2022年4月25日月曜日

愛を注ぐ

 盲導犬は、生後2カ月の間母と兄弟たちと共に過ごし、その後1歳になるまでパピーウォーカーという一般家庭で育てられ、目一杯愛を注がれます。そして、その期間が終わると、盲導犬訓練所に来て、約1年間訓練されます。そして、2歳前後で盲導犬としてデビューし、10歳前後までのおよそ8年間、盲導犬として活躍します。       

 パピーウォーカーの元で暮らす約10カ月が、盲導犬としての成功の成否を決めると言います。たっぷりと愛情が注がれ、その中で人の指示に従うことを会得し、無私の訓練や従順を学びます。指示を読み取った時はこれでいいんだよ、とばかり全身に触れほめてやります。こうして愛を注がれた盲導犬は無私を貫き、喜んで盲人の目となるのです。    

 こうして、人でも中々できないことを盲導犬はやってのけます。パピーウォーカーによって注がれた愛を存在の基盤に持つことが盲導犬としての強みであり成功の秘訣です。愛をかけることがいかに大きなことを可能にしているのか、改めて考えさせられました。

 話は変わりますが、以前テレビで、海外の小学校に入学したある女の子を取り上げていました。その子はぎょっとするような厚塗りの化粧をして教室に入ってきました。物心ついたころから、彼女はいつも、お前はブスだ、醜い、と言われ続けていました。私が見る限りではその子は可愛らしい顔をしています。どう見てもブスだ、というのは認知の歪みのように思えます。なのに、彼女は小学生にして自分は、人前に素顔で出られないほど醜い者なのだというサタンの言葉を信じ込んでいるのです。   

 成年に達すると、夫となる男性が現われました。ありのままの君を愛するから僕の前では化粧を止めにしないかと言ってくれました。しかし彼女は夫の前でも、結婚してからも、化粧を除くことができませんでした。愛し合い互いを必要としあった二人であったと思います。しかし、愛しているが故に失望も大きく、二人は傷みつつ離婚しました。   

 残念です。彼女をここまで追い込んでしまったのは、人もそうですが、実はサタンなのです。神は私たち人をこよなく愛してくださっています。イザヤ書434節には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と書かれていますし、イエスさまはご自身の十字架の死によって私たちを贖ってくださいました。愛はここにすでに明らかです。神はありのままのあなたを愛しておられます。   

 それ故どうか、あなたの周りにいる人々に、自分を大切にすること、自分を愛することを伝えてください。自分は価値あるものだという真実をしっかりとその人に語ってください。そうすればその人の人生は祝福に満ちたものとなります。また、神の良き働き人になることもできます。

 イエスさまは生涯をかけてあなたを愛されました。今やあなたの年月は、主の手のうちにあります。キリストとともに生き、あなたもまた、神にある人生の祝福に与りましょう。 


MIKOE NEWSから転載」 2022年4月25日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年4月14日木曜日

妬みについて 

  妬みは、誰もが持っている感情です。私たちは自分が欲しくて仕方が無いものを、他人が持っていると、しばしばそれを妬んで奪おうとしてしまいます。聖書で妬みが最初に取り上げられているのはかなり古くて創世記にまでさかのぼります。

 創世記4章に、カインとアベルの兄弟が登場します。兄カインは土を耕す者で、弟アベルは羊を飼う者でした。それぞれ、主に捧げものをする時になると、カインは地の産物を、アベルは羊の初子をそれも最良のものを自分自身で持ってきました。主はアベルの捧げものに目を留められましたが、カインの捧げものには目を留められませんでした。それでカインはひどく怒って顔を伏せました。神は罪を治めなさいといいましたがカインは聞かず、アベルを野に呼び出し、襲いかかって殺してしまいました。妬みが行き着くところは殺人です。カインはアベルが正しいことを知っており、その正しさを妬んだゆえの行動でした。

 イエス・キリストの12弟子の筆頭であるペテロもまた、妬みということにおいては、御しきれない体験をしているように思います。イエスさまが十字架にかけられることを告げた時、ペテロはごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております、と申し上げました。しかしイエスさまは、今日鶏が鳴くまでに、あなたは3度、わたしを知らないと言いますとおっしゃいました。そしてその通り、ペテロは主を裏切り、3度イエスを否みました。

 この心の痛みを癒すためでしょうか。後にイエスさまはペテロに現われ、3度あなたは私を愛しますかと問うてくださいました。主を否んだペテロは、「私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えるのが精いっぱいでした。イエスさまは、ペテロが、将来殉教の死を遂げ神の栄光を現すことを語り、再びペテロに「わたしに従いなさい」と弟子の招きをしてくださいました。彼の心は低くされ喜びに震えていたと私は思います。

 ところがです。これほどのことを体験したにもかかわらず、妬みが働きました。ペテロが振り向くと、そこにイエスが愛された弟子・ヨハネが後について来ていました。それに気づくとペテロは、今さっきイエスさまが示してくださったあれほどのご愛を忘れたかのようになって、「主よ。この人はどうですか」とイエスさまに問いかけました。ヨハネは主に特別に愛されているから、自分以上に素晴らしい祝福を受けたのではなかろうかと、それが知りたくて、気が気でなかったのです。しかし、イエスさまはそれには答えず、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」とだけおっしゃいました。

 ペテロがヨハネに抱いた思い、これもまた妬みです。ペテロはイエスに十分に愛されているのに、なぜこんなにヨハネが気になるのでしょうか。

 人は、他者との比較の中で自分を図ります。そして相手には有っても自分に無いものを認める時に、妬みの感情を起こします。サタンもまたそこに働き、事態を重くしています。

 カインの妬みは亡霊のように現代においても働いています。いつの世でも悪者は正しい者をその正しさのゆえに憎みます。そこには強い妬みがあり、この妬みは人を殺すのです。イエスさまを十字架にかけて殺してしまったのも妬みでした。そのことは残念ですが、だからこそイエスさまは、私たちがこの妬みという苦々しい罪から離れることができるよう助けることがおできになるのです。イエスさまの救いを受けましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年4月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年4月7日木曜日

律法の縛りと神の恵み

 同じことでも見方が違えば、こうも違うかというような体験をしたことがありますか。ある時私は、カトリックのシスターの書いた詩集を見ていました。すると、こんな一節が目に留まりました。「許せないという苦しみは、許したいという心のあらわれなのです」そこにはこのように書いてありました。

 しばらくその一文に釘付けになりました。そして、ふーっと気持ちが楽になりました。許せないという思いはやはりそれなりのことがあった訳で、受けた心の傷が癒えない中で相手を許すことは相当困難です。中々許せなくて、私は、いつも苦々しさと敗北感を抱いていました。

 しかし、その一文は違いました。人の言葉ですが本質を突きました。許せない私を糾弾するのではなく、許したいと願っている私をくみ取ってくれました。神さまは人の見るようには人を見ません。許せないという苦しみは、許そうとしている心からきているのだと、神さまは教えてくださったように思え、救われた思いがしました。

 神さまは私たちを慈しんでくださっています。許せていないという事実一点を責め立ててくるのはむしろサタンで、神は、前述の通り、許そうとする私たちの心のほうを汲み上げてくださいます。神さまの物の見方は常に私たちの心に寄り添うものであり、そこにあるのは恵みです。神さまは決して律法で裁くことはなさいません。しかし、サタンは律法で私たちを縛り、罪を攻め立ててくるのです。

 私たちは人間ですから、信仰にもアップダウンがあります。調子のよい日には堂々と教会に足を踏み入れますが、負い目を感じる日は、片隅にこっそり座ります。これは神が変わった訳でなく私たちが変わったのです。へブル書138節には「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と書かれています。ですから、救われた当初の神との近しい交わりを思い起こしてください。それは今も一つも変わっていないのです。

 神さまは、あなたを愛しておられ、あなたをご自身のもとに帰らせようと働いておられます。御子をさえ惜しまずに下さったお方は、すべてを下さったのです。ですから、律法には用心しましょう。縛るもの、責め立てるものは神から来たものではありません。それは敵から来たものなのです。律法は死をもたらし、恵みは人をまことの命へと向かわせます。許そうとしているから、許せない心に苦しむのです。神はあなたの心を御存知です。イエス・キリストを信じてみませんか。

MIKOE NEWSから転載」 2022年4月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/