2018年5月30日水曜日

4番目の人

 紀元前600年ほど前のこと。バビロニア帝国の王ネブカデネザルは、大きな金の像を造り、これを拝ませました。そして、この像にひれ伏して拝まない者は誰でも火の燃える炉に投げ込まれる、というおふれが出されました。
 バビロン捕囚で連れて来られたユダヤ人の青年たち、すなわちシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、この事を知りながらも、像も王も恐れることなく、拝むことをしませんでした。
 そこで、ネブカデネザルは、もし、拝まないなら火の燃える炉に投げ込まれる、と彼らに告げました。そして、どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう、と彼は言いました。
 青年たちはこう答えます。「このことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます」「しかし、もしそうでなくても、王よ」「私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」(ダニエル書3章1718節)
 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、顔つきが変わって、炉を7倍熱くせよと命じ、3人は縛られ服を着たまま炉に投げ落とされました。
 しかし次の瞬間、王は目を疑いました。炉の中では何と4人の者が縄を解かれて歩いているではありませんか。しかも、第4の者は神々の子のようだ王は語り、彼らに出てくるよう言いました。火は彼らに何の効き目もありませんでした。「どの神が私の手からあなたがたを救い出せるか」と言ったその神が、彼らを救いました。
 特筆すべきは、彼らの神、主への信頼です。彼らは死をもってしても神に信頼する道を選びました。それ故、神もまた真実であられ、奇跡をもってその信仰に報いてくださいました。3人を救い出した神とは、イエス・キリストです。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年6月3日号(第992号)より転載—

2018年5月23日水曜日

人を恐れた王様

 聖書の箴言に、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」という一文があります(2925節)。人を恐れるとわなにかかるとはその通りで、サムエル記を読むたびに私は、サウルとダビデ、この対照的な二人の王のことを思い起こします。
 サウルは、イスラエルの初代の王様です。彼は、幾度も致命的な間違いをおかしました。その一つは、サウルに油を注いで王としたサムエルが、約束の日時に来なかった時のことです。民が今にもサウルから離れ散って行こうとしたのを見て取ると、サウルは思い切って祭司にしか許されていない全焼のいけにえを自分でささげました。人を恐れてしまったのです。そこにサムエルが到着し、サウルに、あなたは愚かなことをした、今やあなたの王国は立たないと宣告されました。
 更に、サムエル記第一15章では、サウルにアマレクを聖絶せよとの主の命が下ります。サウルは主に聞き従っているつもりでしたが、実際は良いものを惜しんで、値打のないものだけを聖絶しました。
 サムエルに罪を指摘され、サウルは罪を認めました。しかし、サウルは「どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」と願います。彼は神以上に人を恐れたのです。
 ダビデもまた、在位中に罪を犯しました。人妻を召し入れて姦淫(かんいん)を犯し、夫を激戦区に送り戦死させてしまったのです。預言者ナタンがそのことを明らかにするとダビデは即座に、「私は主に対して罪を犯した」と悔い改めました。面目を求めたサウルとは大違いです。こうして神を恐れた人、人を恐れた人、二人は色分けされてしまいます。
 人を恐れるとわなにかかります。それ故、神を恐れることを学びましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月27日号(第991号)より転載—

2018年5月16日水曜日

 

 かれこれ30年になるでしょうか。教会のメンバーでチームを組み、ロサンゼルスのオンザウェイ教会のプレイヤーチャペルに祈りに行きました。
 ここは特別な場所です。ある時、四隅に天使が降り立ち、霧が立ち込めるようなご臨在が会堂いっぱいに満たされ、それを境に人が集まり始め、リバイバルが起こりました。
 そのご臨在に触れ、日本に持ち帰ろうと私たちは四隅に立っては祈り、立ち去りがたい恵みと祝福を受けて帰ってきました。
 臨在のある所にはリバイバルが起こります。これは私たちの確信で、特に賛美にその力があります。
 詩篇22篇3節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と書かれていますがその通り、神は賛美の中にいてくださり、ご臨在を現してくださいます。
 このことの良い例はパウロとシラスです。彼らは、キリスト・イエスのしもべであり、ローマにおける福音宣教に従事していました。しかし2人は、敵対者に捕らえられ、重罪人を入れる奥の牢(ろう)に足かせを付けられていました。
 しかし、霊はつながれておらず、真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていました。(使徒の働き1625節)
 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました(26節)
 イスラエルの賛美の中に住まわれる方が、やって来られたのです。そのご臨在が鎖を解き放ち大地震を呼んだのです。奇跡が起こりました。
 これが賛美の力であり、ご臨在の勝利です。たとえどこにいようと賛美をささげるなら、そこに主はおられ、ご臨在のうちにあらゆる慰め励ましを無制限に注いでくださいます。(イスラエル北野)


み声新聞2018年5月20日号(第990号)より転載—

2018年5月9日水曜日

青銅の蛇

ヨハネの福音書3章14節で、イエスさまは不思議なことばを語りました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(イエスさまのこと)もまた上げられなければなりません」というものです。これはどういう意味でしょうか。そもそもの出典は、民数記21章になります。
 出エジプトしたイスラエルは、荒野の道を行軍しましたが、その厳しい生活に我慢ができなくなって、神とモーセに逆らいました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物(マナのこと)に飽き飽きした」
 神はこの言葉をさばかれ、民の中に燃える蛇を送られたので、多くの人が蛇にかまれて死にました。
 民はモーセのところに来て悔い改め、神へのとりなしを求めたところ、主は、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と語られました。
 それでモーセは青銅の蛇を作り、旗ざおの上につけました。神ご自身が語られた通りに、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きました。青銅の蛇自体に力があるというのではありません。神の約束を信じて仰ぎ見た信仰だけが死を免れることができたのです。
 これは、来るべきイエスさまの、十字架のひな型です。誰でも、どんな罪を犯していても、悔い改めてイエスの十字架を信じるなら、赦(ゆる)され、いのちが与えられます。
 モーセが荒野で蛇を上げ、そこに救いがあったと同じように、イエスさまはご自分が全人類の罪を担い、十字架で死に、3日目に復活し、私たちの贖(あがな)いを完成させられたお方です。
 今こそ時です。イエスを信じ、救いにあずかろうではありませんか。 
(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月13日号(第989号)より転載—

2018年5月2日水曜日


子育て

 かつて、父が「親と言う商売があるなら辞めてしまいたいですわ」とよくこぼしていました。親というのが(簡単に辞めることができる一種の)仕事であるなら(自分は)さっさと廃業してしまいたいものだ、という意味です。時が流れ、自分がかつての父と同じ年齢となって、父が言わんとしたことが分かるようになりました。子育ては、大変な仕事です。
 子育てが取り上げられるのは、多くは初めての子育てで、しかも子どもが小さい時の事に集中します。しかし、いくつになってもその時その時に乗り越えるべき課題があって、子育てはもう、一生の仕事だと思います。
 子どもがはたちになると成人とされるわけですが、就職、結婚、出産など、人生の重大事がめじろ押しで、子どもの自立を見届けてやらねばなりません。ちょうど、自転車の荷台をつかんで支えつつ、そっと手を放しても乗りこなせるまで、子を育て上げるのが親の仕事です。しかし、どうやってそれをなすことができるでしょう。
 あるご婦人がいます。彼女は聖会のたびごとに、2人のお子さんのご病気のいやしを求めて祈りの列に並ばれます。息子さんはご病気がありながら仕事に行かれていますが、今日も行くことができますようにと、彼女は朝ごとに祈っています。何年になるでしょうか。忍耐強くこつこつと祈りが積み上げられていて、彼女の祈りは聞かれています。息子さんを支えているのは、間違いなく彼女の「祈り」であると私は思います。
 子どもを育てることは、前述の父ばかりではなく、誰にとっても忍耐がいるものです。これがいいと思っても強要することはできません。ですから祈りなのです。子育ては祈りです。隠れた場所で祈られたその祈りは確かな実を結ばせます。(イスラエル北野)

み声新聞2018年5月6日号(第988号)より転載—