2017年8月25日金曜日

メリバの水

 神はモーセとアロンを指導者として立て、イスラエルを荒野に行かせました。ツィンの荒野には水がなかったので、民はモーセとアロンに逆らいました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか」「飲み水さえない」(民数記20章5節)
 これを聞かれた主は「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ」(8節)と語られました。
 そこでモーセは主の前から杖を取り、岩の前に集会を招集して言いました。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」(10節)。こう言ってモーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った所、たくさんの水がわき出たので、人も家畜もそれを飲みました。
 水を出すのは神であるにも関わらず、モーセは、「私たちが水を出さなければならないのか」と語り、神の方法ではなく自分の方法で水を出し、主の栄光を覆い隠しました。
 主はこう語りました。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない」(12節)
 こういう訳でアロンもモーセも約束の地を目前にしながら死にました。約束の地に民を導き入れたのはモーセの従者ヨシュアでした。
 この学びと教訓は非常に大きいものです。神さまに用いられる時、私たちが最も気を付けなければならない事は、ただ神にのみ栄光を帰す、ということです。
 主に栄光を帰し、主の栄光をたたえましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月27日号(第951号)より転載—

2017年8月19日土曜日

天国を見た人
 1986年、私の父はゴルフの最中に吐血し、食道静脈瘤(りゅう)破裂で死線をさまよいました。父の家系は皆、肝臓の病気で、40代で亡くなっています。ですから父も私たちも覚悟がありました。
 容体が落ち着くと、私と妹は韓国に断食祈祷(きとう)に向かいました。3日間の断食を終え、父の病はいやされたという確信とともに、聖書のことばを頂きました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(ヨハネの福音書11章4節)ということばです。
 このことばの語る深い意味は分かりませんでしたが、帰国したのは父の大手術の2日前でした。私たちは、神がいやしてくださったのだから手術はやめてほしいと父にいちずに願ったので、父も相当悩んだようです。最後に「今は静かに手術を受けさせてくれ」と言いました。ならば、主イエス・キリストを救い主として信じてほしい、と言ったところ、父は同意し、イエスさまを信じて手術室に入って行きました。
 そこからが奇跡でした。後日、父が語ってくれたのですが、手術の最中、父は肉体を離れて、雲に乗って天国に行ったそうです。イエスさまが天国を案内してくれたと言い、それは見事なものだったぞと教えてくれました。また、カチカチの肝硬変であるはずの肝臓に医師が触れたところ、柔らかであり、これなら大丈夫だとの太鼓判を頂きました。私たちが信じた通り、主は肝臓をいやしてくださっていたのです。
 7年後、父は天に帰りました。手術をしても2、3年、といわれていた命に、神さまは7年もの月日を増し加えてくださいました。
 父は永遠のいのちに導かれ、今は天にいます。神さまのおことば通り、この病は今なお神の栄光を現し続けています。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月20日号(第950号)より転載—



2017年8月11日金曜日


 モーセが山で神から十戒を授かっていた間、ふもとでは、イスラエルは早くも堕落し、鋳物の子牛を造って、これを拝むようにして、神の怒りを買いました。
 それを見たモーセは、このイスラエルの罪に対する主の怒りをわが怒りとし、「だれでも、主につく者は、私のところに」(出エジプト記3226節)と言いました。するとレビ族が直ちに集まってきました。
 モーセが、「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」(27節)と語ったところ、レビ族はその言葉通りに行い、その日約3000人が倒れました。
 レビ族はこの事件においてモーセ同様、神の怒りをわが心としたのです。そこで神は怒りを静め、その心を神と一つにしたレビ族を特別に扱われました。
 イスラエルの12部族のうち、レビ人だけに祭司の働きが与えられましたし、また、カナンの地におのおの相続地を分かち合った時、レビ族にはあえて相続地が割り当てられませんでした。彼らの相続地は主であるというのです。地上の相続地を受けないのは、神さまご自身が彼らの領地、彼らの取り分となられたからです。
 歴代誌第二16章9節には、「主はその御目(おんめ)をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力(みちから)をあらわしてくださるのです」という一節があります。
 モーセもレビ人も、その心は神とまったく一つになっていました。このように、神の心をおのが心とする者を、神は用いてくださるのです。
 栄光ある、この務めにふさわしい者は誰でしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月13日号(第949号)より転載—


2017年8月4日金曜日

忠実なしもべ
 マタイの福音書25章は、タラントのたとえとして有名です。父なる神さまは、しもべたちを呼んで、おのおのその能力に応じて1人には5タラント、1人には2タラント、もう1人には1タラントを渡し、旅へ出て行かれました。
 彼らはおのおの、その中で預かったものを用いて商売をして、それぞれ5タラント、2タラントをもうけました。帰ってきた主人は、彼らに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」
 ところが、1タラントを預かったしもべは違いました。彼は、「ご主人さま。あなたは、蒔(ま)かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」。こう言ったのです。主人は言いました。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか」「そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい」
 同様の体験が私にもあります。以前、あるご奉仕が任されたのですが、思うような実を結べず自分に失望していました。ところが神さまは、そんな私にこの聖書の箇所から、「よくやった。忠実なしもべだ」と語ってこられたのです。耳を疑いました。どれをとって忠実と言えるのでしょう。しかし神さまはよくやった、と言ってくださるのです。
 神さまが見ておられるのは「忠実さ」であり、また「用いる」ということです。小さな事に忠実でありましょう。神さまが評価してくださるのは私たちの能力ではなく、忠実さであるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月6日号(第948号)より転載—