2014年12月27日土曜日

クリスマスの贈り物
 街にはイルミネーションが輝き、間もなくクリスマスです。幼い頃、靴下に手
紙を入れてサンタさんが来るのを待ちわびていたものです。プレゼント もさる
ことながら何よりサンタさんに会いたいという一心で、夜更かしをしましたがい
つも待てずに寝てしまい、子ども心にも残念でした。
 クリスマスにはプレゼント交換がありました。選ぶ楽しみがあり、もらう楽し
みがあり、学校も冬休みになるし、1年で一番楽しい日でした。私たち は互い
に贈り物をやり取りしますが、神さまが与えてくださる贈り物があります。み子
イエスさまです。
 ヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど
に、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びるこ となく、
永遠のいのちを持つためである」と書いてあります。
 神さまのひとり子とは、イエスさまのことです。神さまはありのままの私たち
(世)を愛してくださり、罪や死に定められている私たちを、御子イエ スキリ
ストによって救おうとなさったのです。そして事実約2000年前、確かに主イ
エスはこの世にお生まれになったのです。
 イエスさまは、30歳から公生涯に入られ、病をいやし、悪霊を追い出し、サタ
ンの縛りから人々を解放しました。そして、私たちを罪や死から救う ために、
最後には十字架で死なれました。
 このイエスさまこそ私たちに対する、神さまの最大級の贈り物なのです。イエ
スさまが十字架で死なれたのは私の罪を贖うためだったと信じるなら、 今こ
の時にもあなたは救われます。そして、それこそが神さまがあなたに与えよう
とされる贈り物だと知ってください。 (イスラエル北野)


み声新聞2014年12月28日号(第812号)より転載—

2014年12月18日木曜日

時がある
 聖書に、ヨセフという人物が出てきます。ヨセフはヤコブの年寄り子で、12
いる息子たちの中で、最も父に愛されていました。
 17歳の時、ヨセフは夢を見ました。一つは、11の束が自分の束に向かってお辞
儀をするという夢で、もう一つは、太陽と月、11の星が自分を伏 し拝んでいる
夢です。自分は将来父や母、兄弟から拝まれるような人物になるというのです。
これを聞いて彼はさらにねたみを買い、奴隷に売られてし まいました。
 それでも、彼は神さまに祝福され、主人からの厚い信任を得ます。ところが、
主人の奥さんを辱めたというぬれぎぬを着せられ、今度はろうに投げ込 まれた
のです。夢とは真逆を行く展開です。詩篇105篇には「彼のことばがその通り
になる時まで、主のことばは彼をためした」と書かれています。
 しかし、ついにヨセフに神の時が到来しました。獄舎の中で囚人の夢の解き明
かしをしたことによって、エジプト王パロの夢の解き明かしをなし、ヨ セフは
パロに継ぐ大臣となりました。30歳でした。
 伝道者の書に「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには
時がある」とも「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とも 書かれ
ています。ヨセフは、夢が成就する時まで、ためしの中でさまざまな訓練、整え
を受けていたのです。どの時をとってみても、無駄な時はありま せんでした。
そして、時満ちて神さまは最善の時に約束のことばを成就されました。
 時を待つ間、私たちはためされます。しかし、それは、約束の成就に向けた準
備の期間です。神の約束は時が来れば必ずその通りに成就します。信仰 と忍耐
を働かせ、神の時を待ちましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年12月21日号(第811号)より転載—

2014年12月13日土曜日

希望があります
 「教会」は、キリスト教の奥義です。エペソ人への手紙1章23節にはこう書か
れています。「教会はキリストの体であり、いっさいのものをいっさ いのもの
によって満たす方の満ちておられるところです」
 霊的なものにおいても、実際的なものにおいても、キリストの恵みが教会には
満ちています。だから教会には、世にはない希望があります。
 アメリカ・サンディエゴ教会のお嬢さんにEちゃんがいます。彼女は自閉症な
どの病にあり、じっとしていられず、野獣Eと呼ばれていました。
 しかし、教会に繋がることによって神さまは「賛美の賜物があります。賛美さ
せなさい」と語ってこられました。そして、そこからいやしが始まりま した。
年を重ねるほどうまくなり、平行して解放が進み、今や立派なゴスペルシンガー
です。
 さらに教会では、治らない病がいやされるというみわざがあちこちで起こって
います。いやしだけではなく、その弱いところに突出した才を注ぎ、栄 光を現
してくださっています。神のいやしは、多くの方の希望となっています。
 このように世が与えることのできないものが教会にはあります。先ほどのいや
しの証し(体験談)はまだほんの小さな一例です。これからも神さま は、不可
能を可能にする全能のみ手を大きく動かしてくださいます。
 あなたが持っている問題も神さまは解決してくださいます。教会には希望があ
るのです。こういう訳で私たちは教会に繋がりましょう。神さまはあな たの涙
も祈りも、すべてご存じです。すべては必ず逆転します。信じる力を頂いて教会
に繋がり、神さまの奇跡の祝福を受けていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年12月14日号(第810号)より転載—

2014年12月3日水曜日

脱出の道
 先日、北海道聖会が行われました。今回は各教会でイスラエル宣教チームのダ
イジェストムービーを視聴することになったので、娘のパソコンを借 り、動画
をダウンロードして準備しました。そして、ついでに使わなくなったファイルを
掃除してくれるよう娘に頼み、安心して出掛けました。
ところが、聖会会場到着直前になって、ある思いが来たのです。娘が今回使う動
画を間違えていっしょに捨ててしまったのではないかという思いです。
あり得る、と私たちは思い、早速確かめてみるとその通りパソコンの中は空っぽ
でした。一瞬目の前が真っ暗になりました。全聖会でムービーを見るので、これ
はあってはならない失敗です。
私たちは、このことが許されたことをまず主に感謝しました。そして、再びダウ
ンロードを始めました。ところが会場の電波状態が悪く、自宅なら5分で終了す
るはずが、残り30分の表示から、うんともすんとも動かず、もう駄目かと諦めか
けていました。
するとその時、突然夫がパソコンを抱えて走り始めました。電波状態が良い1階
に行き、そこでダウンロードし、さらに部屋に戻り作業を続けたところ、視聴す
る4分前にはすべての手続きが完了しました。あたかも何もなかったかのよう
に、ことは進んだのです。
コリント人への手紙第一1013節には「神は真実な方ですから、あなたがたを、
耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられ る
ように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と書かれています。問題
があったとしても諦めるのは、早いです。主に信頼することを学んで いきま
しょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年12月7日号(第809号)より転載—

2014年11月29日土曜日

赦 し
 代々、教会で継承されている「主の祈り」の中に、「われらに罪を犯す者をわ
れらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という一節がありま す。赦し
を語る一節で、私たちが赦されるには、私たちがまず自分に罪をおかしてきた人
の罪を赦すことが必要だというのです。ルカによる福音書には 「赦しなさい。
そうすれば、自分も赦されます」(6章37節)と書かれています。
 これは、神さまの原則なのです。私たちは赦すことによって、赦されます。赦
されるためには自分もまた赦すことが必要なのです。マタイの福音書 18章で
は、王さまに返せないほどの借金があるしもべがいました。主人は哀れに思って
免除してくれました。にもかかわらず彼は自分にわずかな借金 がある兄弟を赦
しませんでした。それを聞いた主人は怒り、彼を獄吏に引き渡しました。「あな
たがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわ たしの父も、あなたが
たに、このようになさるのです」そうイエスさまは語られました。
 イエス・キリストを信じた者は、一切の罪の赦しを受けています。その大きさ
に比べれば人と人とに生じる罪の赦しは小さいものなのです。イエスさ まに赦
していただいたのだから私たちもまた私たちに負い目のあるものを赦さなければ
なりません。神はこのように振る舞うことを喜ばれるのです。
 罪をお赦しになる権限をお持ちになっているのは父なる神さまだけです。そし
てそれは、イエスさまの十字架と言う、尊い犠牲によって成りました。 確かに
赦せないことなどがあるでしょう。しかし、聖霊さまの助けを頂き、赦しましょ
う。互いに赦し合うこと、これは祝福を受ける土台であり、また 罪に打ち勝つ
力なのです。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年11月30日号(第808号)より転載—

2014年11月22日土曜日

イエスのいやし
 ヨハネの福音書5章に、38年もの間病気でいる人のことが書かれています。イ
エスさまは彼の病気がもう長い間のことなのを知って「よくなりたい か」と言
いました。病人は、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れ
てくれる人がいません」と、弁明のような答えをしました。素 直に「はい」と
は言えなかった、彼の心の屈折が読み取れます。
 長患いは、魂をむしばみます。一口に病と言っても治るものもあればそうでな
いものもあります。忍耐が求められ、長く患ううちに、いつの間にかい やされ
ることを諦めてしまうということは決して少なくはありません。
 娘が幼稚園に通っていた頃、障がいを持つ子のお母さんが何名かいました。教
会にお誘いしましたが、一様に断られました。これ以上失望したくな い、もし
いやされなかったらと考えると二の足を踏めない、そんな心理が働いたのではな
いかと私は思います。
 しかし信じることによって皆さんが失う物は何一つとしてないのです。神さま
は真実です。そしてイエスさまへの期待は決して失望に終わることがあ りませ
ん。たとえ、皆さんが望みえない病にあるとしても、イエスさまはあなたを、ま
たその人をいやすことがおできになるお方です。
 イザヤ書53節に、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という一文が
あります。このことば通りイエスさまは私たちのあらゆる罪、病を 担って十字
架で死んでくださいました。そして3日目によみがえり、救いの道を完成されま
した。
 人にはできなくても、神はどんなことでもできるのです。イエスさまを信じ、
イエスさまに期待してみませんか。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年11月23日号(第807号)より転載—

2014年11月15日土曜日

永遠という時代へ
 その日、東京は珍しい大雪でした。18歳の私は、福音を信じ喜びをかみしめな
がら雪道を歩いていました。天国のことはまだよくは分かっていませ んでした
が、イエスさまがあまりにも素晴らしいので、私はこれで十分、もうほかに望む
ものはありませんと主に申し上げました。そして洗礼がこの信 仰のゴールだと
思っていました。
 ところが、クリスチャンになって、神の恵みの広さ深さ大きさを知り、洗礼は
むしろ神の国の住民として生きる私たちにとっては、いわばスタートで あると
知るに至りました。
 イエスさまは、産まれながらの罪人である私たちを愛し憐れみ、十字架で死な
れることによって私たちを罪から贖ってくださいました。そして、私た ちが地
獄ではなく天国に行けるようしてくださったのです。
 ヘブル人の手紙9章には、「人間には、一度死ぬこと死後にさばきを受けるこ
とが定まっている」と明記されています。私たちの誰もが、死を迎える 定めに
あります。以前まではそれで終わりでした。しかし、キリストが現れた今、神は
信じる私たちに、御霊に属する復活の体を下さるのです。
 コリント人への手紙15章にはこう書かれています。「朽ちるものが朽ちないも
のを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』とし るされて
いるみことばが実現します」(54節)朽ちるものとは、血肉の体であり、不死と
は神が下さる御霊の体です。
 もはや死を恐れることはありません。私たちにとって地上のいのちはほんのわ
ずかな時間です。この中でよみがえりの体を頂いて、やがては私たちは 永遠
という時間を神とともに生きるようになります。この希望と信仰をあなたもお
受けください。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年11月16日号(第806号)より転載—

2014年11月5日水曜日

 
 先日、ショッピング・モールで、行きつけの美容師さんと鉢合わせました。何でも病気になって、入院しなくてはならなくなったから、お店をお休みするそうで、私にどうやって伝えようか思案していたということでした。
 彼女は、美容師として独立し、自分の店を持ち、成功した人です。休日には北海道日本ハムファイターズの応援に行くことを楽しみにし、公私ともに充実した日々が彼女とともにありました。
 聖書には、こんな言葉があります。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」(マルコの福音書8章36節)
 また、詩篇49篇ではこう語られています。「恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、 何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下ってはいかないのだ。(中略)人はその栄華の中にあっても、悟りがなけ れば、滅びうせる獣に等しい」
 悟りとはなんでしょう。それは、私たちは明日のことは分からない、死ぬときに何一つ持っていくことができない、という現実を知ることです。
 神さまは、私たちが神さまを知り、信じ、そして救われるように御子イエス・キリストを下さいました。
 イエスさまは、十字架で死なれ、また復活をとげ、私たちを贖ってくださいました。
 イエスさまを信じ、従いましょう。私たちには明日のことは分かりませんが、神さまはすべてご存じです。そして神さまは私たちの人生を祝福し、守ってくださるのです。このイエスさまを信じ、従う人生こそ、悟りのある人生なのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年11月9日号(第805号)より転載—

2014年11月1日土曜日

イエスさま
これはあくまでも、私の夢の中のことです。ボロをまとった私は道をさまよい歩
いていました。前方の左にはアクセサリー屋さんがあり、ワゴンの中に はきれ
いな髪飾りがたくさんありました。いいな、と思ったのですが自分を見て気後れ
していると、サタンのような店主が出てきて私をなじりました。 「ここはおま
えのような者が来る所ではないだろう。行ってしまえ」
 打ちのめされて通り過ぎようとしたところ、いつの間にかもう一人の方がおら
れて、私を呼んでくださいました。その方はボサボサになった私の髪を 束ね
て、ワゴンの中のそれも一番良いものを取って、私の髪にプチンと留めてくださ
いました。
 私はもう、うれしいやら恥ずかしいやらで心がいっぱいで大きな感動がありま
した。それをどう表現すればいいか分からなくて思わず私は髪からそれ をむし
り取り、その人に言いました。「だ、代金ならあります。し、支払います」そう
いってお金を探すうちに、その人はどこかへ行ってしまわれまし た。
 その後、私はその人がイエスさまだと知ったのです。財布が見つからず「買
う」ことができなかったのは、神さまの恵みはお金で買えるようなもので はな
いこと、神さまの愛ははただ一方的に受けるものであると知ったからです。
 イエスさまは、私たちを愛して十字架で私たちのすべての罪を担い、その死に
よって贖いを成し遂げ、三日目に復活を果たされました。イエスさまは 全人類
の救い主です。計り知れないほど深く大きな愛が私たちに注がれています。私た
ちはただ信じれば良いのです。イエスさまを救い主として信じる 時、あなた
に神さまの愛が注がれ、あなたの人生は神さまの下さる祝福で輝きはじめま
す。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年11月2日号(第804号)より転載—

2014年10月25日土曜日

非常な喜び
 先ごろ、出版されたマーリン・キャロザース氏の本の表紙に、マーリンさんの
お姿があります。あふれるばかりの喜びの姿に、人はここまで喜びに満 たされ
るのかと感動しました。
 マタイの福音書6章22節には「からだのあかりは目です。それで、もしあなた
の目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あ なたの全
身が暗いでしょう」と書かれています。その通り、マーリンさんの目は喜びをた
たえた力強く輝く目でした。そしてその明るさはお顔ばかりで はなく全身を照
らしていました。世界広しといってもあんなにも輝いている人を、私は見たこと
がありません。
 先日、今まで読み過ごしていた聖書の言葉にふと目がいきました。「非常な喜
び」という言葉です。ルカの福音書の24章では、復活の体になったイ エスさま
が弟子たちの中に立たれ、またベタニヤに連れていき、手を上げて祝福しながら
彼らから離れていかれたという記述があります。そしてそのこ とによって弟子
たちは「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえ
ていた」(52節)と書いてあるのです。
 「非常な喜び」とはどんなものでしょう。ちょっとやそっとの喜びではないで
しょう。しかしマーリンさんは、この喜びを持っていました。
 私たちもまた、この「非常な喜び」を受けることができます。
 そのためには、まずイエスさまを信じ、救いを受けましょう。そして神さまに
従いましょう。イエスさまの下さる「非常な喜び」は、世に打ち勝った 勝利で
す。サタンは喜びを奪いに来ますが、闇が光に打ち勝てないようにサタンも「非
常な喜び」の前には敗退するほかないのです。(イスラエル北 野)

み声新聞2014年10月26日号(第803号)より転載—

2014年10月17日金曜日

祈りは聞かれます
 夕刻を過ぎると「ただ今」と娘が帰ってきます。「お祈りありがとう。助かっ
た」というのがいつもの第2声です。仕事の内容がら、彼女は今「祈る しかな
い」という現状にいます。
 不思議なことに、そういうときには私にも祈りの促しがやってきて、同時刻に
助けを見たということがありました。
 祈りは現実の壁を打ち破る力があります。また神さまは、どんな祈りであって
も聞いてくださっています。そして、必ず答えを下さいます。確かに、 信仰を
持たなければなりませんが、祈りが失望に終わることはありません。
 さらに、祈りはどんな祈りでも聞かれます。
今は天にいる、私の父の楽しみの
一つに、競艇がありました。私と妹は、それを止めるよう熱心に祈って いまし
た。するとある日、父がいきなりやって来て「わしのことをもうイエスさんに祈
るな」と激怒したのです。
 何でも、このコーナーを曲がれば1着!というところで突然ボートが転覆した
り、あり得ないことが次々と起こるのです。それも、10度や20度で はありませ
ん。さては、あいつらか…、というわけで おしかりを受けました。 私たちはし
おらしくしていましたが、心の中では勝ち歌が流れていました。神さまによる祈
りの答えを見たからです。
 祈りは聞かれます。それゆえ、サタンは祈りを妨げます。まず、祈る意欲を奪
い、そして、祈っても祈らなくても同じだろう、という不信仰をまん延 させて
いきます。神さまは、不信仰を嘆かれます。私たちは、信仰の眠りから立ち上が
りましょう。「信じない者にならないで、信じる者になり」(ヨ ハネの福音書
20
27節)、祈りによる、大いなる主の奇跡をみていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年10月19日号(第802号)より転載—

2014年10月11日土曜日

身代わりの愛
 愛には多くの形がありますが、「代わってやりたい」という思いもその一つで
しょう。私ごとになりますが、以前大病をしたとき、父が見舞客に、 「代われ
るものなら、代わってやりたい」と語っているのを耳にしました。父とはよくぶ
つかりましたが、その言葉を聞いて親の愛はありがたいもの だ、と思いました。
 天の父なる神さまも同様で、罪人でやがては死に行く私たちを愛し憐れんでく
ださいました。代われるものなら、代わってやりたい、と思われたので しょう
か、救いの道を造られました。十字架による贖いを完成されたのです。ヨハネの
福音書には次のように書かれています。「神は、実に、そのひと り子をお与え
になったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる
ことなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16 節)
 ひとり子とは、イエスさまのことであり、世とは私たちのことです。イエスさ
まを下さり、購いの代価とするほど、父なる神は、私たちを、世を愛さ れまし
た。イエスさまは、私たちの罪を負い贖うために、十字架で死んでくださったの
です。私たちが救われるために、神はいかに大きな犠牲を払って くださったこ
とでしょう。
 私たちは生まれながらの罪人であって、自分で自分を救うことができません。
しかし、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるのなら、誰であれそ の人は
救われ、永遠のいのちを受けます。
 イエスさまの十字架の福音を信じなければ、私たちは罪の中で死ぬばかりで
す。宗教多しといえど救いは他にありません。天では既にあなたのために 席
が用意されています。イエス・キリストをあなたの主、救い主として心にお迎
えください。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年10月12日号(第801号)より転載—

2014年10月4日土曜日

彼女の人生
 人生というものは、いかようにも生きられるものだと、感動を持ってそう思い
ます。ひとつの出来事を幸とするも不幸とするも私たち次第です。そし て、神
は祝福の道に行けるよう私たちを助けてくださいます。
 今はもう天に帰られましたが、田原米子さんという方がおられます。この方
は、高校生の頃、電車に飛び込み自殺を図りました。両足と左手を失い、 右手
に3本の指を残し一命を取り留めました。
 そういった場合、どうやってお慰めすればよいか言葉につまるのですが、神さ
まのご愛が既に働いていました。初めて読んだ聖書が彼女の心に触れた ので
す。そこには「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者
です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 と書かれて
いました。
 キリストを信じ、新しく造られた米子さんは、「私は指が3本しかないと思っ
て嘆きました。でも今の私は指が3本もあると思うとうれしいのです」 と語
り、「こういう体になったおかげで前には見えなかったもの、考えなかったこ
と、また私の中で良かったと思うことがあまりにもおおいのです」と 述懐され
ました。
 「3本しかない」から「3本もある」と変わったのは一種のパラダイム転換で
す。無い物にではなく、ある物に目が向き始めました。簡単なようです がこの
転換は、大きいのです。米子さんはイエスさまを信じて圧倒的な勝利者になりま
した。だれよりも強く米子さんは喜びに輝いています。あなたも また、彼女の
ように喜びの人となることができます。イエスさまを心にお迎えください。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年10月5日号(第800号)より転載—

2014年9月27日土曜日

仏壇
 祖父の家に祖母の仏壇がありました。毎日お水を上げ、ご飯を上げ、チーンと
鳴らしては手を合わせます。しかし、ぎらつく仏壇や位牌は子ども心に も強く
死を意識させ仏間には怖くて近寄れませんでした。
 とはいうものの、仏壇を必要とする人間の心理は分からないわけではありませ
ん。私の伯母の所にも小さな仏壇がありました。乳母の家にも小さな仏 壇があ
りました。この二つの仏壇はそれぞれ子どもの供養のために設けられたもので
す。伯母は、子を7カ月で早産し、保育器で育てていたのですが停 電になり、
その子は死んでしまいました。また、乳母の赤ちゃんは、肺炎のため、生後わず
か3日で亡くなりました。殺してしもうた…、と今でも自分 を責めるおじさんの
言葉が私の耳に残っています。その深い悲しみは当人でないと決して分からない
でしょう。その子が生きた証しを求めたい一心で、 仏壇購入に至ったのならと
ても責める気にはなれません。
 しかし、ここには問題があります。ある人が言いましたが「先祖は敬う対象で
はあるが、拝む対象ではない」のです。仏壇がなぜいけないかそれは 「拝む」
からです。神の十戒にも、偶像を造ってはならない、それを拝んではならないと
書かれています。拝むべきお方は、神おひとりしかありませ ん。
 亡くなられた方のことは、真実、公平な神さまにお委ねください。そしてあな
たはその方を亡くしたことに対して、神さまからの慰めをお受けくださ い。先
祖を大切に思う気持ちは大事ですが、仏壇に先祖はおりません。拝んではいけま
せん。私たちを守り、祝福できる、唯一のお方である神さまだけ を拝み、この
主の救いを受けてください。       (イスラエル北野)

み声新聞2014年9月28日号(第799号)より転載—

2014年9月20日土曜日

同性愛
先日ニュースで、女子テニスの往年の名選手、マルチナ・サブラチロアさんが、
ガールフレンドのJさんに求婚したことが報じられました。
 驚きました。これは同性婚ではありませんか。近年、同性愛(婚)は、今まで
にない勢いで、社会に認知されるようになってきています。
 結婚は本来1人の男と1人の女、その両性の合意をもってなされるものです
が、同性婚は、男と男、女と女の間にも、同様な結婚を認めようとしてい ます。
 同性愛に関しては、聖書は罪に定めています。ローマ人への手紙1章に次のよ
うな一文があるのです。「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されまし た。すな
わち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然の用を
捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うよ うになり、こう
してその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(2627節)
これは、同性愛について語っているのです。
 さらに憂うことは、ここまで聖書がはっきり書いているにもかかわらず、神の
教会の中でも同性愛(婚)を認める教会が増えていることです。彼らの 土台と
するところは、もはやキリストとその言葉ではなく、人道主義・ヒューマニズム
と言えます。同性愛を認めないのは差別にあたる、と門戸を開き ましたが、神
の真逆を行くものです。
 人道主義ではなく聖書主義、これこそが神が推奨される生き方です。人は神を
恐れて生きて行くことが必要です。人を中心とした教えと、神を中心と した
教えは混同されますが180度違います。私たちのために命まで投げ出してく
ださったキリストこそ唯一の救いであり、真理です。 (イスラエル 北野)

み声新聞2014年9月21日号(第798号)より転載—

2014年9月13日土曜日

殉教
 中国のリバイバルまた迫害時代に用いられたママ・クワングさんは、殉教に対
して第二テモテ2章をその根拠として挙げました。
 そこには「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるように
なる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼 を否ん
だなら、彼もまた私たちを否まれる」(1112節)と書かれています。
 彼とはイエスさまのことです。誰でもキリストを否んだら、キリストもまたそ
の人を否まれるというのです。それゆえママ・クワングさんは、このみ ことば
から、たとい死ぬようなことがあってもでも主を否んではならない、と教えまし
た。聖徒たちはこのことばを守りました。多くの殉教者が出まし たが、そこか
らリバイバルが起こりました。
 歴史の中で、クリスチャンの信仰に恐れを抱いた政治指導者たちは少なくあり
ません。彼らクリスチャンたちは、死をも恐れずにその信仰を全うした からで
す。彼らは死に至るまで忠実でした。命を選ばず、殉教の死を選んだ彼らは、も
はや世にあっても世の人ではなかったのです。自分たちにではな く、神にのみ
服従する彼らに、世の指導者たちは脅威を抱きました。こういうわけで、私たち
は世に憎まれ迫害されます。またそう定められているので す。
 ヘブル人への手紙には「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見 て喜び
迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と書かれて
います。(1113節)天国にあずかる希望は何にもましてす ぐれています。
救いはイエス・キリスト以外にありません。イエスさまを信じましょう。 (イ
スラエル北野)

み声新聞2014年9月14日号(第797号)より転載—

2014年9月6日土曜日

強さと弱さ
 私は元来、強気で活発な人間でした。ところがイエス・キリストを信じ、献身
してから、ひと月ばかりのうちに試練が訪れました。病気で入院したの です。
東京の教会を後にして郷里の徳島に帰り、大学病院に入院しました。礼拝にもあ
ずかれず、送られてくるカセットテープを唯一の霊の糧としてし がみつくよう
に聞いていました。
 入院したことによって、私はもう、自分が強いだとはとても言えなくなりまし
た。歯を磨くのにもトイレにも介助が必要でした。心はもういっぱい いっぱい
で、これ以上一つでも何かが加わるなら、心のダムが決壊するところでした。
 おまえは弱い。おまえの友人のようにどうして強くなれないんだ、と父に言わ
れ、以来、弱さは私の苦味となり、父のいう、強くて成功している友人 たちと
は距離をあけるようになりました。
 なぜこんなことが起きるのですか、という問いかけに神さまは、コリント人へ
の手紙第二12章を示してくださいました。「その啓示があまりにもす ばらしい
からです。そのために私は、高ぶることのないように、私を打つための、サタン
の使いです」(7節)また「わたしの恵みは、あなたに十分で ある。というの
は、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(9節)と書いてあ
りました。
 強さ弱さに関しては、もし、私が友人のように強かったなら、決してイエスさ
まの元に来なかったと思います。弱かったからこそ、イエスさまを知り まし
た。私は弱いですがイエスさまが私の強さとなってくださるのです。弱くされる
ことは恵みです。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大い に喜んで
私の弱さを誇りましょう」
 (イスラエル北野)

み声新聞2014年9月7日号(第796号)より転載—

2014年8月29日金曜日

永遠への招待
 まだ、イエスさまも父なる神さまも知らなかった頃、私は自分を憎み、自殺を
考えたことがあります。しかし、ある時から止めました。
 というのは、たとえ今の私が死んだとしても、私は消えるわけでなく、死んだ
先でも私は私として続いているような気がして、自分はどうやっても 「無」に
はならないんじゃないか、こんな考えを持つようになったからです。
 聖書に照らし合わせて見ても、これはある程度当たっています。私たちは死ん
でも、失われるのは肉の体だけで、霊、魂は無くなることはありませ ん。私た
ちは神の前に存在し続けるのです。
 ある時、私は夢で黄泉らしき所にいたことがあります。それが本物かどうかは
分かりませんが、黄泉は全体が薄暗い所で、力の無い所でした。そこに すむ人
々は、死者ですが、弱々しくて命が感じられません。生の躍動がなく、望みも喜
びも無い所でした。イエスの福音を信じない死者は、最後の大審 判の時までそ
こに置かれます。
 しかし、クリスチャンは死ぬとたちまちにしてパラダイスに移されます。天国
です。そこには命が満ち、力があり喜びがあり、いのちの川から心ゆく まで生
ける水を飲むことができます。そして、神さまは、御霊の体と言われている朽ち
ぬ新たな体をくださいます。こうして私たちは神さまとともに永 遠という時間
を共にするのです。
 コリント人への手紙第二15章では「死は勝利にのまれた」と書かれています。
イエスさまが死からよみがえられ勝利を得たので、イエスにつく私た ちは新し
い御霊の体を受け、復活を果たします。こういうわけで、もはや死を恐れること
はありません。イエス・キリストを信じ、御国にあずかる者と なりましょう。
  (イスラエル北野)

み声新聞2014年8月31日号(第795号)より転載—

2014年8月20日水曜日

間に合っています
イエスさまの宣教の道中、一人の青年が御前にひざまずいて尋ねました。「尊い先生。永遠のいのちを受けるには何をしたらよいでしょうか」
 イエスさまは、「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。(中略)欺き取ってはならない。父や母を敬え』」(マルコの福音書10章参照)とおっしゃいました。
 するとその人は「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と言いました。
 イエスさまは彼を見つめ、いつくしんで言われました。「あなたには、欠けたところが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」
 すると彼は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。彼は多くの財産を持っていたからです。イエスさまは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と語られました。
 裕福といえば、私の母のまわりにも裕福な人がたくさんいます。長年、母を見ているので彼らはイエス・キリストの福音を真理だと知っています。ただ、持ち物をささげ献身している母を見ると、自分も同じようにのめりこみそうで怖いのだ、と言いました。
 一言で言うと、「間に合っています」これが彼らの偽らざるところのようです。イエスさまが入ろうとしてもその心は既に世の楽しみでいっぱいで、あえて神さまを求める余地はありません。これは幸いなことなのか不幸なのか、あなたならどう読みますか。永遠のいのちに至らせる神の恵みに心を開きましょう。     (イスラエル北野)

み声新聞2014年8月24日号(第794号)より転載—

2014年8月16日土曜日

栄光の現れ
 ヨハネの福音書11章4節には次のようなことばがあります。「この病気は死で
終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそ れによっ
て栄光を受けるためです」
 30年も昔のことになりますが、父がゴルフ場で吐血し、食道静脈瘤破裂で死線
をさまよいました。妹と私は、韓国に断食祈祷に行きました。「父は いやされ
る」という確信を受け日本に帰ってきたのは手術の3日前でした。必ず治ってい
るからイエスさまを信じて、と私たちは哀願しました。父は身 代わりの十字架
を信じ、手術に向かいました。
 手術中、父は、白い鶴のような、雲に乗って、自分の体を見おろしていたそう
です。また天国に行き天国の通信システムを見せられ、「祈りはこの ルートで
届くようになっており、緊急の際にはこちらのルートで届きます、質問はありま
すか」とイエスさまに聞かれ、それはそれは見事な、世では見 たことのない通
信システムだったと述懐しました。酒井さん、という声でわれにかえり、口から
体に入ったといいます。
 その後、集中治療室(ICU)で痛みを訴える父の様子が、私たちには赤子の
産声のように聞こえました。肝硬変だということでしたが、「まだ柔ら かい、
大丈夫だ」とドクターに言われた時、私たちは主に感謝しました。いやされてい
たのです。この手術をしてもほとんど5年以内には亡くなるそう ですが、父は
十数年のよわいを頂き、神さまはおことば通りご栄光を現してくださいました。
 神さまにおできにならないことは一つもありません。今も、神さまは現実に生
きておられます。あなたもイエスさまを信じ、神さまの奇跡を信じま しょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2014年8月17日号(第793号)より転載—

2014年8月6日水曜日

低い心
 ルカの福音書18章にあるお話です。
 ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは
収税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。 「神
よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことに
この収税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食 し、自分の
受けるものはみな、その十分の一をささげております」
 なかなか立派なものです。このような人こそ神さまに認められるものだ、と私
たちは思います。しかし、イエスさまはパリサイ人を退け、収税人をお 心にか
なうものとされました。
 収税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、一言こう祈りまし
た。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」イエスさまは「こ の人
が、義と認められて家に帰りました、パリサイ人ではありません。誰でも自分を
高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるからで す」そう、語
られました。
 パリサイ人も、主に対して熱心ではありましたが、それは自分を人よりも正し
いとするためでした。人の前で自分を正しいとする者は、神さまから退 けられ
ます。神さまの前では、人は皆罪人だからです。ですから、神さまは、自分を罪
人と認め、憐れみを請う低い心を持つ者を正しいとされました。
 神さまが正しいとするのは、へりくだった低い心です。それ故「へりくだる者
に恵みをお授けになる」(ヤコブ4章6節)と書かれています。
 水は必ず低いところに向かって流れて行きます。それは決して上へと流れるこ
とはありません。同様に神さまの祝福もまた、低い心のうちに届くので す。
  (イスラエル北野)

み声新聞2014年8月10日号(第792号)より転載—

2014年7月28日月曜日

ひしがれた心
 先日、しばらくお会いしていなかった知人に出会いました。ご病気だとは聞い
ていましたが、あまりの変わりように胸が痛みました。
 聖書にヨブ記という箇所があります。ヨブの病を見た友人は、ヨブはよほど大
きな罪を犯したのだろうと考えました。確かに病は罪によって起こるも の、サ
タンが介在するものがあります。しかし、病気になるのは必ずしもその人が罪を
犯したからではありません。にもかかわらず、そういう見方がさ れてしまうこ
とは悔しい限りです。
 ヨハネの福音書9章では、生まれつきの盲人を見て、お弟子たちが「先生。彼
が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人です か。そ
の両親ですか」と問いました。今でこそ、そのような考えは差別だとして糾弾さ
れますが、当時はそれが一般的な考え方だったのです。
 しかし、イエスさまはこう語られました。「この人が罪を犯したのでもなく、
両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(2、3 節)神の
み思いはなんと深いのでしょう。
 箴言に、「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろ
うか」とあります。病気の苦難はまだ忍べます。しかし病気をとりまく 偏見や
無理解は病気以上につらいのです。
 覚えてください。ただイエスさまこの方だけが、あなたの救いであり、癒やす
ことのできるお方です。イザヤ書53章には、イエスさまについて「悲 しみの人
で病を知っていた」と書かれています。イエスさまは病人の友となってください
ます。病苦もさる事ながらそれ以上に苦しい、あなたのひしが れた心に寄り
添ってくださるのです。イエスさまを心にお迎えしましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2014年8月3日号(第791号)より転載—

2014年7月24日木曜日

偶像礼拝
 中学2年の夏、ある宗教の夏のキャンプに母の代理で行きました。当時の私の
宗教観は「いわしの頭も信心から」というものでしたので、これも何か の縁
だ、悩みもあることだし、信心してみようかという気になりました。
 こうして私はそこに行き、偶像礼拝を体験しました。それはイザヤ書44節に書
かれている通りです。人間の美しい姿に仕上げて安置してある偶像に 向かっ
て、足を向けてはいけません。靴下も脱ぎなさい、寝る時も足を偶像に向けずに
布団に入るよう求められました。またお経は、一つの物語のよう なものでした
が、文学的にはちぐはぐで趣旨が伝わってきません。それを言うと、お経自体が
ありがたいものなのです、理解しようなんてとんでもあり ません。というので
す。たすきを掛け、題目を唱えながら行進しました。私は、これが宗教か、と思
いました。
 後日私は、キリスト教徒になるのですが、しかしそれは、このとき経験した
「宗教」や「入信」とは全く次元の異なるものでした。それは出会いでし た。
救いの日に私は天地を造られた神さまに出会い、イエス・キリストの福音によっ
て救われたのです。
 宗教を例えるのによく登山が用いられます。宗教は異なっていても、たどりつ
く山の頂上は一つだというのです。しかし、これは違います。宗教の山 は一つ
ではなく、宗教の数だけあるのです。そしてその中で、キリスト教の山だけが天
の頂に届いており、私たちを天国に導きいれ、永遠のいのちを与 えることがで
きるのです。
 神さまは今も生きておられます。人を救うことができるのは、まことの神以外
にはありません。「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」(ヨハネの手 紙第一
5章21節) (イスラエル北野)

み声新聞2014年7月27日号(第790号)より転載—

2014年7月17日木曜日

ぶどうの木
 ヨハネの福音書15章でイエスさまはこう語られました。『わたしはまことのぶどうの木であり、私の父は農夫です。(中略)枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶとはできません。』(1、4節)
 ぶどうの木とはイエスさまです。そして枝とは、私たちのことです。枝は木につながれなければ生きていけません。枯れて捨てられます。しかし、そんな枝でも木につながれば木から養分を得、豊かな実を結びます。イエスさまは、教会のかしらです。ですから、木につながるとは、具体的には教会につながるということを意味しているのです。
 最近、心痛める二つのことがありました。2年ほど前に脱会を申し出てきた兄弟がいますが、その後どこの教会にもつながらずにいたところ、今は離婚を協議するという事態にあると聞きました。またもう1人の兄弟は、クリスチャンですが、あちこち教会をめぐり歩き定住しないことによって、今、重い病が許されています。
 私たちはよく、自分の信仰さえしっかりしているなら教会に行く必要はない、またどこに行こうが問題ない、ここにも神はいるのだから、このような意見を聞きます。しかし、それこそがサタンのわなです。その思いには決して従ってはなりません。私たちは枝です。キリストのみからだなる教会につながれてない人は、サタンの格好の餌食となります。
 こういうわけで、私たちは教会に相集い、主の牧会の中で養われましょう。まだイエスさまを救い主として信じていない方は、どうかこの信仰を持ち、あなたもまたイエスさまにつながりましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2014年7月20日(第789号)より転載―


  

2014年7月9日水曜日

目のはり
 聖書には、「さばいてはいけません。さばかれないためです」という勧めがあ
ります。実行するには困難を覚えますがこれは真理を語っています。私 たちは
人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。
 私もまた身に覚えがあります。ちょっとしたことなのですが、時間がたつにつ
れ、ふつふつと怒りが湧き起こり、そういえばあの時もこの時もそう だった。
なんてひどい人、とまんまとサタンに乗せられて、恨みつらみが心を支配するの
を許してしまいました。
 それに関して神さまはこのように語られました。「なぜあなたは、兄弟の目の
中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのです か。兄弟
に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うので
すか。見なさい。自分の目には梁があるではありません か」(マタイの福音書
7章3、4節)
 梁とは、家を支える横木の柱を言います。自分の目にこんな大きな物を持って
いながら、兄弟の小さな目のちりを指摘するのがいかに見当外れなもの かを、
イエスさまは説いておられるのです。
 私たちは皆、等しく罪人です。イエスさまお一人だけが罪の無いお方であり、
イエスさまは私たちの罪を赦すために十字架で死んでくださいました。 主が赦
してくださったのですから、私たちもまた、互いに赦し合うものでありましょ
う。そして主の助けを頂き、熱心に愛しあいましょう。
 私たちが互いに赦し合い愛し合うなら、多くの人が私たちを通して神の愛を見
いだし、神を知るようになります。互いに赦し合うことは神が喜ばれる いけ
にえです。その力も神は与えてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年7月13日号(第788号)より転載—

2014年7月5日土曜日

次女、恐るべし
 昔読んだリポートですが、クリスチャンは長男長女が多いようです。聖書で
は、初子はすべて私のものであると書かれていますので、その通り主が召 され
た者も長子が多いようです。
 とはいえ、長男長女ばかりが教会で幅をきかせているかというと、そうでもあ
りません。長子は他の子以上にわきまえが求められますからおおむねお となし
く極端なことはしません。それに反して教会はまるで私のためにあるとばかりの
甘え上手で大胆な人たちがいます。よく見ると彼らは往々にして 次男次女、
末っ子にクリスチャン2世です。
 彼らがすごいのは、何が起ころうと決して主の自分への愛を疑ったりしないこ
とです。生育環境の違いでしょうか、父や母、兄や姉から愛されて育っ てきて
いるので、教会の中でも自分の居場所があること、主に愛されていることをこ
れっぽっちも疑っていません。
 私にも、成人した2人の娘がいますが、次女は今でも、子どものように私に甘
えてくれます。彼女は叱られようが何しようが自分が愛されていること を知っ
ているのです。
 まさに次女、恐るべしです。聖書でもルカの福音書10章にマルタと妹のマリヤ
のことが書かれています。イエスさまが来られると聞いて、長女マル タはおも
てなしのために忙しく立ち振る舞いました。しかし、妹のマリヤは主のそばから
離れようとはせず、じっとイエスさまの言葉に耳を傾けていま した。これほど
姉と妹は違うのです。
 イエスさまは、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそ
こに、入ることはできません」と語られました。(1817節)子ど ものよう
に、です。神さまは無条件であなたを愛しておられます。(イスラエル北野)

み声新聞2014年7月6日号(第787号)より転載—

2014年6月24日火曜日

聖書の読み方
ある宣教師が語られました。ある日、礼拝奉仕に立たれましたが、思うようなご
奉仕ができなかったそうです。失望して家に帰り、主に祈ったところ、 神さま
はこう語られました。
 「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったか
ら、私はあなたにたくさんの物を任せよう」(マタイの福音書2521 節)
 驚いた、そうです。そして涙が止まらなかったそうです。まったく駄目だと
思っていたのに主はよくやったと褒めてくださったのです。忠実だ、とさ え
言ってくださいました。
 私もまた同じみことばで励まされました。これは、タラントを用いるという聖
書の箇所ですが、タラントを地に隠してしまった悪い怠け者のしもべは 自分の
ことではないかと、否定的に読んでしまいます。しかし、その日は違いました。
「よくやった。良い忠実なしもべだ」という文字が浮き上がって 見え、内側か
ら喜びがあふれました。
 神さまだけではなく、サタンも聖書の言葉を巧みに用います。私は、否定的な
思いの背後にサタンが介在していたことに気付きました。私たちは神の 声と、
そうでない声と聞き分けねばなりません。そして、このことに関して聖書は「聖
書は(中略)教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益で す」(第二テモテ
の手紙3章16節)と聖書を読むことを語っているのです。
 信仰の赤ちゃん時代は、聖書をつまみ食いしても恵みによって語られることも
あります。しかし、神の声を聞く耳の成長のためには、聖書通読の土台 を持つ
ことは大切です。分かっても分からなくても、しっかりと聖書を読みましょう。
そうすることによって神の声を聞く耳が出来上がってきます。
(イスラエル北野)

み声新聞2014年6月29日号(第786号)より転載—

2014年6月21日土曜日

奇跡の現れ
神さまの助けは、遅れ気味にやって来るようです。ダニエル書に、シャデラク、
メシャク、アベデ・ネゴというイスラエルから捕囚されて来た、3人の 者のこ
とが書かれています。彼らはネブカデネザル王が作った金の像を拝むことをしな
かったので、燃える炉の中に投げこまれることになりました。
 しかし、彼らはこう言いました。「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、
火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。(中略)しかし、 もしそ
うでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなた
が立てた金の像を拝むこともしません」
 これを聞いて王は怒りに満ち、7倍も熱くした炉に、彼らを縛ったまま投げ込
みました。ところが、王はとんでもないものを見たのです。「私にはな わを解
かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四
の者の姿は神の子のようだ」
 第四の者とは受肉前のイエスさまだと言われています。彼らの信仰どおり神さ
まは救ってくださいました。しかし、少し遅いのではないでしょうか。 炉に入
れられる前なら期待できます。ところが、彼らは、炉に入れられ、いわば死を味
わったのです。そしてそこから奇跡が、神の栄光が現されまし た。
 モーセもまた同様でした。神さまに従って出エジプトしたのにも関わらず、追
い詰められたところは紅海でした。この絶体絶命の時に奇跡の手が動き まし
た。紅海は左右に分かれ、民は海の底の道を通って無事脱出しました。
 私たちが待たされるのは、神さまの側でよりすぐれた別の計画があるからで
す。神は奇跡を起こされます。神に信頼することを学びましょう。
 (イスラエル北野)

み声新聞2014年6月22日号(第785号)より転載—

2014年6月13日金曜日

主の手のある所
 もし、あなたが人生に成功したいと願うなら、その秘訣をお分かちしましょ
う。それは、神のみ手のあるところに居るということです。成功は神さま が下
さるものです。ですから、神さまの計画に乗れば必ず成功します。すべてにおい
て、神の手があるかどうかは人生の明暗を分けます。
 神の手のある所にいれば、いるだけで大きな神のみ業が現されます。例えば私
たちの教会にはGifts(ギフツ)というゴスペルグループがありま す。全くの素
人の集まりでしたが時を追うごとにうまくなり、今では国内外で豊かに用いられ
ています。神の計画をわが計画とし、従ったことに彼らの 成功の秘訣があると
私は思っています。
 人は皆、得意分野と不得意分野があります。多くの人は、得意分野で勝負しよ
うと研さんを積みますが、必ずしもそれが成功するとは限りません。か えって
不得意な分野で成功することも人生には起こるのです。神はその大能の力をもっ
て私たちの前を進み、勝利と成功を与えてくださいます。
 ゼカリヤ書に次のようなことばがあります。「権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって」というものです。これはゼルバベルに語られたこ とばで
すが、私たちにも語られています。神さまが人をお用いになる時、主は能力のあ
るもの、権力のあるものを選ばれるのではなく、神を恐れ神に聞 き従う者を選
ばれるのです。
 能力や権力の追求は、終わりのない戦いです。そこで私は、主の恵みにより頼
む人生をお勧めしたいと思います。主の手が置かれている所には繁栄と 成功が
追いかけてやってきます。あなたもまた神さまを信じ、神さまとともにある人生
へと進みましょう。
         (イスラエル北野)

み声新聞2014年6月15日号(第784号)より転載—

2014年6月8日日曜日

罪を赦す権威
 マルコの福音書2章の出来事です。中風を病んだ人が、友人によってイエスさ
まの所に連れて来られました。家は人でいっぱいなので、彼らは屋根を はがし
てイエスさまの前に床のまま彼をつり下ろしました。彼らの信仰を見たイエスさ
まは、「子よ。あなたの罪は赦されました」と語られました。
 ところが、そこには律法学者たちが居て「なぜ、あんなことを言うのか。(中
略)神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と心の中で理 屈を言
いました。イエスさまはそれを見抜いてこう語られました。
 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるた
めに」「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさ い」
 たちどころに病人はいやされ、神の栄光が現されました。人には、罪を赦すこ
となどできません。しかし、イエスさまは神の御子です。イエスさまに は罪を
赦す権威があるのです。
 私自身、生きてきた人生の中で赦しを乞いたい罪は、1つや2つではありませ
ん。また逆に私に傷を与えた赦し得ない人も、1人や2人ではないので す。人
は必ず、何らかの縛りの中に生きているようです。このような縛りから解放され
るためにはどうしたらよいでしょうか。
 イエスさまの十字架の贖いを信じましょう。十字架によって私たちはどのよう
な罪でも赦されます。それゆえ私たちもまた、私たちに負いめのある者 をまず
赦しましょう。主の祈りにも「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに
負いめのある者をみな赦します」と書かれています。
 赦すなら赦される、この原則によって、私たちは、あらゆる人生の縛りから解
放されるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2014年6月8日号(第783号)より転載—

2014年5月29日木曜日

名 前
 パッチワークの丘で有名な北海道の美瑛町には、でかでかと「武田信玄」「風
林火山」の看板が立っています。聞くところによると、このオーナー は、信玄
に傾倒して、養子縁組を繰り返し、自分の名をついに武田信玄に変えたそうです。
 私の友人のSさんは無神論者でしたが、赤ちゃんを産んだとき、良い名をつけ
ようと、姓名判断の本と首っ引きで頑張っていました。良い名前をつけ れば、
幸せな人生が来る、祝福が来る、そう思ったのでしょう。他にも名前を変えた友
人がたくさんいます。
 聖書にも、名前が変えられるという記述はあります。創世記17章5節には、ア
ブラムが99歳になった時、神さまが現れ「あなたの名はもう、アブ ラムと呼ん
ではならない。あなたの名はアブラハムとなる」と語られたことが書かれていま
す。多くの国民の父という意味の名前でした。同32章でヤ コブもまた、神と格
闘した結果、「あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名は
イスラエルでなければならない」(3510節) と語られ名前が変えられまし
た。名前が変わった彼らは神さまの大いなる祝福にあずかり、その実質の現れを
見ました。
 名前には大きな意味があります。芸能の分野においても、襲名披露という形
で、名前は重んじられまた継承されていっています。意味のない名は一つ もあ
りません。
 大切なことは、私たちを使命をもって、祝福しようとしてくださっている、真
実な神さま、イエスさまがおられること、そしてこのお方に聞くことで す。私
たちもまた主が下さる名前があります。イエスさまはどんな名前であなたをお呼
びになるか、耳を傾けて参りましょう。     (イスラエル 北野)

み声新聞2014年6月1日号(第782号)より転載—

2014年5月20日火曜日

マリヤ
 新約聖書には、マリヤという名を持つ3人の女性が登場します。一人は受胎告
知を受けたイエスの母マリヤです。もう一人は、イエスさまのお話に聞 き入っ
ていた、マルタとマリヤ姉妹の妹であるマリヤで、3人目は、イエスさまに七つ
の悪霊を追い出していただいたマグダラのマリヤと呼ばれるマリ ヤです。復活
の主は真っ先に彼女に現れてくださいました。
 カトリックでもマリヤが語られていますが、マリヤを特別な存在にしてしまい
ました。受胎告知を受けたイエスの母マリヤを無原罪のマリヤと呼び、 礼拝の
対象にすらしています。幼少の頃、私は、カトリックの聖母幼稚園に通っていま
したが、教室ごとに安置されている白く大きなマリヤ像が、美し くもなぜかと
ても恐ろしかったことを覚えています。聖書には、イエスの母マリヤが無原罪で
あるとか、礼拝するように、とか書いてある箇所は一つも ありません。
 新約聖書の、イエスの母マリヤはむしろ素晴らしい信仰の人です。ルカの福音
書1章をお読みください。受胎告知の際に、御使いの語る言葉がどうい う意味
なのか、マリヤはよくは分かっていなかったと思います。しかし彼女は御使いに
こう言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どう ぞ、あなたのお
ことばどおりこの身になりますように」(38節)。
 神のことばの前にへりくだり、「おことばどおりこの身になりますように」と
告白する、ここに彼女の純粋な信仰を見ることができます。そしてこの 信仰こ
そが尊く、また目を留めるべきものであると私は思います。私たちもまた神を知
り、すべてを神に明け渡す、この信仰者マリヤの信仰に習うもの でありましょ
う。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月25日号(第781号)より転載—

2014年5月17日土曜日

心に革命を
 「親という商売があるなら、さっさと辞めてしまいたいものですわ」父がよく
お客さんに語っていた言葉です。
 言われた当人である私も親となり、子育ての苦労を知りました。この道を進ん
でくれたらと思い、精いっぱい用意しますが、親の心子知らずで、みす みす
チャンスを逃がすことも数知れず、悔やむことも多いです。子どもはたくさんの
無駄を重ねながら育つと言いますが、ああすればよかったと、悔い ることもま
た多く、心が重くなります。しかし、神さまはそこから私を救ってくださいました。
 ローマ人への手紙8章28節に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に
従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として くださ
る」ということばがあります。
 すべてと書かれていますが、このすべてとは、当然悪いことも含んでいます。
悔やむような悪いことも益としてくださると神さまは約束してくださっ ている
のです。救いある言葉です。
 先ごろ天に召されたマーリン・キャロザース氏は、私たちに歌を教えてくださ
いました。神は私の益のために今働いてくださっています、という歌で す。不
思議なことに、この歌を歌ううちにいつしか心は信仰を取り戻し、すべてのこと
が益となるという約束を信じられるようになるのです。
 サタンは私を悔いにつなごうとしましたが、神さまへの感謝と賛美はそれを断
ち、今や私の問題は私の手を離れ、神さまが担ってくださっています。 そして
神さまはすべてを益にし、そればかりか最高のものを与えてくださいます。それ
ゆえ私たちは今日、心に革命を起こしましょう。たとい何が起こ ろうと神さま
を賛美すると決意するのです。       (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月18日号(第780号)より転載—

2014年5月6日火曜日

奇跡を信じる
 私が所属する教会は、今でも神さまはいやしをなされるという立場に立ってい
ます。マルコによる福音書には「病人に手を置けば病人はいやされま す」(16
18節)と書かれていますし、イザヤ書には「彼(イエスさま)の打ち傷によっ
て、私たちはいやされた」(535節)と、神癒の根拠 さえ示されています。こ
のみ言葉を信じ行った結果、教会では毎日のようにいやしが起こっています。
 先日も、教会のTさんが、頭部を強く打ち意識不明、けいれんまでおこす事故
が起こりました。ご両親と教会の祈りの手が一斉に上がる中、祈り始め るとピ
タッとけいれんが止まり意識が回復しました。みな口々に奇跡だの声があがり、
大いなる栄光が現されました。
 教会には癒やしがあります。イエスさまは今でも、ご自身のみからだなる教会
に満ちておられ、信じる者たちを通していやしやさまざまな奇跡をなし てくだ
さいます。それ故、私たちには、どのような困難のなかにあっても希望があるの
です。この希望は、信仰とともにあります。
 では信仰とはいったい何でしょう。ローマ人への手紙4章11節に「彼は望みえ
ないときに望みを抱いて信じました」と書かれています。これはアブ ラハムの
信仰のことを言っています。約束の子イサクさえ産まれていなかったにもかかわ
らず、アブラハムは空の星ほどの子孫を与えると語った神を、 その言葉を信じ
ました。望みえないときに望みを抱く、信仰はここから働きます。現実ではな
く、神のことばに立つ、これが信仰なのです。
 あなたもまた、神を信じるなら、生ける神の奇跡を見るようになります。そし
てこの希望は決して失望に終わる事がありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月11日号(第779号)より転載—

2014年5月4日日曜日

バベルの塔
 先日、ニュースを読みましたが、なんでも西暦2016年に中国の広州市に
111階建てのビルが建つ予定です。また中東では、高さ1000メート ルを
超えるビルが建設予定だそうです。
 とにかく、少しでも高い建物を建てようすることの始まりは、創世記の昔から
ありました。バベルの塔です。そのころは、全地は、一つのことば、一 つの話
しことばでした。彼らはこう言いました。「さあ、われわれは町を建て、頂きが
天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされる といけないから」
 その時、神は人間の建てた町と塔をご覧になるため降りて来られました。そし
て、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始 めたの
なら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて
行って、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが 通じないよう
にしよう」(創世記11章参照)と語り、神は人々を全地に散らされました。こう
いうわけでこの町は、バベルと呼ばれるようになりまし た。
 高い物を建てようとする私たちの習性は、このバベルから引き継いでいるのか
もしれません。バベルの時代では、その心がいけなかったのです。自分 たちの
名をあげよう、という動機が神さまの前に高慢であり、反抗的であったのです。
しかしながら私たちは、天に達し、神さまの近くに居たいという 純粋な憧れも
持っています。
 神さまに近づくために必要なことは、高い塔を建てることではなく、むしろ内
面的なものであり、低くなること、へりくだることです。私たちが神さ まの前
にへりくだる時、神さまは私たちに近づき、また私たちをご自身に近づけてくだ
さいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月4日号(第778号)より転載—

2014年4月24日木曜日


 聖書にスロ・フェニキヤの女と呼ばれているギリシャ人の母親が登場しま
す。(マルコの福音書7章)彼女には悪霊につかれた娘がいました。それ で、
イエスが来られたと知ると、彼女はダビデの子よ哀れんでくださいと叫び声をあ
げ、イエスについていきました。
 しかしイエスさまは彼女に一言もお答えになりません。弟子たちのとりなしに
よってやっと口を開くと、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外 のとこ
ろには遣わされていません」、つまり、いやし解放の働きはユダヤ人に限ると
突っぱねているのです。
 こうまで言われると、普通はへこんでしまうか、反発するかのどちらかです
が、女は違いました。イエスの前にひれ伏すと「主よ。私をお助けくださ い」
と言いました。イエスさまは「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてや
るのはよくないことです」と答えました。今度は子犬扱いです。い くらなんで
も厳しすぎるのではないでしょうか。しかし、ここからの展開が素晴らしいので
す。
 女は言いました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子ど
もたちのパンくずをいただきます」
 なんと素晴らしい信仰告白でしょう。イエスさまも「ああ、あなたの信仰は立
派です。その願いどおりになるように」と語られました。悪霊はその 時、娘か
ら出ていきました。
 イエスさまへのまったき信頼と謙遜が彼女の心にはありました。「主よ。その
とおりです」と言いえた彼女のへりくだりがあって、初めて主が推奨さ れる信
仰をみたのです。信仰は、イエスさまのことばはすべて正しい、とする姿勢から
始まります。私たちもまた、彼女の信仰に学びましょう。
(イスラエル北野)

 


み声新聞2014年4月27日号(第777号)より転載—

2014年4月18日金曜日


天の故郷
故郷という言葉を聞くと、胸が恋しくなります。天の故郷といえばなおさらで
す。ヘブル人への手紙11章ではこのように書かれています。
 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れる
ことはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅 人であ
り寄留者であることを告白していたのです。(中略)もし出て来た故郷のことを
思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事 実、彼らは、
さらにすぐれた故郷にあこがれていたのです。(略)事実、神は彼らのために都
を用意しておられました(1316節)
 先月、3月19日に義父が天に召されました。ここ一月ばかりで、ばたばたと調
子を崩し、あれよという間に御国に帰ってゆきました。それは寂しい ですが、
夫と共に話すのは父が今喜んで天国にいるということです。父はイエス・キリス
トを救い主として告白し、信じていたので行き先は天国です。 この世とは比べ
ものにならないさらにすぐれた故郷に帰ることができたのです。こういうわけ
で、私たちはすべての点で心から喜んでいます。
 父の天国行きは、引っ越しのようなものです。離れはしましたが、天で元気に
過ごしている父を感じ続けることができます。そして、やがては天で私 たちは
再会を果たすでしょう。
 この恵みは、私の父に限ったものではありません。イエスさまを自分の救い主
として信じるなら、だれでも罪の赦しを受け永遠の命を頂き、天国に行 けま
す。そしてそこで私たちは永遠の再会を果たすのです。神さまは死すら祝福と変
えてくださいました。この御国の希望をどうかあなたも手にしてく ださい。
(イスラエル北野)

 み声新聞2014年4月20日号(第776号)より転載—

2014年4月7日月曜日


誇りと高ぶり
 私には7歳になるめいがいます。頭がよくてきれいで、伯母として先行きを楽
しみに思うのですが、弟はその子をしっかりと育てています。
 ある時、弟は彼女に言いました。「K、おまえは、確かに頭がよくてきれいか
も知れんが、世の中には、お前のような者は五万といることをわかって いるん
か」将来高ぶることのないようと、今から戒めているようです。
 高ぶりは、自分に酔い、自分は特別だと思い、誇ってやまないものです。とて
もいただけたものではありません。
 ガラテヤ人の手紙6章には「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そう
すれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対 して誇
れることではないでしょう」(4節) と書かれていますが本当にその通りで
す。誇ってみても、それはただ自分だけの誇りです。何の役にも立ちません。そ
ればかりか、神さまのご栄光を盗む罪の芽 にさえなりかねません。
 神さまはへりくだった人を選ばれます。へりくだるということは自分に死んで
いるということです。へりくだっていないと、神さまのある声は聞くこ とがで
きません。働きの根底に、自分を喜ばせたい、誇りたい、という思いを持ちなが
ら、なおかつ神さまに仕え、栄光を神さまにお返しするというこ とはできない
のです。
 神さまに謙遜を祈り求めましょう。神さまもまた、忍耐を持ってこれを助けて
くださいます。ヤコブの手紙にはこう書かれています。「神は、高ぶる 者を退
け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(4章6節)人はその誇りとするもの
によって人生が変わります。へりくだり、神さまの豊かな恵みを 受けて歩んで
いきましょう。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2014年4月13日号(第775号)より転載—

2014年4月5日土曜日


やもめ
 私の母は56歳にして夫に先立たれ、やもめとなりました。人生の山を越え、静
かに余生を送るはずでしたが、神さまの計画は異なりました。「この 者はこれ
からが人生の本番を迎える」と神さまは語られました。
 母はやもめとなって20年になります。この間、第二の人生の中で母は牧師とし
て立てられました。鳴門で生活している母は地下鉄が苦手で、上京す る際には
いつも迎えが必要でした。それが煩わしくて神さまに祈ると、母が地下鉄どころ
か世界にまで出て行くと語られました。
 そしてその通り、今日出発したアメリカの海外宣教チームにも加わり、渡米し
ていきました。帰りには国際便の飛行機から成田空港―羽田空港と移動 し、羽田
に一泊。翌朝一番の飛行機で徳島に帰り、すぐに礼拝のご奉仕を取り次ぎます。
こんな過密なスケジュールを76歳の母は1人でこなしている のです。しかも病
を持ちながら。確かにこんな人生が来ようとは思いもよりませんでした。
 詩篇8210節に、「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」
と書かれています。
 母がイエスさまから人一倍多くの、恵みと助け、癒やしを受けたのは、人一倍
イエスさまに求めたからだと思います。まず、求めることが奇跡の一歩 となり
ます。大きく口を開ける者は多く受けます。少ししか求めない者は、少ししか神
のみ業を見ません。
 やもめになったら、その望みは全能の父なる神以外にありません。ですから神
ご自身もまた、やもめに安らぎを与え、やもめの権利を守ってください ます。
神は真実です。私たちもまた、大きく口を開いて、神の恵みを受けましょう。
  (イスラエル北野)

 


み声新聞2014年4月6日号(第774号)より転載—

2014年3月25日火曜日


雪よりも白く
 北海道には、越冬キャベツなるものがあります。雪の中にキャベツを寝かせて
おいたものですが、どこの産地にもまして甘みが豊かです。
 また、雪の下におがくずをひいて、かぶと虫の幼虫を育てている所もありま
す。それらすべての営みを雪はすっぽりと覆い、一面の沈黙を守っていま す。
 さて、黙示録7章14節には次のような一節があります。「彼らは、大きな患難
から抜け出て来た者たちで、その衣を子羊の血で洗って、白くしたの です」と
いうものです。
 子羊とはイエスさまのことをさしています。イエスさまは、約二千年前にこの
世に来られた神のひとり子です。しかし罪に満ちたこの世は、救い主で あるこ
の方を死刑にするようポンテオ・ピラトに求め、イエスさまはカルバリの丘で2
人の罪人とともに死なれました。
 罪の無い方、キリストが死なれたのは、私たちの罪が贖われるためでした。旧
約時代に罪のための贖いとして羊がささげられていましたが、その羊に 代わっ
てただ一度、イエスさまは全人類の罪を負い、十字架でいわば「ほふられて」く
ださったのです。
 こういうわけで、今や神は、世にあるすべてのものがご自身の下に帰って来る
よう、救いの道を完成させてくださいました。
 私たちが持つ罪は無くなることはありませんが、神はイエスさまの贖いを通し
て私たちを見てくださるので、私たちはあたかも一度も罪を犯したこと の無い
者であるかのような祝福と恵みを頂きます。
 雪が大地を覆うように、キリストの血潮は私たちを覆いました。私たちは雪よ
りも白くされたのです。十字架は神との和解です。あなたも御父の元に 帰りま
しょう。  (イスラエル北野)

 

 


み声新聞2014年3月30日号(第773号)より転載—