2019年6月26日水曜日

狭い門

 終わりの時代のリバイバルの働きのため、再臨に至るまでの神の働きのため、これら二つを担うべきビジョンとして、私たちの教会は1984年41日に東京都国分寺市に産声を上げました。
 集められたのは、一風変わった人ばかりです。マルコの福音書1210節に「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」というみことばがあります。その通り、集まった人たちは他の所でやっていくことができないような、ならず者ばかりでした。にもかかわらず、彼らを土台として教会形成が始まりました。
 神さまのお心は、リバイバルにありました。リバイバルの器にしてあげようという神の招きは広くいき渡り、ならず者たちはそれを信じ、人生をささげたのです。
 それから30数年。30年はちょうど一世代に当たります。待たされ、試され、去って行った者もあれば、神の助けを頂いて残った者もありました。イエスさまは、マタイの福音書2214節で「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」と語られましたが、その通りに、わずかな者だけが残りました。
 また、同7章でイエスさまはこう語られました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(1314節)
 門とは、入り口です。私たちにとって選びやすいのは広い門です。多くの人が広い門から入ります。しかしこれは滅びに至るのです。
 一方、いのちに至る門があります。その門は小さく狭く、まさかこれがと思うような門です。それはイエスさまです。イエスさまを通して私たちはまことのいのちを受けます。イエスさま以外に救いはありません。狭い門から入りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月30日号(第1048号)より転載—

2019年6月19日水曜日

自己実現と自己否定

 私が成人を迎えた頃は、ちょうど「キャリアウーマン」という語が世に出てきた時代で、その流れで「自己実現」ということが大きく人々の関心を引いた時でもありました。
 自己実現という言葉は、自尊心をくすぐる甘い誘惑でした。その頃私はすでにクリスチャンでしたが、すっかり惑わされてしまい、クリスチャンライフもまた、自己実現の一つだと考えるようになりました。突き詰めてみるとそれは私のためにイエスさまがあるというスタンスで、自分に死んで「イエスさまに聞き従う」という、イエスさまによる「自己実現」とは正反対のものであったのです。
 イエス・キリストを、自己実現のための方策の一つとして捉え、イエスさまを、私の自己実現をなしてくださるお方として見たとき、神の恵みから外れました。それは、イエスさまでなく自分を主とする生き方であったのです。
 マタイの福音書に「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(1039節)という一文があります。これは、聖書にはよくあるのですが、逆説的な表現です。自分のいのちを自分のものとしないで、むしろ失うなら、いのちを得るというのです。聖書は自己実現よりむしろ、キリストにある自己否定である、「祈り聞き従い」を推奨し、世に死んでキリストに生きることを語っています。そしてそれこそが、イエスさまが下さる本当の、神による自己実現です。
 私たちは、試されます。キリストに名を借りて、多くの人が自分の生き方を主張し、それを実現しようとします。しかし、人間にとって最も大切なことは自分に死に、神に対して生きることです。神に従うことこそが、本当の自己実現なのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月23日号(第1047号)より転載—

2019年6月12日水曜日

 

 中学生の頃、母の代理で、ある新興宗教の総本山へ行きました。強烈な体験でした。自分と同じ年代の者たちが熱心に信心している姿を見て、私も思い切って信じることにしました。
 大きな偶像を前にいろんな作法を教えられました。寝る時、偶像に足を向けてはならないとか、偶像の置かれている部屋は素足で入ってはいけないとか。また、お経が伝記のように読めるので意味を尋ねると、お経はありがたいものなので、理解するものではないと言われました。
 先祖親族の供養が勧められ、1人につき幾らという供養料を払い、お勤めを欠かさぬよう指導されます。とにかくお金がかかりました。今から思えばこれら全ては宗教ビジネスであったと思います。地獄の沙汰も金次第。希望をちらつかせてはいるものの、宗教は何をもって救いを確約できるのか、その点が曖昧です。
 それに対して神は、栄光を輝かせられました。神は、生まれながらの罪人でやがて死んでゆくはかない私たちを愛しあわれみ、ご自身のひとり子なる神イエス・キリストを下さいました。イエス・キリストは、私たちを救うために私たちの罪を贖(あがな)うため、2000年ほど前にこの世に来られ、十字架の死を遂げられ3日目に復活されました。ここに私たちの贖いは完了し、以来この福音を信じる者は誰でも皆、無条件で救われます。
 使徒の働き4章12節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と書かれています。
 偶像は人から出、人が作ったものです。しかし本当の救いは、真の神から出ました。むなしい偶像を捨て、真の神、イエス・キリストに立ち返りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月16日号(第1046号)より転載—

2019年6月5日水曜日

賛美の力

 賛美は強力な力を持っています。1983年1218日、杉並区高円寺にあるキリスト教会の一室で私は神さまに立ち返りました。
 牧師が祈ってくださったのですが、祈られると不思議なことに私の体が右へ右へと押されるのです。ついには畳の上に身を投げ出してしまいました。ややあって、何ばかな事をしているのだ、と立ち上がろうとした瞬間、聖霊に打たれました。
 幼い頃、日曜学校で歌っていた「いつくしみ深き」の1節が、突如私に触れました。「などかは下ろさぬ負える重荷を」。お前はどうして負っている重荷を下ろそうとしないのか? そんな言葉とメロディーに触れられ、その日、私はみ父の元に帰りました。
 その頃はちょうど、アメリカのリバイバルソングが、日本でも歌われるようになっていた時でした。中でも「シングハレルヤ」という歌は、シング・ハレルヤ・トウ・ザ・ロードという言葉を繰り返すだけです。しかしそのメロデイは絶妙で、涙ぐんでしまうような深いご臨在がありました。
 詩篇22篇3節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」という一文があります。私たちが賛美によって触れられるのは、賛美の中に神ご自身が住まわれているからに他なりません。計り知れない強力な力が賛美にはあります。
 1989年8月、ダバオで、オーストラリア人宣教師のジャッキー・ハミルさんが殉教しました。銃撃戦の中で後ろから銃で撃たれ即死の状態でした。にもかかわらず彼女は、20分ほどその場で賛美をささげていたといいます。そして最期に、大きく息を吐いてイエスさまの所に向かいました。
 賛美は、生ける神が人に与えてくださった最高のささげものです。賛美を通して私たちは大胆に神に近づくことができるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月9日号(第1045号)より転載—