2021年5月24日月曜日

弱さという強さ

  聖画に描かれているイエスさまは、とてもハンサムです。足まで垂れた白い衣を着て、髪も長くて、目には慈愛があふれています。

 イエスさまが公けに出現し、いやしや悪霊からの解放など奇跡を行うと、お弟子たちや民衆は、このイエスさまこそ、イスラエルを再興して下さる王であり約束のメシアに違いないと思いました。確かにイエスさまは、イスラエルの王です。それ故、聖画で見るイエスさまは、力と栄光に満ちているものが多いです。しかし初臨のこの時には、王としてではなく救い主として、私たちを贖うために世に来られました。

 だからでしょうか。イエスさまはあらゆる面で弱さをまとわれていました。イザヤ書53章ではイエスさまに関してこう語られています。「彼(イエスさま)には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(23節)と、王からほど遠い孤独や痛みが伝わって来ます。イエスの来臨のための道を用意したバプテスマのヨハネでさえも、世に来られたイエスにあなたは「その人」なのですか、と弟子たちを遣わして問われたほどです。それほどまでに実際のイエスさまは、聖画の王イエスさまとは違っていました。そこに見られるのは強さの象徴である王とは対照的な「弱さ」です。

 コリント人への手紙第2で、パウロは興味深いことばを語りました。彼もまた弱さに悩む人でした。こう書かれています。「これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである』といわれたのです。ですから、私は、(中略)大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(略)なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(810節)。

 強さではなく、弱さの中でこそ、神は完全に働かれるのです。かつて私は、エルサレムのビアドロローサを歩いたことがあります。その中に、十字架を負ったイエスさまが思わずも膝をつかれたと言われている場所がありました。イエスさまも弱かったのです。しかしそのイエスさまの弱さの中に神が働かれました。イエスさまは私たちの罪を負って十字架につけられ、死なれ、三日目に神の力によってよみがえられました。

 神にあって、弱さは強さよりも強いのです。神が働かれるからです。使徒パウロも「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(コリント人への手紙第二129章)と語りました。私たちの弱さは、キリストの力の現れとなります。それゆえ私たちもまた、私たちの弱さを誇りとしましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年5月17日月曜日

再臨の兆候

  聖書によると、この世にキリストは2度来られます。一度目はイエスさまが人類に救いを与えるため世に来られた2000年ほど前のことで、それを初臨と言います。そして、主イエスさまご自身が語っておられた通り、今度は世の終わりにご自身を待ち望んでいる者たちのところに、王キリストとして再び来られるのです。これが再臨であり、教会は頭なるキリストを迎える備えが進んでいます。

 マタイの福音書25章はその再臨について取り上げられています。イエスさまは、再臨を語るに、ともしびを持って花婿を出迎える10人の娘にたとえられました。そのうち5人は愚かで、5人は賢い者でした。それぞれともしびは持っていましたが、愚かな娘たちは、油を用意しておらず、賢い娘たちは自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。

 花婿が来るのが遅れ、みなうとうとして眠り始めた時、夜中になって「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がしました。急いでともしびを整えると、なんと愚かな娘たちのともしびは今にも消えそうで、賢い娘たちに、油を分けてくれるよう願いました。しかし、賢い娘たちは、「分けてあげられるにはとうてい足りません。店に行って買いなさい」と言います。

 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来て、用意のできていた賢い娘たちは、花婿といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられました。そしてそのあとで、愚かな娘たちも来て「ご主人さま。あけてください」といいました。しかし主人は「確かなところ、私はあなたがたを知りません」と言い聞き入れてくれませんでした。

 たとえで語られているこの話は、キリストの再臨のことを語っています。花婿はキリスト、花嫁は教会、10人の娘は信者、教会員であり、油は聖霊を指します。(チェーン式バイブルマタイの福音書25章脚注より引用)再臨は、教会の頭なるイエスキリストとみからだなる教会との婚姻です。これは神の奥義といってもよいでしょう。

 その再臨を迎えるにあたって、私たちは聖霊に満たされ続ける必要があります。キリストに対する信仰というともしびは持っていても、油、すなわち聖霊に満たされることがなければ、信仰もまた風前のともしびとなるのです。そこで気づいて買いに走っても、時すでに遅しなのです。

 私たちは間もなく再臨を迎えます。そのしるしが、兆しが、まさに今現れています。コロナウイルスによる感染症のまん延。また福島原発事故による汚染水の問題では、希釈するとは言っても、政府は本当に安全かどうか意見の分かれる濃度のまま海に流すことを決めました。これらはみなキリストの再臨が近いことを示す兆候です。その日その時は父なる神が決めておられます。私たちは聖霊に満たされ、目を覚まして、主の再臨の道を備えて参りましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年5月10日月曜日

信仰

  聖書のへブル人への手紙に次のような一節があります。

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(116節)。

 信仰に立つには何が必要でしょうか。このことばによればそれは、まず、状況の中に神がおられることを認めるということです。神を抜きにした信仰などありえません。そして次には、神は私に報いてくださると信じることです。きっと神はなしてくださるという信仰は、地に落ちることなく必ずその通りになります。失望に終わることはありません。

 聖書には、イエスさまに信仰を建て上げて頂いた、ある父親の話が掲載されています(マルコの福音書91427節参照)

 このお父さんには、おしの霊に憑かれた息子がいました。イエスさまは、この子がこんなになってからどれくらいになりますか、と聞いてくださいました。「幼い頃からです。この霊は彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」とお父さんは答えます。そして次いで、思わず本心が口をついて出てきます。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助け下さい」。

 するとそれを聞いたイエスさまは、間髪を入れずに言われます。「できるものなら、言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。

 これを聞くとお父さんは叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助け下さい」。こうしてついに神が働かれる信仰に立ちました。長年の間、いろんなことを試しては効果がなかったのでしょう。お父さんは、無理だという現実を間のあたりにして、いつしか信仰を見失い、あきらめていたのです。しかし、イエスさまのお叱りを受けてお父さんは再び信仰を取り戻しました。イエスさまが働かれる土台となる信仰ができたのです。期待するということは信仰の現れであり、信仰が働く土台となります。こうしてイエスさまは、その信仰に報いてくださり、悪霊に憑かれていた少年から霊を𠮟って追い出してくださいました。

 直面する状況の中でまず主を認め、そしてイエスさまに期待するなら、私たちは誰一人例外なく信仰を通して働く神のみわざに与ることができます。そして神さまもまた、こうして私たちが信仰を用いることを、喜んでくださいます。

 患難、困難の時ほど、神さまのご栄光の現れが強く現されるものは他にありません。それ故信仰を用いて神さまに近づきましょう。神に不可能はありません。問われているのは信仰です。信じる者はどんなことでもできるのです。それ故あなたもまた、神を信じ、信仰による奇跡のみわざに期待しましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年5月3日月曜日

原罪

  私には、生後半年になる孫娘がいます。新生児には他にはない可愛らしさがあります。全面的に私たちの手を借りないと生きていけない危うさが母性本能をくすぐりますし、生まれたばかりだとまだ人の嫌みなところが出てきていません。ミルク、オムツ、眠たいで催促して泣くくらいでしょうか。小さな天使と呼ばれるのもよく分かります。

 しかし、それもつかの間です。成長して行くうちに彼らの欲求はどんどん広がっていきます。自己主張をするようになり、時には憎まれ口さえたたきます。どんなに愛らしい子であっても、罪のない子はいません。人には、産まれながらに持ち合わせている原罪があるのです。

 昨年5月に、プロレスラーの木村花さんが若い命を絶たれました。ネット上で心無いバッシングがあったことが自殺の原因だと言われています。ネットだからと言って何をしてもいいわけではありません。現に、花さんは亡くなってしまいました。何が彼女を死に追い込んだのでしょう。集団になると個人とは違い、罪悪感も拡散されるので、人は残酷なことを平気でやってしまいます。これは、原罪の故になされる行いであり、人は、生まれながらの罪人であるということです。

 いじめというのも、人の罪の現れだと思います。天使のようだといわれる幼児の中にもすでにいじめは存在しますし、いい年の大人であっても差別や弱みにつけこんだいじめがあります。それは原罪と呼ぶ罪の根っこを生来私たちが持っているために起こるのです。

 子どもは愛らしい存在です。ですが、いざ罪が働くとそのいじめは大人以上にストレートで、陰湿かつ残忍になります。またそういう時にはサタンが好んで働きます。私も列に並んでいる時に、わざと体をぶつけたり、隠れた所で体をつねったりしている現場に出くわしたことがあります。ニュースを見ても、階段から突き落とされたり、集金袋を盗まれたり、バケツの水をかけられたり、いじめといっても今は命懸けの戦いです。暗闇のサタンの支配を許してしまう土壌があるのです。

 エレミヤ書に「ひょうがその斑点を、変えることができようか」(1323節)という一節があります。これは、罪は自分で解決できようかという意味です。答えは、「できない」です。人は生まれながらの罪人です。罪の奴隷です。自分一人さえ変えることができません。しかし喜びましょう。それ故、神はイエスさまを世に送ってくださったからです。

 イエスさまは、永遠の滅びに至る私たちを救うために、世に来られました。十字架の死とその復活によってすべての罪をあがない、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。この救いこそ命そのものです。主イエスを信じ、あなたの心にお迎えください。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年5月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/