2020年5月28日木曜日

「新しく生まれる」 

 ヨハネの福音書3章に、ニコデモというパリサイ人の指導者が、夜中にこっそりとイエスを訪ねてやって来ました。
 ニコデモは、イエスに、
 「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」
と言いました。

 イエスは彼に答えてこう言われます。
 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」

 このお答えには、さすがのニコデモも困惑しました。

 新しく生まれるとは、どういうことなのでしょうか。
 神の国を見るって何でしょう。
 イエスさまはこのことのため、世に来てくださいました。
 イエスさまがニコデモに語った通り、新しく生まれるということは神の国を見るために必要です。

 雑誌で読んだのですが、アメリカのクリスチャンでは、自己紹介をするとき、私はボーンアゲインクリスチャンです、とあえて口にする人たちがいるようです。

 ボーンアゲインは日本語では「新生体験」と訳されます。
 イエスさまに出会って真に新しい歩みに入ったということを強調して、ボーン(生まれる)アゲイン(再び)と語るわけです。
 このようなキリストとの出会いがあることを知ってください。

 私もまた、ボーンアゲインクリスチャンです。
 肉によって誕生したように、霊においても神の子として誕生しました。

 今もその日のことを覚えています。
 それは、東京では珍しい大雪の日でした。

 大学の友人に誘われて12年ぶりに教会に行きました。
 実は小学生の頃、近所の教会の日曜学校に通っていました。
 しかし、中学生になって思春期に入り、引っ越しして通う教会が無くなると、いつしか心理学に傾倒しカチカチの無神論者になっていました。

 教会の牧師さんが、祈ってくださるというので、お願いすると強い力で体が倒され、ついに畳に身を投げ出してしまいました。
 われに返り、立ち上がろうとした瞬間、聖霊に打たれました。

 幼い頃に歌った「いつくしみ深き」その一節にある言葉…。
 「などかは下ろさぬ負える重荷を」(お前はなぜ負っている重荷を下ろそうとしないのか)
が、ふと、胸に迫り、思い出されたのです。

 担ってきた重荷を下ろし、私は主に帰りました。
 救われたのです。

 コリント人への手紙第二5章17節には次のように書かれています。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」

 イエス・キリストを信じましょう。
 古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなりました。

(イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年5月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年5月21日木曜日

「サタンはいるのか、何するものか」 

 かつて読んだ信仰書に興味深い話がありました。

 J牧師は1000名を超える教会の牧師でしたが、いつも敗北感に打ちひしがれていました。
 というのも、しばしば思いの中で、友人のT牧師が現れては、「お前の説教は恵まれない」「働きは俺の方が上だ」などと、語ってくるのです。
 
 教会は順調に成長していました。
 まさかJ牧師がそのような戦いをしているとは、誰も思いませんでした。

 しかし、日夜その語りかけは続き、J牧師はもうボロボロでした。
 このことは誰にも話しませんでしたが、意外なところから助けが来ました。

 夫婦の祈りの中で、何も知らない奥さんが突然預言をしたのです。
 「今、あなたの思索を縛り苦しめているのはサタンです。イエスの御名によって断ち切りなさい」 

 その通りにすると、たちまち暗い心は払拭(ふっしょく)され、神の愛の、恵みの光が差し込みました。
 J牧師を縛っていたのは友人ではなく、友人の顔をしたサタンであったのです。
 サタンは自分を隠し、ありもしない偽りを語り、私たちを告発し、敗北感を抱かせます。

 以前、こういう事がありました。

 私は、素晴らしい聖霊の働きがある聖会に出席しました。
 多くの主のわざが起こり、次は私だと期待しました。

 ところが、私の所に来ると講師は素通りするのです。
 一度や二度ではありません。

 恵まれた友人たちを見て心を痛め、最終日、ついに涙を流してしまいました。 
 その時、講師がやってきて言いました。
 「神よ。この少女に恵みを受けさせまいとしてサタンが張り巡らせた覆いを彼女から取り除いてください」

 これを聞いて目が開かれました。
 恵みを受けさせまいと縛っていたのはサタンであったのです。

 長い間、サタンは空想上の存在であり、自分とは何の関係もないものだと思っていました。
 しかし、それこそがサタンの思うつぼなのです。 
 この事を通して、サタンはいないという常識の陰に隠れて、いかにサタンがわがもの顔で暗躍しているのか、それを見ることができました。

 サタンの実質は「殺人者」です。
 私たちが神に愛されていることをねたみ、1人でも多くの者を救いにあずからせまいとして、今なお動いています。

 しかしながら、この戦いは神の戦いであり、神は既に勝利を取っておられます。
 神の勝利は、主イエス・キリストの十字架の死によって確定し決定し、サタンは既に敗北しています。

 ルカの福音書にはこう書かれています。
 「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(24章46、47節)

 今は、このような時代です。
 イエスさまは、2000年前、世に来てくださり、私たちの罪を私たちの代わりに担い、十字架で死んでくださいました。
 そして、ご自身のことば通り、3日目によみがえり、贖(あがな)いを完成されました。
 以後、イエスを信じるなら誰もが救われる、そんな時代になりました。

 サタンは、罪の告発者ですが、イエス・キリストは罪の赦しを与えるために来られた約束のメシアです。
 イエスを信じ、サタンの支配から神の支配のうちに帰ること、ここに私たちの人生の意味があります。

 偽りのサタンの言葉に聞くことなく、いのちのことばである主イエスのうちに帰りましょう。

(イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年5月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年5月15日金曜日

「アンビシャス」

 札幌ドームを見下ろす羊ヶ丘展望台に、クラーク博士の銅像があります。
 クラーク博士は、札幌農学校の初代教頭で、農業などを教えながら、キリストのことを熱心に伝えました。
 銅像の台座のところには博士が語ったという「ボーイズ・ビー・アンビシャス」というあまりにも有名な言葉が刻まれています。
 「少年よ。大志を抱け」という意味で、一説によれば「イン・クライスト」つまり「キリストにあって」大志を抱けと語ったと言われています。
真理を突いた一言で、多くの若者がこれを聞いて奮い立ちました。
今、まさに人生航路の外海に出て行こうとする少年たちには、洋々たる前途があります。
可能性は無限です。
その人生を神のために用いてほしい、と博士は胸に秘めて接していたかも知れません。
大志を、大きな幻を、抱くよう勧めました。キリストにあって。
箴言29篇18節に「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」という一文があります。
目指すべき幻を持たない者は、幻の達成のために節制をしたり、忍耐したり、努力したりすることをいとうのです。
肉のほしいままに生きるその人生の終わりは、何の実も結ばない木のようです。
それを考えると、人に本当に必要なのは、大志であり幻であると思います。
抱いた幻が実現するまで、幻は私たちを育て上げます。
私たちは幻の実現に至るまで信仰を働かせ、また忍耐し熱心に待ちます。
やがて時が満ちると、私たちは信仰の結果を見、豊かな実を刈り取るようになります。
ですから、大志を抱くことがいかに重要かを、あらためて知っていただきたいのです。
さて大志を、幻を、掲げるにあたって、私たちはより高いものを目指しましょう。
  高校野球において、甲子園に「出場」することを幻にして戦ってきた野球チームと、甲子園で「優勝」することを幻にしていた野球チームとでは、おのずから訓練に違いがあります。
そして通常、より高く幻を掲げたチームが勝つようです。
  ここで注意していただきたいのは、クラーク博士が語ったとされる「イン・クライスト」、すなわち「キリストにあって」という言葉です。
  幻はがむしゃらに立てた自分の計画ではなく、神さまが与えてくださるものであり、キリストによって実現するものです。
  神さまは私たち一人一人に計画を持っておられます。
 あなたが進んで受け取るなら、その計画こそがあなたの「幻」です。
 私たちが神さまの計画を知り、その計画を行うのなら、神さまの大きな栄光が現されます。
 こういう訳で、クラーク博士が語ったように、私たちはキリストにあって大志を抱き、幻を高く掲げましょう。
 時が来ると、抱いた大志や幻は、その信じたところによって必ず実を結びます。

 それ故、少年よ。信仰の帆を大きく張り伸ばし、人生の大海原にこぎ出して行きましょう。
(イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年5月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年5月13日水曜日

イエスさまの十字架

 クリスチャンになって私は、かれこれ37年になります。
 長い時間が流れましたが、昨日の事のように思い出すことができます。

 私は四国の出身です。
 四国は弘法大師が開いた八十八箇所の霊場があって、多くの巡礼者がやって来ます。
 私の家族親族も当たり前のようにこれに帰依していました。

 霊的には暗黒です。
 幼い時から月参りに連れて行かれて偶像を拝んだことによって、悪霊に聞きやすい耳がその頃から作られていたように思います。

 思春期になると、それが表に出てきました。
 空想や妄想の世界に足を踏み入れ、サタンにやられ放題やられてしまい、押し切られて自殺を考えるまでになりました。

 自殺というのは、悪魔が入れてくる思いであって、これには散々振り回されました。
 私を殺し永久に自分のものとしようとするサタンと、私を愛し救おうとする神との戦いが自分の内にあるのです。
 何ということでしょう。

 一見楽しい学生生活の影で、私は人知れずこのような戦いに直面していました。
 私には多くの友人がいましたが、まさか私が自殺するなんて誰も思ってみなかったようです。

 しかし教会の牧師だけは、真顔で聞いてくれました。
 そして、興味深いお話をしてくださったのです。

 ローマ人への手紙6章23節に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリストイエスにある永遠のいのちです」と書かれています。

 この箇所から牧師は、死は罪の結果として起こるものだと教えてくれました。
 誰にも罪はあり、あなたも例外じゃあない、と言い、さらに、たとえを使って次のように語りました。

 Kさんが3000万の借金をしたなら、必ずその3000万は返さなければならない。
 これは当然だ。
 でもKさんは学生だから3000万なんていう大金は持っていない。
 払えなければ取り立て屋に引き渡されてしまう。

 でもね、その時Kさんの代わりに私が3000万を支払ってあげるとどうだろう。
 取り立て屋は満足して帰るよ。
 彼らは3000万でありさえすれば、誰の3000万でも良いのだ。

 同様に命も、サタンは命を的にしてくるが、命でありさえするのなら、誰の命でもいいんだよ。
 それでイエスはあなたの身代わりとなって命を捨て、十字架で死んでくださったんだ。
 それはあなたを救うためだったんだよ。

 これを聞いて私は喜び、イエスさまの十字架を信じて、神の家族の一員になりました。
 イエスは死や滅びに定められている私たちを深く愛するが故に、身代わりの死を遂げられました。
 そして3日目に復活を果たし、救いの道を打ち立てられました。

 あなたもまた十字架を信じ、あなたを愛し、あなたを救うためには、死さえもいとわなかった主イエスの愛に帰りましょう。

(イスラエル北野 )

MIKOE NEWSから転載」 2020年5月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/