2013年1月31日木曜日


奥義なる教会
 イエスさまが昇天されてから、再び来られるまでの間に、歴史に、教会時代が
挿入されました。教会はキリストの花嫁であり、教会は、いっさいのも のを
いっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。信者は教会につ
ながることによって、教会の機能の一部を担い、教会の持つ力に よって、世に
対し大胆に遣わされています。すべての働きの基盤は、教会を土台にしています。
 教会にYさんという方がいました。Yさんにはポーランド宣教の召しがありま
した。難しいフランス語を習い、言葉に不自由しないよう準備しました が、そ
れから20年たっても、いまだ彼の道は開かれていません。なぜか。それは、彼が
教会につながっていないからです。彼は、ポーランド宣教の召 しは、自分個人
に属している召しだと思っているのです。しかし、実際のところ、全ての召しは
教会のものなのです。個人のものではありません。
 ある海外宣教の専門家が話していたことですが、海外宣教の最低ラインは英語
ができることだそうです。確かにその通りでしょう。しかし、私たちの 教会で
は、多くの方々が、その英語もできないのにもかかわらず、次々と海外宣教に遣
わされています。なぜでしょうか。それは、教会に海外宣教の召 しがあり、彼
らがこの教会にしっかりとつながっていたからです。
 終末の時代を迎えて、教会は今、本来の働きを取り戻し、多くの人たちを、神
さまの前に備えさせようとしています。働きの全てはキリストの御身体 である
教会に属し、教会はキリストの花嫁として婚姻の支度を始めています。間もなく
待ち望んだ大リバイバルが起こります。教会を土台に、導きを求 めて参りま
しょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2013年2月3日号(第713号)より転載—

2013年1月22日火曜日


弱さを誇りましょう
 ルカによる福音書22章の出来事です。イエスさまがそのご受難を語った時、イ
エスさまの一番弟子であったペテロはこう言いました。「主よ。ご いっしょに
なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33節)
 ところが、イエスさまはこう言いました。「ペテロ。あなたに言いますが、
きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言いま す」(34節)
 ふたを開けてみると、どうでしょう。ペテロはあれほどのことを言ったにもか
かわらず、人を恐れ、三度もイエスさまを「知らない」と否んでしまい まし
た。すると、たちまち鶏が鳴き、われに返ったペテロは、主のお言葉を思い起こ
し、号泣しました。
 この時ペテロは、自分がいかに弱いものであるかを知らされました。ペテロは
荒くれの漁師です。弱さなど無縁の男であったと思います。ですからこ のこと
はとても重要な体験でした。彼は自分が砕かれ、弱くされたことによって、初め
てイエスさまの「恵み」を知るようになるのです。
 コリント人への手紙12章9節には、このように書かれています。「しかし、主
は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの 力は、弱
さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリ
ストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを 誇りましょう」
 弱さは、神にあって特別な恵みです。私たちが弱い時、神さまが私たちの力と
なってくださるからです。弱くなければ、本当の神さまの恵み、力を知 ること
はできません。私たちは、弱さを誇りましょう。そして、神さまの恵みと力で、
神さまに従っていきましょう。
 (イスラエル北野)

み声新聞2013年1月27日号(第712号)より転載—

2013年1月16日水曜日


自分とは何でしょう

 よく、若い人たちの間で「自分探し」ということばが語られます。自分という
ものは何者か、という問いは根源的なものであり誰もが向かい合いま す。
 私には、ふたつ下の妹がいます。事あるたびに姉である私と同じことを行おう
としました。合唱部にいた時も追っかけ入部して来ましたし、お筝を始 めると
妹もまた習い始めました。しかし背格好も向き不向きも姉妹であっても異なりま
す。私にとって良いものでも、彼女にとって、益になるとは限り ません。
 また、かつて牧師が、私たち一人一人を物に例えて話してくださいました。そ
れぞれが、時計であったり、バスケットボールであったりします。時計 が自分
はバスケットボールだと思って飛び跳ねるとどうなるでしょう。ひどい壊れ方を
してしまいます。
 よく、自分のことは自分が一番わかっている、という言葉を聞きますが本当に
そうでしょうか。私たちが何者であり、どういう目的で造られたかを 解き明か
してくださるのは神です。神を知ることによって初めて、自分が何かということ
が見えてくるのです。
 エレミヤ書33章には、次のような神のことばが記されています。「地を造られ
た主、形作って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられ る。『わた
しを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超
えた大いなる事を、あなたに告げよう』」(23節)とい うものです。
 私たちは神さまに知られています。神はあなたのために造られたご自身のご計
画を知らせようとなさいます。
 福音を信じ、イエスさまを受け入れましょう。その時から、皆さんに対する神
さまのご計画が語られはじめま す。 (イスラエル北野)

 み声新聞2013年1月20日号(第711号)より転載—

ありのままのあなたを
私の友人のYは、成人のお祝いに、目が二重になるプチ整形を受けました。Yは
ぽっちゃりとした丸顔で、ごく普通の顔立ちだと思いますが、事あるご とに、
私はブスだから…、と口にするのです。いくらそんなことは無いよ、と言っても
聞きません。そこまでYを追い込んでしまった正体とは何だろう と、考えてし
まいました。
 また、知る人ぞ知る「風船おばさん」なる女性がおられます。鏡に映った自分
の顔が醜く見えて、調味料やしょうゆを注射器で顔に注入し、顔一面が 風船の
ように腫れ上がっているのでそう呼ばれています。そこまでしなければならない
彼女の人生を思うと、何があったか心が痛みます。
 牧師である夫は、彼女には幼少期に問題があったのでは、と言います。人は幼
少期に、神に愛され人に愛され、自分が無条件に愛されていることを学 びつつ
成長します。この、愛の土台づくりの時に何らかの理由でそれがなされなかった
人は、大人になると必ずどこかで歪みが出てくるのです。Yも風 船おばさん
も、揺るぎない愛の土台を持たないまま、生きて来られたのです。
 どうか皆さんは、ご自分のまわりにいる同様な人々に、ありのままの自分を愛
することを、教えてあげてください。彼らは自分が生きる価値がある人 間だと
いうことを受け取ることができず、生きることに苦しんでいます。
 神は愛です。たとえ肉親や友人から愛を得られなくとも神が愛を注がれます。
イザヤ書43章で神は、こう語っています。「わたしの目には、あなた は高価で
尊い。わたしはあなたを愛している」(4節)ありのままのあなたを神はこよな
く愛してくださっています。神さまのもとへ帰りましょう。
         (イスラエル北野)
み声新聞2013年1月13日号(第710号)より転載—
 

2013年1月1日火曜日


天への凱旋
 私たちが産まれてきた日と同様に、私たちは神が定めた時に、死を迎えます。
人は、何らかの事故のよって、死ぬのではありません。病気であるか ら、死ぬ
のでもありません。どんな死に方をしようとも、結局は皆、自分の寿命で死んで
ゆくのだと私は思っています。
 ですから、焦ったり悔いたりする必要はありません。神の時が来るまで、人は
生き、神の目から見て時が満ちた時に、命と分かれるようになるので す。
 イエス・キリストを救い主として、信じる者は皆、この世の命と一緒に、永遠
のいのちを持っています。イエスさまを心にお迎えするので、聖霊さま が内住
され、この方は、死ぬことがありません。私たちを天国へと導いてくださいます。
 多くの方の人生設計は死で終わりますが、死後も続く永遠のいのちを、今ある
人生の中で受けておかねばなりません。天国を信じる人は多いですが、 その入
り方を知る人はほとんどいません。どうすれば良いのでしょうか。
 ローマ人の手紙10章には次のように書かれています。「もしあなたの口でイエ
スを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえら せてくだ
さったと信じるなら、あなたは救われるからです」(9節)「人は心に信じて義
と認められ、口で告白して救われるのです」(10節)。ただ これだけです。救
いに関して私たちに求められることは、信じること、告白すること、これだけ
で、他には一切ありません。神は、全ての人が等しく救 いにあずかれるよう、
信じることによって救いの道を開いてくださったのです。
 イエスさまを信じるなら、あなたは神の子です。地上で永遠のいのちを受け、
希望と望みを持って、やがて天に凱旋していくのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2013年1月6日号(第709号)より転載—

祈りの達人

 かつて教会にO牧師という方がおられました。祈りを専門として、教会に仕え

ている方です。この牧師は1日8時間以上も祈ります。

 教会の親睦会で、よくソフトボールにも駆り出されるのですが、O牧師は球の

来ないよう外野を選んで立ちます。しかし、そこでも球が来ないよう祈 り続け

ているのです。そしてそのためであるのか、O牧師の方向に球が飛んでくると、

球が考えられない方向にそれるのです。一度や二度ではありませ ん。

 ボーリングでも同様でした。セミプロの人が居たにも関わらず、試合では、不

思議な倒れ方をしたピンのおかげで、O牧師の優勝になりました。

 また同労者であるA牧師も、祈りに覚えがあります。野良猫に、餌を上げたい

と思って、コチラにやって来るよう神さまに祈ったところ、何と、すぐ に猫が

やって来て、餌を頂きました。

 祈るなら、ささいな事でも神さまは聞いてくださいます、と証しておられました。

 祈りは高尚なもので、こんな日常生活の中で軽々しく用いるのはいかがなもの

か、という向きもあるでしょうが、しかし、答えるかどうかは神さまの 問題で

す。私たちは大胆に、祈りをもって主に求めることができるのです。

 ヘブル人への手紙には「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをい

ただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近 づこう

ではありませんか」(4章16節)と書かれています。神さまは不可能を可能に

し、ご栄光を現してくださいます。

 祈りを用いるかどうかは後になると大きな差となります。祈らないことは大き

な損失です。折にかなった助けを得るために、あなたもイエスさまを信 じ、祈

りましょう。(イスラエル北野)
 
み声新聞2012年12月30日号(第708号)より転載—