2015年4月25日土曜日

くびき
 鳴門発。未明の一番列車には今も、行商のおばあちゃんたちが、どやどやと乗り込んできます。大きな竹籠の中にいっぱい商品を詰め込んで、お店のない近隣の山村に売りに出掛けるのです。今日も稼ぐぞと意気軒高な、おばあちゃんたちが頼もしくて、同じ列車に乗り合わせることが私の楽しみでした。
 乗り込んだおばあちゃんは、どかっと荷を下ろします。そしておしゃべりに花を咲かせて、また荷を背負い直して出ていきました。
 海外でも同様な光景がありました。そこの、あるおばあさんは、道を歩いていたところ、荷車に拾ってもらいました。しかし、乗りはしたものの、籠を背負い込んだままで、一向に下ろさないのです。忘れているのでしょうか。これでは足は楽になったでしょうが、荷は重いままです。下ろせばいいのに、もったいないとは思いませんか。
 イエスさまは、マタイの福音書11章でこう話されました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節)
 さらに、こう続きます。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(2930節)
 律法によって救われる人は誰もいません。イエスさまはこれら律法の縛りから私たちを解放してくださるために、十字架で救いを成し遂げてくださいました。信じれば救われるのです。今は皆さんを縛るくびきはありません。イエス・キリストの福音を信じ、すべての重荷を下ろし、真の救いの中で憩いましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年4月26日号(第829号)より転載—

2015年4月18日土曜日

脱出の道
 教会には、1年を通してかえりみる年度のみことばというものがあります。ことしは、出エジプト記3410節から、「この民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである」という一節が与えられました。
 いったい何が起こるのだろうと戦々恐々としていたら、果たして試練がやってきました。北海道では、2名のクリスチャン女性に相次いでがんが許されました。私たちは驚き、一斉に教会のとりなしの祈りの手が挙がりました。
 まだいやしの途中経過の段階ですが、一人の女性はがんが転移している可能性が非常に高く、またがんそのものも大きくて手術はまだ無理、と診断されていました。ところが、抗がん剤療法だけで転移も無く、がんそのものも縮小し、手術せずに治る可能性さえ見えてきました。さらに、もう一人の女性も、手術は大成功に終わり、ご家族の方が安堵されました。これらはみな恐るべきものです。神さまはご栄光を現してくださいました。
 コリント人への手紙第一10章には次のように書かれています。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(13節)
 私たちは神さまに知られています。神さまは私たちを愛してくださっています。神さまにはおできにならないことなど一つもありません。こういう訳で私たちにはあらゆる試練が許されますが、必ず脱出の道が用意されています。そして、後には試練そのものも大きな祝福へと変えられます。神さまに信頼しましょう。 (イスラエル北野)


み声新聞2015年4月19日号(第828号)より転載—

2015年4月11日土曜日

愛すること、従うこと
 私が結婚を決めたのは、結婚がどんなものか、心の中でふに落ちたからです。ある人は、結婚とは、情熱だと言いました。私は、結婚は責任であると考えていました。決めたなら最後まで責任をもって添い遂げる、それが結婚だと思っていました。
 保守的な考えですが、ある老婦人の結婚観を聞き、さらに保守的になりました。彼女は、興味深いことを語りました。「あなたね。女が自分に付いてこいと言っても男が付いてくると思う? 反対でしょう。付いてこいって言うのは男の愛の形で、女はそれを選ぶかどうかよ」
 これで、目が開きました。男と女では愛の形が違うと。それを裏付けるかのように、エペソ人への手紙5章にはクリスチャンの結婚に関することが書かれています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)
 両性に求められている愛は違うのです。ある牧師は、愛することはより難しいもので、男性に任せられているものであって、女性は、従うという形でその愛を示すのだと言いました。老婦人の語るところと一致しています。愛は、愛する愛と従う愛があるのです。
 さらに、結婚は、かしらなるキリストと花嫁である教会を指して語られている神の奥義でもあります。花嫁に求められることは、花婿なる夫に従うことです。こういうわけで、愛には愛する愛、従う愛があるのです。ここに調和があり、一致があります。愛する愛がとかく目立つものですが、従うという愛もまた素晴らしいものです。
 
(イスラエル北野)


み声新聞2015年4月12日号(第827号)より転載—

2015年4月4日土曜日

感謝
 聖書には、多くの教えがありますが、中でも、「すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)という奨励は抜きん出て素晴らしい教えです。
 今は天国に帰られたマーリン・キャロザース氏は、この教えを20年にわたって私たちに学ばせてくださいました。ご本人がおっしゃっていますが、この教えを実行するのは、語学を学ぶに匹敵するほど難しいといいます。特に「すべての事」というのが難しく、良い事を感謝することは簡単ですが、悪いことを感謝することはそうそうできることではありません。
 しかし、20年の中で私たちは、悪い事が起きると、感謝だと気付き、口先だけですが、感謝しますと言葉が出るようになりました。すると感謝の威力を見始めたのです。
 クリスチャン女性であるAさんは、友人とお食事に行った際、彼女の注文した料理だけが来なかったそうです。彼女は、静かに「プレイズ・ザ・ロード(主を賛美します)」と言い、感謝しました。それを見ていた青年は驚き、後には2人は結婚しました。
 また、私たちの教会の牧師は、歯の詰め物が取れたことを感謝しました。すると、そんな事まで感謝するのか、と感銘を受けたチェコの人がいて、そこから牧師が書いた本がチェコ語で出版されるようになりました。
 レベルの違う主の手を見たのです。感謝が持つ力は、人生を変えるほど強力なものです。ローマ人への手紙には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(8章28節)と書かれています。どんな事も感謝しましょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2015年4月5日号(第826号)より転載—