2020年6月29日月曜日

 ブーメラン

 杉並区に城堀荘という下宿があります。35年前に、ここで特別な神さまの働きがありました。イエス・キリストを信じ救われた女子大生4名が寝食を共にし、熱心に主に仕え、神の器としての訓練に与りました。今から思えばこれは特別な恵みであったと思います。4名は今、キリストの弟子としてそれぞれ召された所に立って実を結んでいます。

 城堀荘で私たちは、真剣に献身を考え、また追い求めました。聖書には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコの福音書834節)と書かれています。その中で特に「自分を捨て」るということが徹底的に訓練されました。

 ある姉妹は深く愛したカーペンターズをささげました。愛用のレコードを処分し、そこにイエスさまをお迎えしました。私もまた、自分の拠り所となっていた文学をささげました。イエスさまが新しく私の拠り所となられたからです。やると決めたらそれこそ徹底して行うのが若さで、すべてをささげた濃厚な時間を過ごしました。

 話は変わりますが、ある牧師が説教の中で、サルを捕獲する方法について言及されました。恐らくそれは南の国であったと思います。椰子の実に穴を開け中に小石を入れておきます。それをそこかしこに仕掛けると、やがて好奇心の強いサルが近づいて来ます。そして穴に手を入れると、中にあった小石をしっかりと握ります。そして引き出そうとするのですが、握った手は大きくなっているので穴から出すことができません。握った手を手放せばよいのにその知恵がないのです。こうして、サルはいともたやすくハンターに捕獲されます。

 しかしこれは、サルに限った話ではありません。私たちも手に握っているものがある限り、新しいものを受けることができません。握っているものを手放さないなら、サルと同様いとも簡単に捕獲する者に捕らえられてしまいます。こういう訳で、自分にとって今握っている大切なものをささげることは、失うことではなく、より大きい祝福に与ることなのです。

 こういう訳で、握っているものがあるかないか神にお委ねしましょう。そして、さらにすぐれたものを受けるため、握っているものを一旦神にすべてをお返ししましょう。そうすれば、それらは、より優れたものとなって、また何倍にもなって、ブーメランのように、あなたの所に帰って来ます。

  (イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年6月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年6月20日土曜日

ギデオンの300名

 イスラエルにまだ王がなかった頃、神は士師(裁きつかさ)を起こして、イスラエルを治めておられました。その中の一人がギデオンです。ミデヤン人からイスラエルを救うため、ギデオンは召し出されました。

 その戦いは実にユニークで興味深いです。ミデヤン人の軍隊は13万5000名でした。対するイスラエルは、3万2000人です。およそ4倍ものひらきがあります。当時の戦争は、今のように兵器で勝敗が付くものでなく、人海戦術つまり兵の数によって勝敗がつくものでした。ですから、どう見てもイスラエルには不利な戦いであるように思います。ところが、神は「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、私はミデヤン人を彼らの手に渡さない」と語られたのです。イスラエルが『自分の手で自分を救った』といって、わたしに向かって誇るといけないから」というのがその理由です。多すぎるなんて、ミデヤン軍から見ればイスラエルは4分の1です。倒すのは赤子の手をひねるように簡単でしょう。3万2000人は決して多い人数ではありません。しかし、神はギデオンに、「恐れおののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい」と告げるように指示します。このことによって、2万2000人が帰って行き、1万人が残りました。

  それでも神は、民はまだ多すぎると言います。「水のところに下って行け、あなたのために彼らをためそう」とギデオンに言いました。下っていくと主は「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ」と言い、口に手を当てて水をなめた者の数、3百名で、ミデヤン人をあなたの手に渡すと言われたのです。3万2000人でさえも、少ない人数であると思います。しかしそこからわずか1%に満たない300名でミデヤン人13万5000人と戦うのです。勝ち目なんてあるわけないでしょう。

  しかし、これが神の戦いなのです。この後、ギデオンは残った300名を3隊に分け、全員に角笛とからつぼを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせました。3隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、左手にたいまつを堅く握り、右手に角笛を堅く握って「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫び持ち場についたので、ミデヤン人の陣営は混乱し、主は同士討ちが起こるようにされました。その結果、イスラエルは圧倒的な勝利を見たのです。

  ギデオンは神に聞き従いました。それゆえそこから先は、神がはたらかれました。勝ち目のないところに神が介入され、奇跡が起こり、神の栄光と勝利が現されました。その土台となったのは、試しを経て残った300名です。たった300名がミデヤン人13万5000人に打ち勝ったのです。これが神の戦いです。

  主の預言者エリヤはバアルの預言者450人に1人で立ち向かい勝利を得ました。羊飼いダビデは職業戦士ゴリアテに石1つで勝利しました。たった一人であっても神の陣営に立つならそこに勝利があります。人にはできないことであっても、神はどんなことでもおできになるのです。

  ギデオンの300名はいわば底でした。神は軍を最小化させられました。そして、そこから働きが大きく展開していきました。小さくさせられたこと、へりくだることを通して、この戦いは人の手から神の手に移ったのです。

  今、私たちはわずかです。しかし、これから大きく増え広がって行きます。300名を土台として圧倒的な勝利を見て行きます。期待しましょう。
 (イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年6月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年6月12日金曜日

若者への提言

 私は、50代半ばの女性です。「おばちゃん」と言われて久しく、ン十年になります。しかし、このところ、いつの間にか「あ」が付きはじめて「おばあちゃん」になって・・複雑な気持ちでいたのですが、何と12月には本物のおばあちゃんになります。
 初老にさしかかっている私たちも、始まりは皆20歳そこそこでした。神さまに召されて日本中から集められ、私たちは、自分に対する神のビジョンを受けるために大胆に信仰の海に漕ぎ出しました。そして、おのおのその信じるところによって踏み出していきました。
 ある者は、牧師として宣教地に赴き、たくさんの教会を立て上げました。1つの教会から、今や100を超える教会が出てきています。またある者たちは、あふれるばかりたくさんのリバイバルソングを作りました。そして、ある者は危険を覚悟の上で出て行って、孤児たちの母となりました。その頃はただ「ことば」しかありませんでしたが、それを十分として、信仰に立って出て行ったのです。
 それから、20年30年が経ち、働きは実を結ぶまでになりました。
 マタイの福音書25章に興味深い記述があります。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のよう」だ、とことわった上で、「おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントとを渡し」ました。皆出て行って、商売をし、それぞれ五タラント、二タラントもうけました。ところが、一タラントを受けたしもべは、地を掘ってそのお金を隠しました。やがて、主人が帰って来て、彼らと清算をしました。
 五タラント、二タラントもうけた者に主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」とねぎらいの言葉をかけました。ところが、一タラントを預かったしもべは、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」と言い、主人の怒りを買います。銀行に預けておくべきだった、そうすれば利息がついて返してもらえたはずだ、こう言って彼の一タラントは五タラント持つしもべのものとなりました。
 私たちは、例外なくタラントを頂いています。このタラントには忠実であることが求められるのです。人それぞれ持って生まれたものは違います。しかし、大小にかかわらず与えられたものを用いることを神は忠実さと認められるのです。この点においても神は平等です。
 私たちの人生には例外なく神のみこころ、召しがあります。神は私たちを自由にし、どういう人生を送るのか私たちに委ねておられます。そして、やがて人生の実を結ぶ時がやって来ます。
  最後に、ある姉妹のことをお話ししたいと思います。彼女は、孤児院の働きをするという召しを受けていました。信仰を頂いて、神のことばを唯一の拠り所として単身某国に赴きます。内戦の中にあっても孤児たちの母となるために留まり、活動を続けました。今はそれから20年以上になります。先日私たちのキャンプに、孤児5名とともに来日しました。豊かな実が結ばれています。
 人生は、何かをするには少なすぎる、とお思いでしょうか。しかし、神の召しを行うには十分なのです。信仰のビジョンを高く掲げてください。大きければ大きいほど、結ぶ実も豊かです。何もしないで人生を送るのは、土の中にあなたのタラントを埋めるようなものです。
 「時」は恵みです。若者には手つかずの時があります。キリストイエスのしもべとなり、永遠に至る実を結びましょう。
(イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年6月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2020年6月6日土曜日

「試練について」 

 イエスさまを信じて救いを受け、それがあまりにも素晴らしいので献身を表明しました。
 自分を主にささげたら、さぞかし素晴らしい祝福が来るだろうと、期待していました。

 ところが、来たのは予期せぬ試練でした。
 今では分かります。

 神さまに自分をささげたら私はもう神さまのものなので、神さまは私を愛しているが故に、最善にあずからせようと、ちゅうちょなく刈り込みの手を入れられるのです。

 やって来た試練は病気でした。
 予期せぬ病気になり、治療のために東京から郷里に帰り、大学病院に入院しました。

 迎えたクリスマスは、本来なら受洗にあずかるはずなのに、教会や礼拝、友人からも遠く離され、ベッドの上で一人耐えていました。
 その時は、もうあと一滴でも水が加わると決壊するダムのようでした。
 私はもういっぱいいっぱいで、その期間どのようにやり過ごしたかも、覚えていません。

 ただ忍耐に次ぐ忍耐で、悩みの炉で試されました。
 なぜこんなことが許されるのか、問うてみましたが神は沈黙を守られるのです。

 患難や試練についてパウロは、ローマ人への手紙5章でこう語っています。
 「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が、希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません」(3~5節)

 練られた品性を持ち、失望に終わることのない希望を得させるために神は患難や試練を許されるのです。
 それ故パウロは患難や試練さえ喜ぶと明言しました。

 試練を喜ぶ?ですか? しかしここに私たちが学ぶべきことがあるのです。

 ヤコブの手紙1章に、
 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その信仰を完全に働かせなさい」(2~4節)
と書かれています。

 ここでも、試練を喜ぶということが語られています。
 信仰がためされると忍耐が生じる、とは本当にその通りです。

 忍耐の限りを尽くして信仰を全うした、聖書の代表的な器はヨセフです。
 詩篇105篇には、
 「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(19節)
と、書かれています。この彼がヨセフです。

 ヨセフは幼少の頃から、いずれは自分の家族が自分を拝むようになるという幻を持っていました。
 しかし知恵もなくそれを語るので、兄弟のねたみを買って奴隷に売られてしまいます。

 その後、主人の奥さんに手を出したというぬれぎぬを着せられ、囚人となり、囚人となった先では、牢(ろう)からの脱出を頼んだパロのしもべに望みを託しますが、忘れられ2年がたちました。

 2年の後、ついに時が来ました。
 囚人ヨセフは一転してパロに次ぐエジプトの大臣となり、幻は成就します。

 ヨセフは飢饉(ききん)の中、全家族をエジプトに呼び寄せ養い、イスラエルを救いました。
 ヨセフの試練の背後にはこのような深遠な神の計画がありました。

 だからこそ、他の人に増してヨセフは、厳しい試練を通ったのです。

 忍耐は、試練という土壌に信仰の根を下ろすということです。
 その根が深く長く伸びると、全体を支える力となります。
 しかし、ためしもなく、忍耐することもなく芽を出すと、根がないので日照りになれば信仰はなえてしまいます。

 私たちは、待たされます。
 成就するその時まで試されます。
 忍耐を働かせ、神の時を待ちましょう。

(イスラエル北野)

MIKOE NEWSから転載」 2020年6月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/