特に、感謝することができないような時こそ、感謝するのだと、その奥義を教えてくださいました。良いことで感謝するのは当然でしょう。でも、悪いことを感謝するのはそうそうできるものではありません。しかし、あえてそれを感謝するなら、そこに信仰がはたらき、奇跡の手が動きます。禍さえも益となり、生ける神の現実とその勝利を目にするようになります。

 二十数年前、牧師である夫がある方に呼ばれてお住まいに伺いました。マンションの管理人をしておられるご夫婦です。この方は、事業に失敗して多くの借金を抱え自己破産しておられました。問題は法律上既に解決済みなのですが、諦めずにお金を取ろうと何度もやってくる取り立て屋がいました。弁護士からは絶対にお金を渡してはいけません、と言われており板挟みになって苦しんでおられました。

 そこで、牧師が呼ばれたのです。一通り話を聞いた後、牧師はマーリン師の教えを分かち合いました。そしてともかくこの問題を感謝するよう提案し、皆で賛美をささげ、11つを感謝し、お宅を後にしました。

 奇跡は忽ち起こりました。牧師が帰った後、案の定、例の取り立て屋が来たそうです。しかし様子が違うのです。あなたがたからはお金は取れないな。もう諦めた。二度と来ないよ。そういって何もせず帰って行ったのです。大逆転が起こりました。取り立て屋は二度と来ることがありませんでした。

 私は、この件は感謝をささげたことが逆転の鍵となったと思っています。感謝はまず目を問題から神へと向けさせます。次いで祈りの言葉は信仰に進ませます。感謝が奇跡を起こすのは、感謝によって私たちが信仰の立ちどころに立つからです。感謝するということは、実は信仰を用いるということなのです。奇跡が起きるのもまたそういう理由です。

 ピリピ人への手紙4章に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」という一文があります。神さまは全てをご存知です。ですからどのような状況にあっても感謝をもって祈りまた願い、神の守りの内に憩いましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年6月1日火曜日

 救いと悟り

 人の一生は「救い」を探し求めて歩む旅のようなものであり、私たちは皆、「救い」を求める求道者です。「救い」というのは、もっぱらキリスト教において使われる言葉であり、仏教ではそれに近い言葉として「悟り」という言葉があげられます。

 仏教的な言葉を援用すると、キリスト教の「救い」は究極の他力本願です。救われるには、既に完成されているイエス・キリストの救いをただ信じ、受け取るだけでよいのです。それに対して、大方の仏教のいう「悟り」とは努力、修行・苦行など徹底した自力本願による境地です。「救い」が神の一方的な恵みによってなされるものであるのに対し、「悟り」は仏教の境地で、修行に重きが置かれ、自分の力により頼ませます。ここに両者の大きな違いがあります。「悟り」の境地に入るには並々ならぬ自助努力が求められるのです。それゆえに、かえってそれが価値あるものとして見なされ、今に至っています。

 聖書の使徒行伝16章に興味深い話があります。キリスト・イエスの弟子であるパウロとシラスが、福音宣教のかどで牢屋に捕らえられていた時、真夜中に神に祈りつつ賛美していたら突然大地震が起こりました。獄舎の土台が揺れ動き、鎖が解けてしまいました。看守はてっきり囚人たちが逃げてしまったものと思い、自殺しようとしました。しかし、パウロはそれを止めました。

 すると看守は震えながらひれ伏し「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言いました。何を言われても努力するつもりでそう聞きました。けれども、これに対して二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。何かをすることではなく、ただ信じることによって救いにあずかれるのです。看守もそれを理解し、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。

 「救い」は「悟り」とは異なり、ただ信じることによってあずかるものです。そしてこれこそが神の知恵なのです。なぜなら、もし救いが力によるものなら、力のない人は救いにあずかることができません。お金で買うものであるなら、お金のない貧しい人は救われません。それ故神は、私たちが救いにあずかるために必要な唯一の条件として、信じることを選ばれたのです。これなら、誰にでもできます。

 救いは、信じるという、一見愚かに見えるあり方を通して、今やすべての人に等しく開かれています。信じる者は皆救われ、多くの者が神に立ち返っています。こういう訳で、あなたもまたイエス・キリストの福音を信じ、救いを受けましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年5月24日月曜日

弱さという強さ

  聖画に描かれているイエスさまは、とてもハンサムです。足まで垂れた白い衣を着て、髪も長くて、目には慈愛があふれています。

 イエスさまが公けに出現し、いやしや悪霊からの解放など奇跡を行うと、お弟子たちや民衆は、このイエスさまこそ、イスラエルを再興して下さる王であり約束のメシアに違いないと思いました。確かにイエスさまは、イスラエルの王です。それ故、聖画で見るイエスさまは、力と栄光に満ちているものが多いです。しかし初臨のこの時には、王としてではなく救い主として、私たちを贖うために世に来られました。

 だからでしょうか。イエスさまはあらゆる面で弱さをまとわれていました。イザヤ書53章ではイエスさまに関してこう語られています。「彼(イエスさま)には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(23節)と、王からほど遠い孤独や痛みが伝わって来ます。イエスの来臨のための道を用意したバプテスマのヨハネでさえも、世に来られたイエスにあなたは「その人」なのですか、と弟子たちを遣わして問われたほどです。それほどまでに実際のイエスさまは、聖画の王イエスさまとは違っていました。そこに見られるのは強さの象徴である王とは対照的な「弱さ」です。

 コリント人への手紙第2で、パウロは興味深いことばを語りました。彼もまた弱さに悩む人でした。こう書かれています。「これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである』といわれたのです。ですから、私は、(中略)大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(略)なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(810節)。

 強さではなく、弱さの中でこそ、神は完全に働かれるのです。かつて私は、エルサレムのビアドロローサを歩いたことがあります。その中に、十字架を負ったイエスさまが思わずも膝をつかれたと言われている場所がありました。イエスさまも弱かったのです。しかしそのイエスさまの弱さの中に神が働かれました。イエスさまは私たちの罪を負って十字架につけられ、死なれ、三日目に神の力によってよみがえられました。

 神にあって、弱さは強さよりも強いのです。神が働かれるからです。使徒パウロも「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(コリント人への手紙第二129章)と語りました。私たちの弱さは、キリストの力の現れとなります。それゆえ私たちもまた、私たちの弱さを誇りとしましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年5月17日月曜日

再臨の兆候

  聖書によると、この世にキリストは2度来られます。一度目はイエスさまが人類に救いを与えるため世に来られた2000年ほど前のことで、それを初臨と言います。そして、主イエスさまご自身が語っておられた通り、今度は世の終わりにご自身を待ち望んでいる者たちのところに、王キリストとして再び来られるのです。これが再臨であり、教会は頭なるキリストを迎える備えが進んでいます。

 マタイの福音書25章はその再臨について取り上げられています。イエスさまは、再臨を語るに、ともしびを持って花婿を出迎える10人の娘にたとえられました。そのうち5人は愚かで、5人は賢い者でした。それぞれともしびは持っていましたが、愚かな娘たちは、油を用意しておらず、賢い娘たちは自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。

 花婿が来るのが遅れ、みなうとうとして眠り始めた時、夜中になって「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がしました。急いでともしびを整えると、なんと愚かな娘たちのともしびは今にも消えそうで、賢い娘たちに、油を分けてくれるよう願いました。しかし、賢い娘たちは、「分けてあげられるにはとうてい足りません。店に行って買いなさい」と言います。

 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来て、用意のできていた賢い娘たちは、花婿といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられました。そしてそのあとで、愚かな娘たちも来て「ご主人さま。あけてください」といいました。しかし主人は「確かなところ、私はあなたがたを知りません」と言い聞き入れてくれませんでした。

 たとえで語られているこの話は、キリストの再臨のことを語っています。花婿はキリスト、花嫁は教会、10人の娘は信者、教会員であり、油は聖霊を指します。(チェーン式バイブルマタイの福音書25章脚注より引用)再臨は、教会の頭なるイエスキリストとみからだなる教会との婚姻です。これは神の奥義といってもよいでしょう。

 その再臨を迎えるにあたって、私たちは聖霊に満たされ続ける必要があります。キリストに対する信仰というともしびは持っていても、油、すなわち聖霊に満たされることがなければ、信仰もまた風前のともしびとなるのです。そこで気づいて買いに走っても、時すでに遅しなのです。

 私たちは間もなく再臨を迎えます。そのしるしが、兆しが、まさに今現れています。コロナウイルスによる感染症のまん延。また福島原発事故による汚染水の問題では、希釈するとは言っても、政府は本当に安全かどうか意見の分かれる濃度のまま海に流すことを決めました。これらはみなキリストの再臨が近いことを示す兆候です。その日その時は父なる神が決めておられます。私たちは聖霊に満たされ、目を覚まして、主の再臨の道を備えて参りましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年5月10日月曜日

信仰

  聖書のへブル人への手紙に次のような一節があります。

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(116節)。

 信仰に立つには何が必要でしょうか。このことばによればそれは、まず、状況の中に神がおられることを認めるということです。神を抜きにした信仰などありえません。そして次には、神は私に報いてくださると信じることです。きっと神はなしてくださるという信仰は、地に落ちることなく必ずその通りになります。失望に終わることはありません。

 聖書には、イエスさまに信仰を建て上げて頂いた、ある父親の話が掲載されています(マルコの福音書91427節参照)

 このお父さんには、おしの霊に憑かれた息子がいました。イエスさまは、この子がこんなになってからどれくらいになりますか、と聞いてくださいました。「幼い頃からです。この霊は彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」とお父さんは答えます。そして次いで、思わず本心が口をついて出てきます。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助け下さい」。

 するとそれを聞いたイエスさまは、間髪を入れずに言われます。「できるものなら、言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。

 これを聞くとお父さんは叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助け下さい」。こうしてついに神が働かれる信仰に立ちました。長年の間、いろんなことを試しては効果がなかったのでしょう。お父さんは、無理だという現実を間のあたりにして、いつしか信仰を見失い、あきらめていたのです。しかし、イエスさまのお叱りを受けてお父さんは再び信仰を取り戻しました。イエスさまが働かれる土台となる信仰ができたのです。期待するということは信仰の現れであり、信仰が働く土台となります。こうしてイエスさまは、その信仰に報いてくださり、悪霊に憑かれていた少年から霊を𠮟って追い出してくださいました。

 直面する状況の中でまず主を認め、そしてイエスさまに期待するなら、私たちは誰一人例外なく信仰を通して働く神のみわざに与ることができます。そして神さまもまた、こうして私たちが信仰を用いることを、喜んでくださいます。

 患難、困難の時ほど、神さまのご栄光の現れが強く現されるものは他にありません。それ故信仰を用いて神さまに近づきましょう。神に不可能はありません。問われているのは信仰です。信じる者はどんなことでもできるのです。それ故あなたもまた、神を信じ、信仰による奇跡のみわざに期待しましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年5月3日月曜日

原罪

  私には、生後半年になる孫娘がいます。新生児には他にはない可愛らしさがあります。全面的に私たちの手を借りないと生きていけない危うさが母性本能をくすぐりますし、生まれたばかりだとまだ人の嫌みなところが出てきていません。ミルク、オムツ、眠たいで催促して泣くくらいでしょうか。小さな天使と呼ばれるのもよく分かります。

 しかし、それもつかの間です。成長して行くうちに彼らの欲求はどんどん広がっていきます。自己主張をするようになり、時には憎まれ口さえたたきます。どんなに愛らしい子であっても、罪のない子はいません。人には、産まれながらに持ち合わせている原罪があるのです。

 昨年5月に、プロレスラーの木村花さんが若い命を絶たれました。ネット上で心無いバッシングがあったことが自殺の原因だと言われています。ネットだからと言って何をしてもいいわけではありません。現に、花さんは亡くなってしまいました。何が彼女を死に追い込んだのでしょう。集団になると個人とは違い、罪悪感も拡散されるので、人は残酷なことを平気でやってしまいます。これは、原罪の故になされる行いであり、人は、生まれながらの罪人であるということです。

 いじめというのも、人の罪の現れだと思います。天使のようだといわれる幼児の中にもすでにいじめは存在しますし、いい年の大人であっても差別や弱みにつけこんだいじめがあります。それは原罪と呼ぶ罪の根っこを生来私たちが持っているために起こるのです。

 子どもは愛らしい存在です。ですが、いざ罪が働くとそのいじめは大人以上にストレートで、陰湿かつ残忍になります。またそういう時にはサタンが好んで働きます。私も列に並んでいる時に、わざと体をぶつけたり、隠れた所で体をつねったりしている現場に出くわしたことがあります。ニュースを見ても、階段から突き落とされたり、集金袋を盗まれたり、バケツの水をかけられたり、いじめといっても今は命懸けの戦いです。暗闇のサタンの支配を許してしまう土壌があるのです。

 エレミヤ書に「ひょうがその斑点を、変えることができようか」(1323節)という一節があります。これは、罪は自分で解決できようかという意味です。答えは、「できない」です。人は生まれながらの罪人です。罪の奴隷です。自分一人さえ変えることができません。しかし喜びましょう。それ故、神はイエスさまを世に送ってくださったからです。

 イエスさまは、永遠の滅びに至る私たちを救うために、世に来られました。十字架の死とその復活によってすべての罪をあがない、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。この救いこそ命そのものです。主イエスを信じ、あなたの心にお迎えください。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年4月27日火曜日

なせ試練が許されるのでしょう

 この文章を読まれる皆さんの中には、今まさに試錬の只中にいるという人がおられると思います。試練は、誰にでも一度ならず訪れるもので、その時には本当に苦しくてなりません。皆一様に、どうして神はこんなことを許されるのか、と悩みます。しかも、そういう時には神は往々にして沈黙を守られるので、私たちは悩みの炉で溶かされまた試されます。私たちは神に愛されていないのでしょうか。

 このことに関しては、へブル人への手紙12章に次のような引用があります。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(56節)。

 「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです」(7、8節)。

 これが答えです。愛されていないのではなく、愛されているからこそ、神さまは私たちに試練を許されるのです。それゆえ、私たちに訪れる試練はそのまま、私たちが神の子であることの証明です。確かに神のお取り扱いは厳しいです。しかし、試練が許されるのは、申命記8章にあるように「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」のです(16節)。

 また、ヨハネの福音書152節でも、イエスさまは「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と言われました。私たちはいわば原石で、神は原石である私たちを磨き上げ、ご自身に役立つものとして建て上げてくださいます。同様に刈り込みも、実を豊かに結ばせるために主がなしてくださる祝福のみ手です。

 コリント人への手紙1013節には「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」と書かれています。

 イエス・キリストを救い主として信じる私たちには、既に一切が成し遂げられています。主は私たちの避け所また力です。こういう訳で私たちは許される試練を感謝し、たましいのやすらぎを得て行きましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年4月20日火曜日

信頼に応えられる神

 バビロンにネブカデネザルという王様がいました。その王朝はとても栄えていました。それで、ネブカデネザルは、自分のために大きな金の像を造らせて、これを拝むように言います。ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる、と罰則規定さえ盛り込まれていました。

 しかし、バビロン捕囚によって、この国に連れてこられたユダヤ人である、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3名は、金の像を拝まず、主への忠誠を堅く守っていました。彼らを憎むカルデヤ人は、王にこのことを訴え、怒った王は3名を呼び出し、「私が造った像を拝むなら良いが、もし拝まないなら、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう」と言いました。

 最後の言葉、これは失言です。もういけません。ネブカデネザルは、正面から主にぶつかってしまいました。生ける神は、その高ぶった言葉を聞いておられました。どの神が、と彼は言いましたが、イスラエルの神をもろもろの世の神々と同列に置いたことによって、既にネブカデネザルは敗退しています。イスラエルの神は、王の王、主の主であって、他の神々と同列に扱われてはならないのです。それゆえ神はこのことを用いて、ご自身の栄光を現されます。

 前述の3名は、ネブカデネザルに答えて言いました。

 「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」(ダニエル書31718節)

 このひと言は王の逆鱗(げきりん)に触れました。王は怒りに満ち顔つきが変わって、炉を7倍熱くせよと命じ、3名を着の身着のまま縛って、炉に投げ込みました。

 しかし、次の瞬間、ネブカデネザルは驚くような光景を見たのです。3名投げ込んだはずが、そこには、縄を解かれ歩いている4名の者が見え、4番目の者は「神々の子」のようであり、しかも彼らは何の害も受けていませんでした。

 これに驚いたネブカデネザルは、炉の口に近づき彼らに出てくるようにいいました。4番目の者は、受肉される前のイエスさまだといわれています。神はご自身のしもべたちの信頼に応えてくださったのです。王は命さえ惜しまなかった彼らの信仰と、その彼らの信頼を裏切らなかった神をたたえました。このように救い出すことのできる神はほかにいない、とさえ言わしめたのです。

 主に信頼するその信仰は、決して裏切られることがありません。このお方は、あなたがご自身の元に立ち返り、ご自身を力とされることを願い、また待っておられます。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年4月13日火曜日

 リバイバル

 皆さんは、リバイバルという言葉を聞いたことがありますか。そう、名作映画を再び上映する時に、リバイバルと言います。復活や再流行というのが辞書的な意味であり訳語です。

 教会でもリバイバルという言葉は用いられています。信仰の刷新というのでしょうか。くすぶっていた信仰を再び燃え上がらせる聖霊の力強い注ぎかけを言います。そして、それは個人においてだけではなく教会全体においてもたらされるものであり、いにしえからの神の約束です。

 リバイバルは2度訪れます。中近東の天候に例えてそれぞれ初めの雨と後の雨と呼ばれており、イエスさまの昇天以降既に先の雨は訪れました。そして、これから起ころうとしているのが後の雨で、世の終わりを前にしたたましいの大収穫です。イエスさまの再臨を迎える準備がなされています。

 この、後の雨に、終末の時代の大リバイバルに、私たちは召し出されました。この恵みの深さ高さ広さは、他に類を見ないものです。そしてリバイバルが起こった際、教会は3通りの反応をすると言われています。1つは、リバイバルが起こっても何も変わらないまま過ぎゆく教会。もう1つは、リバイバルによって豊かな恵みを頂く教会。そして3つ目はリバイバルを取り次ぐ教会です。私たちの教会は、リバイバルが起こった時にリバイバルを担っていく使命に応答しています。それ故許される訓練もまた、他にはない厳しいものがあります。しかし、その厳しさは人知を超えた神のわざが起こる土台となります。

 リバイバルの器として私たちに求められるものは「信仰」です。神さまは私たちを通してなそうとしている計画をお持ちです。ローマ人への手紙418節には「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」と書かれています。リバイバルにおいて重要なのは信仰です。望み得る状況で信じるのは信仰でありません。誰でもそうしています。しかし、「望み得ないときに望みを抱いて信じ」るには生きた信仰が求められます。そして、この信仰こそ、神が下さるものであり、リバイバルの土台となるものです。

 リバイバルは既に始まっています。死人がよみがえり、悪霊からの解放がなされ、病のいやしが起こりはじめています。いよいよ後の雨の到来です。雨足は今後ますます強くなるでしょう。信仰を堅くし、リバイバルの本戦を迎えましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年4月6日火曜日

光と闇

 教会で私たちは、「イエスは勝利を取られた」と歌い、また説教でもそのことを聞きます。イエスさまの勝利とは一体どういうものであるのでしょうか。聖書によれば、勝利は光と闇に例えられています。ヨハネの福音書には「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(15節)と書かれています。

 光と闇は、対立したものです。互いに相容れるところがありません。たとえどんな暗闇の中にあっても、光が来るなら、たちどころに闇は消え去ります。これが両者の習性で、光は闇を消すほどの強力な力があるのです。

 ヨハネのこのみことば自体もまた強力な力でした。30年ほど前になりますが、父が病に倒れ死線をさまよっていた時、私は真夜中に呼び出しを受けました。死神がいるので祈ってくれというのです。なるほど、その通りです。病室は闇が重く支配しており、父が信仰していた偶像の悪しきものが、あわよくばいのちを取ろうとうごめいていました。

 確かに父は、熱心な偶像礼拝者でした。しかしその時は既にイエスさまを救い主と信じ、回心していました。偶像とは関わりを断っています。そこで、私は前述のヨハネの福音書のことばを、父の横に立って繰り返し宣言し、また朗読したのです。すると、不思議なことが起こりました。霊の名を言い、「光はやみの中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と宣言し立ち去るように命じると、11つ霊が消えて行くのです。そして遂に1つも居なくなりました。

 圧倒的な勝利でした。光が来た時、闇はたちどころに消えたのです。キリスト・イエスの勝利とはこのようなものなのです。戦ってかろうじて勝つようなものではなく、既に勝っていることを確認するなら、直ちにその通りになります。この、闇に対する光の圧倒的な勝利こそ、私たちに与えられている恵みであり特権なのです。

 話は変わりますが、私は暗所・閉所が苦手です。何が苦手かって、それは方向の感覚がつかめないところです。右も左も上も下も闇の中では分からなくなります。一歩先は障害物があるかもしれません。そう思うと足を踏み出せず、立ちどころさえ見失ってしまいます。

 しかし、光が来るなら一変します。闇で見えなかったものが見えるのです。もはやつまずくことも、ぶつかることもありません。問題があってもよけることができます。こういう訳で、光を、イエス・キリストを、あなたのうちにお迎えしましょう。光が照らされてはじめて、すべてのものは白日にさらされます。すべてが見えるようになり、私たちの人生は一変します。光は闇の中に輝いています。これこそ、神が下さった圧倒的な勝利です。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年3月27日土曜日

0cmのハードル

  ルカの福音書15章は、「放蕩息子のたとえ」として有名な箇所です。ある人に兄と弟がいました。兄は出来が良かったのですが、弟は放蕩息子でした。父に財産の分け前を要求して、得るや否や遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして没落してしまいました。そこに大飢饉(ききん)が訪れ、世話をする豚の食べる餌で自分の空腹を満たしたいと願う程、食うに困ったのです。冷静になった弟は、父の所に帰る決意をします。「もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」こう言うつもりでした。

 ところが父は、まだ遠かったにもかかわらず、彼を見つけ、走り寄って彼を抱き、口づけをしました。そして、着物を着せ、指輪をはめさせ、靴を履かせました。受け入れてくださったのです。父は肥えた子牛をほふって祝宴を始めました。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」というのがその理由です。

 兄息子は畑に出ていました。家に帰ってきたら祝宴の音がします。いったい何事かと聞いて、弟のために父が祝宴を開いたと知ると、怒って家に入ろうともしませんでした。「私には友だちと楽しめと子山羊一匹下さったことがありません。それなのに遊女におぼれて身代を食いつぶし帰って来たこの息子のためには肥えた子牛をほふらせるのですか」父がなだめても兄は聞く耳を持ちません。

 同じようなことが、マタイの福音書20章に挙げられています。早朝、自分のぶどう園に働きに行く労務者を雇いに行った主人は、一日1デナリの約束をかわして彼らを園に遣りました。その後9時ごろに出かけると、別の人たちが何もしないで市場にいたので、相当のものを挙げるから、と言いぶどう園に送りました。12時ころと3時ころにも同様に雇って園に行かせました。5時に出かけてみると一日中誰も雇ってくれないという人たちがいて、彼らもぶどう園にやりました。

 夕方になり、主人は、最後の人から順に賃金を払ってやりなさいといいます。そこで5時からの人が来てそれぞれ1デナリずつもらいました。最初にぶどう園に来た者たちは、もっと多くもらえると思いましたが彼らも1デナリでした。

 彼らは文句をつけました。しかし主人は「不当なことをしていない。あなたとは1デナリの約束でなかったか。自分の分を取って帰りなさい。私が気前がいいのでねたましく思うのか」と言います。ここには放蕩息子の兄の憤りと共通したものを感じます。

 なぜ、聖書はこのようなこと取り上げているのでしょうか。それは救いのハードルがとことん低いことを知らしめるためだと私は思います。

 神さまと私たちの関係はいくつもあります。しもべの道、十字架の道、献身の道などです。これらの道は厳しく誰にでも開かれるものではありません。しかし、救いの道だけは無条件に開かれているのです。ただ、信じるだけでいい、イエスが主である、それだけでいいのです。救いのハードルは実はゼロセンチで、誰一人として救いに漏れる人はいないのです。

 世でろくなことをしなかった人も、何かを残すことができた人も、救いに限れば、神の前には等しく罪人です。福音は人を選びません。誰であれ、悔い改めるならどんな罪でも赦され、神の子とされます。これが、神の義です。1デナリの約束です。イエスを救い主として信じるならただそれだけで救われます。あなたもまた天国に行くことができます。主イエスを信じ救いを受けましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年3月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年3月20日土曜日

確かな土台

 小さい頃、マタイの福音書7章から取られた子ども讃美歌をお遊戯しながらよく歌いました。それは、それは楽しいものでした。賢い人と愚かな人の歌です。

 歌詞を挙げればこのようになります。「賢い人が岩の上に家を建てた。土砂降りの雨になった。雨が降って洪水になったけど賢い人の家はびくともしなかった」「愚かな人が砂の上に家を建てた。土砂降りの雨になった。雨が降って洪水になったら家はぺしゃんこになった」。

 家を建てるというのは、何らかの働きをするという意味です。地上でのこの人生の中では、誰もが自分の働きを立て上げていきます。ある人は家を岩の上に建て、別の人は砂の上に建てました。その違いは一見するだけでは分かりません。けれども、土砂降りの雨が訪れると、真価が問われるのです。岩に建てた家は洪水が来てもびくともしませんでした。しかし、砂を土台にして建てられた家は倒れ、しかもひどい倒れ方をしました。

 マタイの福音書によれば、これは神のことばを聞いて行う人と、聞いてもそれを行わない人との違いであるといいます。岩とは、神のことばです。神のことばに根を下ろすなら、多少のことがあっても揺るぎがありません。実を結びます。しかし、経験や自分の力などに身を置く時、それを覆すほどの試練や困難が許されると、その土台は砂のように脆く失われてしまいます。神に聞き従う人生と、自分により頼むものとの違いがここに現されています。洪水は、私たちへの試しです。私たちの土台が何であるかはいずれ試されます。しかし、神とその言葉は永遠に変わることがありません。そして救いの岩とはイエス・キリストです。

 讃美歌はこう続きます。「だから、主イエスの上に家を建てよ。さらば神の祝福を得られるだろう。祈りが天に届けば祝福が舞い降りる。だから、主イエスの上に家を建てよ」。

 イエスさまは、神のことばです。損なわれたり朽ちたりすることがありません。ですから私たちの土台を神のことばに、主イエスに置きましょう。そうすれば何が起ころうが案ずるに及びません。主は既に世に打ち勝っておられます。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年3月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年3月13日土曜日

 信仰と安息

 イスラエルが約束の相続地カナンに着いた時、モーセは諸部族から12人の族長を遣わし、その地を探らせました。そこは肥沃な土地で「乳と蜜が流れています」と彼らに言わしめる程、素晴らしい所でした。けれども、その地に住む民は力強く、町々は城壁を持ち、たくさんの先住民がいました。

 斥候のひとりカレブは、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」と言い、信仰によって民を奮い立たせようとしました。ところが、ヨシュアとカレブを除く10名の族長たちは、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」と悪く言いふらしました。それを聞いて全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしたと言います。

 ただ、ヨシュアとカレブは着物を引き裂いて、会衆に言います。「地は素晴らしく良い地であった。もし、私たちが主の御心にかなえば、それを下さるだろう。主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない」と信仰に立つよう勧めます。

 にもかかわらず、民は不信仰でした。2人を石打ちにしようとしたのです。その時、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われました。

 主は、この荒野で私につぶやいた者で20歳以上の者はみな倒れて死ぬ。ヨシュアとカレブ以外は誰もこの地に入ることができない、と宣告されました。カナンの地を探ったのが40日であったので、1日を1年と数え、40年間民は背信の罪を負わなければならない、荒野でひとり残らず死ななければならない、そう語られました。

 不信仰は恐ろしい罪です。万を超える全イスラエルの中で、たった2人ヨシュアとカレブしか信仰に立つ人はいなかったのです。神の目にかなう信仰を持っていたのは僅かこの2人だけでした。

 信仰は、働くと大きな力となります。同様に不信仰もまた、持ち続けると呪いを受けます。信仰は行いとともにはたらくもので、神に聞き従うことがその土台です。

 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めであると聖書には書かれています。(コリント人への手紙第一10章参照)また、へブル人への手紙319節には「彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」と書かれています。こういう訳で私たちは神の下さる安息に入れるよう不信仰を悔い改め、救いの達成につとめましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年3月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/