2015年7月27日月曜日


買い戻し
 私が初めて悪霊が実在のものだったと知ったのは、30年ほど前のことです。その日、私は中央線に乗っていました。ある人の前に立った時、この人には邪悪なものが満ちている、悪霊がついているのではないか、と心の中で語った瞬間、その人の目と声が豹変し、「そうだ。俺がやったんだ」と口にしたのです。恐ろしくて逃げて来ました。
 とはいえ、私自身もまた、悪霊問題に苦しんだ者の一人です。思春期のころから妄想にふけり、妄想上の人物を母とし友とし、心を寄せました。妄想の世界が、サタンに属するものだとは知らず、知りもしない神を恨み、親に反抗し、罪に耽溺する毎日でした。
 詩篇49篇には、人は「自分の身代金を神に払うことはできない」「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」(7、8節)と書かれています。私たちは生まれながらの罪人であり、罪や死から解放されるために差し出すものなど、一つも持ち合わせていません。
 しかしこう続きます。「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される」(15節)。これは「買い戻される」というのがキーワードとなります。イエスさまが私たちに成し遂げてくださったのは、十字架による「買い戻し」です。罪に生まれて、サタンに縛られた私たちを愛し憐(あわ)れみ、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりになって、十字架で死んでくださいました。この、イエスさまの死こそ私たちの贖いの代価なのです。
 イエス・キリストを自分の救い主として信じ、また告白する者は、全ての罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。私たちは神の子とされ、サタンの縛りから解放されるのです。この福音を信じましょう。 (イスラエル北野)



み声新聞2015年7月26日号(第842号)より転載—

2015年7月18日土曜日

悪霊追い出し
 悪霊追い出し。多くの方にとっては、いかにもうさんくさく聞こえる言葉です。しかし聖書を見てみると、イエスさまは多くの病をいやされましたが、それと同じだけ多くの悪霊からの解放のみわざをなさっています。
 一口に私たちがいやしとして受け取っているものの中においても、病気が原因となっている病と、悪霊によって引き起こされた病があります。聖書はその二つを書いています。それが病ならいやしの祈りをすれば治ります。なかなか良くならない場合は悪霊の関与を考えてみる必要があります。
 マルコの福音書5章は、悪霊追い出しの記述で有名です。ゲラサ人の地にイエスが着くと、すぐに汚れた霊につかれた人が墓場から出て来てイエスを迎えました。彼はたびたび足かせや鎖でつながれていましたが、鎖を引きちぎり足かせを砕いてしまい、もはや誰にも彼を押さえるだけの力がありませんでした。
 しかしイエスさまが「汚れた霊よ。この人から出て行け」とお命じになったところ、霊は豚に乗り移り、200
0匹ほどの豚ががけを下り、湖でおぼれてしまいました。その人は、着物を着て、まったく正気になっていました。
 多くの人たちがこれを作り話しと読み換えますが、これは実話です。
 悪霊というのは現実です。しかし悪霊は身を隠します。ばかばかしい。悪霊なんて極端だ。そんな考えを私たちの頭に植え、気付き、いやされないように暗躍しているのです。全て病気には病気、霊には霊の対応が求められます。こういう訳で、私たちは教会に行き、霊の正しい知識を学びましょう。イエスさまの福音は、これらの問題も解決できるのです。
 
(イスラエル北野)


み声新聞2015年7月19日号(第841号)より転載—

2015年7月11日土曜日

サウルとダビデ
 聖書のサムエル記は、イスラエルの初代の王であるサウルと次の王となるダビデのことを中心に書かれている歴史書です。2人とも罪を犯しました。しかし、興味深いことに罪に対する2人の対応は大きく分かれています。
 サウルは、アマレクを聖絶せよという命令を主から受けていました。ところが彼は、惜しむ心を持ち価値のない物ばかりを聖絶し、良いものは取っておきました。主のみ声に聞き従わなかったその罪をサムエルに咎められた所、彼はこう言いました。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は(中略)私の面目を立ててください」(サムエル記第一1530節)
 一方ダビデの罪は、姦淫、殺人です。彼はウリヤの妻バテ・シェバを召しいれ、それを正当化するため夫であるウリヤを激戦区に送り、殺してしまいました。しかし預言者ナタンが来てその事を告げると、ダビデは即座に「私は主に対して罪を犯した」と告白しました。(サムエル記第二1213節)
 面目を立てることを求めたサウルにあったのは、人への恐れです。人々が自分から離れ去って行くことをサウルは恐れました。それに対して、ダビデにあったのは、神への恐れです。彼は主のみ前に自分が罪を犯したことを認めました。それで神もまた、神を恐れ悔い改めたダビデに預言者ナタンを遣わし「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」と語ってくださったのです。
 神さまは人の心の真実を喜ばれます。たといどんな罪を犯していても、神を信じ、悔い改めて神に立ち返るなら、神は豊かに赦してくださいます。私たちもまた、ただ神を恐れ、罪の赦しの恵みを頂きましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年7月12日号(第840号)より転載—

2015年7月4日土曜日

同性婚
 最近、同性婚を認める動きが急速に広がっています。特にアメリカ各州において顕著で、日本でも渋谷区がいち早く同性愛を社会的に認知しました。
 どうして、こんなおかしなことがまかり通るのでしょう。ローマ人の手紙1章にはこう書かれています。「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これらに仕えたからです。(中略)こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(2627節)
 これは同性愛に対しての聖書の見解です。聖書の昔から社会には同性愛が存在していたのです。これに関して聖書はどう語っているでしょうか。マルコの福音書には婚姻に関する奥義が書かれています。「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです」(10章6~8節)
 神は、人を男と女に造られました。そして、成年に達すると人は父母を離れ、一つになるべく婚姻を結びます。一心同体は、両性によって成るのです。一夫一妻婚こそ私たちが取るべき道だと思います。
 神を恐れましょう。ヒューマニズムは、互いに認め合うべきだと語り、同性婚を認知し支持しています。しかし聖書に照らし合わせてみれば、これはあってはならないものなのです。私たちは聖書に立ち返りましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年7月5日号(第839号)より転載—