2019年2月27日水曜日

老いにあっても

 私は50代の主婦です。若い頃の自分が考えていた50代というのは「年寄り」のイメージでした。しかし、いざ自分が50代に踏み込むと、心はとても若いのです。自分を「年寄り」として認めるにはまだ早いかな、と思います。
 昔は還暦といえば長生きした方で、60歳になると、よくここまで生きてこられましたね、と赤いちゃんちゃんこを着て祝いました。そこから見ると今の日本は、押すに押されぬ長寿国になりました。昔の60歳と今の60歳では大きく異なると言われています。
 とはいえ、寄る年波には勝てずと言います。加齢とともに少しずつ不自由になっていく身体に向かい合う中で、余生をいかに生き、いかに人生の幕を下ろすかということを思わない人はいないと思います。
 イザヤ書40章にはこのように書かれています。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(3031節)
 また申命記34章には「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とあります。
 聖書が言う、たゆまぬ力、はどこから来るのでしょう。それは神から来ます。ですから、キリストを信じることがとても大切です。神を信じ、神の御声に従うこと、それが力だと聖書は語っています。神が下さる力は、肉体の若さ以上に優れて偉大です。主を待ち望むことは私たちの力です。
 アブラハムもモーセも、年を取ってからその人生のクライマックスを迎えました。神にあって彼らは壮健でした。私たちもまた、イエスさまを信じてイエスさまに従う人生を行きましょう。神とともに歩む人生には、神の力が注がれます。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月3日号(第1031号)より転載—

2019年2月20日水曜日

期待する心
 
 クリスチャンライフの中で最も重要なものは信仰です。ところが私は、信仰と聞くたびに苦手意識が頭をもたげます。敵の攻撃なのでしょうが、私は不信仰だから何も起こらないだろうと、信仰の不足を責められているように感じていました。
 信仰とは何でしょう。確かにいろいろな意見があるとは思いますが、私は「期待する心」だと思います。例えば聖書には「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイの福音書7章7節)という約束があります。この一文を読んで、そうだ、と期待する心を持って近づくなら、そこに信仰が働き、神さまの手が動きます。神さまは、約束を果たされるお方ですから、その約束は必ず実現します。
 しかし信じていない人はどうでしょう。それらの人々は、初めから期待などしていません。ですから祈りもしません。結果、何の神のわざも見ないのです。不信仰は、期待しない心の成れの果てです。
 願うこと、求めることは、信仰によります。信じていない者がどうして祈ることができましょう。神は答えてくださると信じたその信仰だけが、神の約束を確かなものにするのです。願うこと、求めることは、信仰によります。それ故、私たちは期待する心をもって神に近づきましょう。信じるなら、私たちは等しく神の御手(みて)が動くさまを見ていきます。
 こういう訳で、期待するということはとても重要なことです。そこには信仰が伴うからです。信仰と行いは密接な関わりがあります。結局、人の一生は、何を信じるかによって決まります。ヨハネの福音書2027節には、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と書かれています。これはイエスさまが弟子トマスに語ったことばです。神のことばを信じ、期待し、信仰の実を結びましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月24日号(第1030号)より転載—

2019年2月13日水曜日

曲がった時代
 先週は、千葉県野田市の小学4年生の女児が、父親から虐待され死亡したという事件でもちきりでした。
 他にも記憶に新しいところでは、2018年3月に、目黒の5歳児の虐待死がありました。食事を与えられず、衰弱死した女児ですが、就学前なのに平仮名を学んで、必死に書き残した文面はたどたどしく、「もうおねがいゆるして」の文字は多くの人の涙を誘いました。それでも最後まで親に子どもらしい信頼を寄せていることが文面にうかがえ、なお、悲しい事件でした。
 子どもだけではなく、高齢者にも社会のしわ寄せがきています。
 テレビで見たある老夫婦は、わずかに残った全財産を引き出して、死出の旅に出ました。ちょっとぜいたくな旅館に泊まり、チップまで置いて過ごしました。やがてお金が尽きると、2人はあらかじめ決めていた通り、日本海で入水(じゅすい)自殺をはかり、生涯を閉じました。どんな気持ちで最期を迎えておられたか察するに余りあります。
 政治家のHさんは以前、お金がないことが分からない、というようなことを言っていました。よく億単位のお金が母親から小遣いとして振り込まれるといいます。これを聞くと、日本は中流意識が高いと言われたのも過去のことで、今は、一握りの富裕層と大多数の貧民、という格差社会へと向かって移行しているように思います。
 時代は変わりました。マタイの福音書24章は「小黙示録」と呼ばれ、特に終末の事が書かれています。その中で12節には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書かれています。確かにその通り愛が冷えているのを感じます。
 ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2章40節)と語りました。主イエスを信じ、救いを受けましょう。(イスラエル北野)
み声新聞2019年2月17日号(第1029号)より転載—

2019年2月6日水曜日

ライト(光)

 あと2年で私は、父が召天した年齢になります。父が結んだ実は多岐多様で、私など及ぶべくもない波乱万丈の人生でした。
 その日、父はゴルフ場で吐血しました。食道静脈瘤(りゅう)破裂です。病院に入院し、バルーンを調整して止血を図り、何とか一命を取り留めました。
 ヨハネの福音書1章に「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)という一文があります。これは、強力なみことばで、父の枕元に立ってこの聖句をゆっくりと朗読すると、父を取り巻いているあしきものが一つ一つ消えて行きました。この聖句は、キリストの勝利のことばでもあり、このみことばを用いるにあたって神さまの勝利がどれほど大きいかを知るようになりました。
 聖書に触れる機会が少ない日本人は、無意識のうちに、神さまとサタンを同列に見ようとする傾向があります。けれども、それは誤りです。神さまとサタンでは、光と暗闇ほどの違いがあります。光と闇は別物で、決して両者が交わることはありません。神は全能者で、サタンは被造物なのです。どんなに深い闇であっても、そこに光が置かれるなら、たちまちにして闇は消失します。両者にはこれほどの違いがあるのです。
 ヨハネの手紙第一には「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(1章5節)と書かれており、ここでも光の絶対的な勝利が記されています。イエスさまご自身もまた、こう語っておられます。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネの福音書8章12節)
 今は、救いの時です。「あなたがたがに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネの福音書1236節)(イスラエル北野)

み声新聞2019年2月10日号(第1028号)より転載—