2020年3月25日水曜日


目を覚ましていなさい

あれよという間に、新型コロナウイルスによ る感染の被害は地球規模の広がりを見せ、パン デミック(世界的大流行)になりました。厳し い規制が引かれ、終息に向けての手だてが講じ られています。しかし、いまだ終息の見通しが 立っていません。恐らくこの問題は、時代を分 けるものとなるでしょう。既に、さまざまな分 野において、大きな社会変化を生んでいます。  一つにはこの流行によって、改めて世界に国 境がないことが確認されました。確かに国境と いう地理的区別はありますが世界はグローバル に動いています。これは、国境を越えた地球規 模の災害なのです。
  また、私たちクリスチャンにとっては、これ は再臨のしるしです。黙示録には世の終わりに さばきが許されることが書かれてあります。剣 や飢饉(ききん)や死病などで、進んで見よう とするなら今回の新型コロナウイルスの問題は、 その再臨のしるしです。
 さて、イエスさまはご自身が渡される夜、ゲ ツセマネで悲しみもだえて祈り、特にペテロと ヤコブとヨハネに目を覚まして祈るよう指示さ れました。ところが彼らはひどく眠気がさして 目を覚ましていることができませんでした。イ エスさまは「あなたがたは、そんなに、1時間 でも、わたしといっしょに目を覚ましているこ とができなかったのか。誘惑に陥らないように、 目をさまして、祈っていなさい。心は燃えてい ても、肉体は弱いのです」と語られました。
 今は終わりの時です。私たちは再臨に備えま しょう。その日その時がいつであるかは誰も知 りません。父なる神さまだけがご存じです。人の 子(イエスさまのこと)は、思いがけない時に来 るとも聖書に書かれています。ですから、目を覚 ましている必要があるのです。忍耐を働かせて 祈り、その日を迎えましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月29日号(第1087号)より転載—

2020年3月18日水曜日


聞かれる祈り

 祈りは特別な祝福です。祈りは人類に与えられた特権であると私は思います。祈りは神に対して向けられるものであって、犬猫や私たち人間以外の被造物は祈ることはありません。祈りは人間だけが用いることができる特権であり祝福です。
 私の祈りの生活は、イエス・キリストを信じた時から始まりました。祈ることは、息を吸うことで、聖書を読むことは食事を食べることだよ、と聞かされて祈ってみたら、初めてにもかかわらずまさに神が働く奇跡を見ました。偶然だと言い切れないリアルな答えを受け、祈りは聞かれると知りました。祈りは、私の人生を一変させました。
 祈りが聞かれるためには、いくつか注意することがあります。一つは罪を悔い改めることです。神さまは義なるお方なので私たちの側に罪があると祈りは届きません。罪を悔い改めることは、祈りが聞かれるということと深い関わりがあります。神さまにお願いして、神との関係を断絶している罪を示していただき、それを捨てましょう。
 もう一つは正直に祈るということです。祈りのハードルを低く設定しましょう。こうすれば、祈りはぐっと楽しくなります。祈りは美辞麗句を駆使して上手に語る必要はなく、ありのままでよいのです。神はまた私たちの父ちゃんですから、私たちが求めるその願いを知ってくださり、愛と最善を注いでくださいます。ですから、心を低くして求めましょう。
 最後は、信仰を用いることです。マルコの福音書1124節には「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と書かれています。時に祈りは信仰が求められます。信仰の祈りによって、神のことばは爆発的な勢いで実を結びます。神は祈りを聞かれた、そう信じて祈りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月22日号(第1086号)より転載—

2020年3月11日水曜日

信 仰   


 クリスチャンになって最初に学んだのは「信仰」でした。神さまは、私たちが信仰に富むものであることを望んでおられ、信仰を立て上げてくださいます。
 へブル人への手紙、特に11章は、神の器(奉仕者)がいかに信仰を用いたかが書かれています。その中で6節にはこのように書かれています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」
 これは信仰を運用するにあたっての二つの前提条件を示しています。何を信じるのかということですが、それは神がおられることと、求めるなら報いてくださる方であることを信じるのです。
 また、ローマ人への手紙4章18節には「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」という一文があります。これは、直接にはアブラハムにイサクが与えられると神が約束された時のことを言っています。100歳の老人からイサクが出るでしょうか。そんなこと信じられますか。しかし、アブラハムは信じたのです。アブラハムは約束を与えてくださった神を信じました。ここでも、信仰が取り上げられています。信じるとは、望み得ないそのただ中で望みを抱くことなのです。ここに信仰が働きます。望み得ないからと言って諦めてしまったら信仰は死んだも同然、いやもう死んでいます。信仰による神の大きなみ働きを期待することはできません。
 信じ続けるには忍耐が必要です。ヤコブの手紙には「信仰が試されると忍耐が生じる」(1章3節)と書かれています。約束の成就に至るまで私たちはその信仰を試されます。しかし忍耐を完全に働かせることによって私たちは必ず約束のものを受けます。神を信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月15日号(第1085号)より転載—

2020年3月4日水曜日


リバイバル

 リバイバル、というと何を思いますか。リバイバルって何でしょう。私の属する教会は、リバイバルに召しを持つ教会で、ハバクク書から「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(2章3節)ということばを頂き、三十数年来「それ」を待ち望んでいます。
 また、ヨエル書2章23節には「主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださる」という約束が書かれています。
 雨とは、聖霊の注ぎかけであって、使徒行伝時代に、聖霊の激しい働きを受け「初めの雨」と呼ばれるリバイバルのわざが起こりました。そして、世の終わりに再び、今度は「後の雨」といわれる聖霊の激しい働き、終末の大リバイバルが起こることが約束されています。私たちはそれを待ち望んでいるのです。
 リバイバルという語を定義づけると、「一度廃(すた)れたものが再評価されること」を言います。リバイバルという言葉は今も映画や音楽、ファッションなどの分野でよく用いられている言葉ですが、もともと日本にはリバイバルという語はありませんでした。英語のリバイバルという語をそのままカタカナに持ってきたものであって、18世紀のアメリカで起こった信仰復興の働きを言います。一度廃れた信仰が刷新されるという意味ですが、リバイバルの日にその実現を見るでしょう。
 マタイの福音書1220節で、イエスさまはご自分のことを「いたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともない」と語られました。このことば通り、たとえ私たちが弱くても、イエスさまにより頼むなら、弱ささえも用いて神のわざは進みます。リバイバルは既に始まっています。神は私たちを用いてくださいます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月8日号(第1084号)より転載—