2012年11月27日火曜日

脱出の道


 数年前に大ヒットしたあるTVドラマを見ました。がんの病にある女性と、恋
人で彼女の執刀医である男性とが、ドラマの節々でこう言います。
 「大丈夫。神は、耐えることのできないような試練は与えない」
 これは二人にとっての合言葉となりました。問題が起きるたびに、二人はこう
語って乗り越えていくのです。
 実はこれ、元々は聖書のことばです。コリント人への手紙第一1013節にその
全文があります。
 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神
は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に 会わせ
るようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練ととも
に、脱出の道も備えてくださいます」
 試練はつらいものですが、しかし、神とともに歩む人生は、あたかも解答を見
ながら試験を受けるようなものです。もう答えは分かっています。必ず 解決が
来るのです。皆さんの試練や問題がどんなにひどいものであっても、それは人の
知らないものではなく、神さまは私たちに、脱出の道までも備え てくださって
いるのです。神は愛です。
 ヤコブの手紙の12節には、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、
それをこの上ない喜びと思いなさい」と書かれています。良いことな ら喜べま
すが、試練を喜ぶなんて普通は考えられません。しかし、聖書は喜びとするよう
語っています。なぜなら、試練は奇跡を生むからです。
 皆さんもまた、臆することなく、信仰に堅く立ちましょう。神さまは、耐える
ことのできないような試練を与えません。むしろ脱出の道へ、あなたを 連れて
行ってくださいます。イエスさまを信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2012年12月2日号(第704号)より転載—

2012年11月22日木曜日

本当にそうですか


 神さまは、ご自分のかたちに似るようにと、人間をお造りになり、アダムとい
う名を与えられました。また、助け手として、アダムの肋骨から女を造 り上げ
ました。エバです。
 彼らは、エデンの園に置かれ、幸福に過ごしていましたが、神さまは一つだ
け、禁忌を言い渡していました。「あなたは園のどの木からでも思いのま ま食
べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べるその時、あなたは必ず死
ぬ」(創世記2章17節)
 しかし、狡猾な蛇であるサタンは、エバに近づき、こう言いました。「あなた
がたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言 われた
のですか」(3章1節)
 エバは、禁断の実を食べたら必ず死ぬと聞いていたのですが、「本当に?」と
いうサタンのうたぐりに聞いてしまい、「死ぬといけないからだ」と答 えまし
た。「死ぬ」と神さまは語りましたが、エバの頭の中では、この神のことばは、
「死ぬといけないからだ」に変わりました。「あなたがたは決し て死にませ
ん」。サタンの駄目押しの一言に、エバは禁断の木の実を取って食べ、夫にも食
べさせてしまいました。こうして人類に死が入ったのです。
 神さまのことば通りになりました。 神さまのことばは真実ですから、必ず実
現します。最初に語られたことばをしっかりと握っているのなら、時が 来た
時、必ずその実現を見ます。それ故、サタンはそのことばを手放さそうと、あら
ゆる惑わしを語ってくるのです。このような時、私たちは、最初に 語られた神
さまのことばに、何度でも戻る必要があります。
 初めに聞いた神さまからの約束のことばを最後まで握り、共にその実現を見て
いきましょう。 (イスラエル北野)



み声新聞2012年11月25日号(第703号)より転載—


2012年11月16日金曜日

罪 人


 先日、興味深い学びをしました。「罪人」という漢字をあなたらどう読みます
か、と問うもので、クリスチャンの多くは「つみびと」と読み、一般の 人の多
くは「ざいにん」と読むそうです。
 両者には、罪に対する意識が異なるのです。「つみびと」という言葉には、認
罪が含まれている言葉のように聞こえますが、「ざいにん」は世に言う 犯罪者
のことを指す言葉とされているようです。
 しかしながら、犯罪ではないにしろ、すべての人は罪のうちに閉じ込められて
いることを、聖書は語っています。人には「原罪」があるのです。たと え世に
言う犯罪を犯さなくても、心を探れば、人をさばいたり、ねたんだり、人をあや
めることさえ脳裏に浮かぶことがあるでしょう。こういった罪の 根っこは誰で
もあるのです。これが原罪です。そして、これがある故に、神と私たちとの関係
は断裂しているのです。
 しかし愛なる神さまは、私たちを救うご計画をお持ちでした。神さまは、御子
イエスさまを下さったのです。イエスさまは、私たちの罪の身代わりと なって
十字架で死なれました。このイエスさまが流された血潮によって、私たちは、罪
赦され、生かされ、父なる神さまとの関係が修復されたのです。
 皆さんが、イエスさまの十字架を信じ、イエスさまを主として受け入れるな
ら、救われます。私たちが罪人であることには変わりありませんが、私た ちは
イエスの十字架の故に、赦された罪人(つみびと)なのです。あたかも罪の無い
者かのように神さまは、祝福してくださいます。そして、神さまが 私たちの力
となってくださるので、全ての困難に勝利します。イエスを主と呼び、新しい人
生を踏み出しましょう。
(イスラエル北野)
 
み声新聞2012年11月18日号(第702号)より転載—
 
 

2012年11月9日金曜日

私の結婚


 離婚話が絶えない家庭に育ったせいか、私は、自分は一生結婚しない、と思っ
ていました。結婚どころか、人生がつくづく嫌になっており、いつ死の うか、
とそればかりを考えていました。
 ところが、20歳の時に、預言者がやって来て、突然、私が結婚式を挙げている
姿が見える、と語り始めたのです。驚きました。このことばは、死ぬ ことばか
りを考えていた私に、手のひらほどの、小さな生きる希望になりました。
 この日から、結婚のために祈るようになったのですが、その中で特に23歳まで
に結婚することができるようにと祈りました。依然、人生に絶望にし ていた私
は、待てる時間は3年しかありませんと、正直なところを主に申し上げたのです。
 22歳が終わった次の日、それは、約束の23歳ですが、神さまは、「もし遅く
なってもそれを待て、それは必ず来る。遅れることはない」(ハバク ク書2章
3節)と語ってこられました。すぐに分かりました。はやる私に、23歳の最後の
1日まで待ち続けなさいということです。
 興味深いことに、同じその日に、私の夫となるある兄弟が、主に呼ばれ東京か
ら長崎に祈りに行きました。彼はそこで、主から結婚の導きを受けまし た。こ
うして私は、願い通り23歳半ばの秋に結婚しました。
 この結婚は、私にとっては、神さまのことばの成就であり、神さまのことばは
真実であることの証しです。
 結婚だけに限らず、もし、皆さんに神さまからの約束のことばがあるなら、ど
んなに不可能に見えても、その約束のことばを固く握りましょう。神さ まはあ
なたのために最善のものを拒まれず、与えられている約束は必ず実現するからで
す。 (イスラエル北野)
 
み声新聞2012年11月11日号(第701号)より転載—
 

2012年11月2日金曜日

小黙示録


 家計を預かる主婦の感じるところですが、ここ数年で急激に時代が悪くなって
きたように思います。友人の話ですが、北海道のお米は安全とされてい るそう
で、そのためか、内地の都市部からの買い占めがあり、確かに、地元北海道では
例年より10キログラムで約1000円値上がってしまいまし た。
 また、リストラをはじめ、これから時代を担う若者たちの雇用先も十分に確保
されていません。人件費削減のため、近隣の外国人を雇用し、こちらに 回るべ
き仕事が回ってこないのです。
 さらに、周辺国での反日感情の高まりは、世の終わりの前兆を表しているかの
ようです。
 マタイの福音書の24章は、小黙示録と呼ばれ、終わりの時代に起こる事が、イ
エスさまの口から語られています。
 「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ」(5節)、「民族は民族に、国は国に
敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります」(7節)、 「不法が
はびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」(12節)というのが主なと
ころですが、時代は、今まさに産みの苦しみの初めに入って います。これか
ら、終末に向かって、さらに私たちが考えもしないような患難、困難が起こって
くるでしょう。
 しかし、キリストとともに歩む人生は、慰めに満ち、イエスさまご自身が皆さ
ん方の力となってくださいます。担い切れない重荷を主の前に下ろし、 安きを
得ましょう。そしてイエスさまを主とお呼びし、救いを頂きましょう。
 イエスさまも言っておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人
は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげま
す」(マタイの福音書1128節)
         (イスラエル北野)
 
み声新聞2012年11月4日号(第700号)より転載—