2022年5月27日金曜日

死後の世界 

 自分は死んだあと、どこに行くのか。一体どうなるのだろう。誰もがこの問いを考えてみたことがあると思います。そして、結果はどうだったかというと、分からないというのが正直なところでしょう。例外は、宗教を持つ方々です。各々その宗教の教える死生観を信じることで、死に対して一応の解決を得ていると思います。けれども、信じたものが本当にあなたを救うことができたかどうかは、死んでみなければ分かりません。   

 死んだらどうなるでしょうか。平安時代は極楽浄土に行くと信じられていました。源平合戦の際、貴婦人たちは、戦いが不利になった時、ためらいなく舟から海へ身を投げ、入水自殺を図りました。目覚めた先は極楽だと信じたからです。

 輪廻転生を信じる人もいます。チベットのダライ・ラマは、ダライ・ラマが死んだ後に生まれた最初の子がダライ・ラマの生まれ変わりだと信じられています。自分は死んでも再び生まれ変わって生きるのだ、という信仰は希望になるでしょう。しかし、確証はありません。

 仏教では、死ねばいずれは仏になると信じられていますし、最近では、映画の影響で死んだら千の風になるという人も出てきています。実際のところはどうなのでしょう。また、キリスト教ではどう語られているのでしょうか。

 興味深いことに、死後は天国か地獄かどちらかに行く、という言い伝えは世界中で持たれています。天国は素晴らしいところであり行きたい場所であり、地獄は悪いことをした人が行くところで、そこでは昼夜を問わず責め苦を受けるということも共通しています。

 キリスト教では天国はパラダイスといいます。楽園という意味です。イエスさまが十字架で死なれようとした時、隣で十字架にかかっている罪人が、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください」と申し上げた時、イエスさまは間髪を入れずに「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」とお答えになりました。このパラダイスこそ天国です。イエスを信じ救われたものは死に繋がれることなく直ちにここに移されるのです。    

 一方地獄は、ハデスとゲヘナがあります。ハデスは、黄泉と訳され神を信じないものが刑罰を受けるまで置いておかれる場所であり、ゲヘナはまさに地獄です。黙示録によれば、硫黄の燃えている火の池があり、獣とにせ預言者、死もハデスも、悪魔も、いのちの書に名をしるされていない者はみな、やがてはここに投げ込まれます。そして、永遠に昼も夜も苦しみを受けるのです。    

 しかし、いのちの書に名をしるされているものは、これらのことから守られます。パラダイスは彼らのものであり彼らには永遠のいのちが与えられています。永遠のいのちとは、イエスを救い主と信じ、新しく生まれた神の子に与えられる命です。このいのちに対しては、死も火も効き目がなく、私たちは永遠に主と共に生きるようになるのです。

 主イエスを信じましょう。たとえ、死ぬことがあっても、その先にあるのは天の御国です。私たちは死にあっても死を見ることがなく、直ちにパラダイスに移されるのです。これは確かな約束です。そして希望です。この世の命のある間にイエスを信じ、御国の子どもとなりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年5月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年5月20日金曜日

ヨベルの年

 旧約聖書に「ヨベルの年」という神様の規定があります。かみ砕いていえば、これは安息のための年であり、この安息こそが大いに意味があるのです。

 神は天地創造の際に6日をかけて天と地とそのすべての万象をお造りになられました。そして第7日目に、なさっていたわざの完成を告げられ、なさっていたすべてのわざを休まれました。神はその第7日目を祝福し、この日を聖であるとされたのです。

 すべてのわざを休むということがいかに重要であるかは、これがモーセの十戒の中の第4戒として取り上げられていることからも伺えます。それは「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」というもので、「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」と書かれています。(出エジプト記20章8~11節)

 同様に、レビ記25章のヨベルの年の規定によれば、6年間畑に種をまき、ぶどう畑の枝を下ろして収穫します。しかし、7年目は、地の全き休みの年、安息の年として一切の農耕を休みます。7年目は地の安息の年となります。そして、この安息の7年目が7巡すると49年になります。この49年の第7の月の10日に、角笛を鳴り響かせるのを合図にヨベルの年が始まります。   

 ヨベルの年は、丁度この50年目の年に当たります。この50年目を聖別し、国中のすべて住民に開放が宣言されます。角笛を聞くなら、民は自分の所有地に、奴隷も自由を得て、各々自分の故郷へと帰らなければなりません。売られた土地に関してはヨベルの年をもって元の所有者に戻され、畑の耕作も禁止されます。6年目の収穫によって、7年目も食べて行ける収穫を神はくださり、ヨベルの年には、2年連続休耕することになりますが最後の6年目に3年間食べていられるほどの収穫が与えられると神は定められました。

 これは、イスラエルが強い国となる土台となっています。まずヨベルの年によってイスラエルの民には奴隷がいなくなります。民は神の前で平等であり、負債を負って売った先祖からの相続地も、ヨベルの年になると元の所有者に戻ります。土地は神のものであり、ヨベルの年までの収穫が値段とされ取引され、決して土地自体が売買されることはありません。また食物のための畑も耕作しない2年の休みを得ることで、大地も休みを得ます。ヨベルの年は、回復、解放、自由の年なのです。

 休むということと、聖なることとは深い関わりがあります。英語で休日を表す「holiday」は、「holy day」(聖なる日)からきており、休日は文字通り主を覚える聖なる日なのです。なぜ休むのかそれは、主だけに、主ご自身に、すべてを集中し仕えるためであると私は思います。主の安息を守るということは、主に仕えるということなのです。主に仕えることを専一になすためにどんな仕事もしないのです。この様に、安息を守ることには意味があり、休みは聖なるものであるのです。この時にこそ神を覚え、神に仕えて参りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年5月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年5月13日金曜日

帰ってきた息子 

 聖書のルカの福音書15章のテーマは、失ったものを取り戻す、というもののようです。100匹の羊の中、迷子になった1匹の羊を探して取り戻した話、銀貨10枚のうち1枚をなくし、探して見つけ出した話、これらの流れの中で、父のもとを去った失われた息子が帰ってきた話が語られます。  

 これは、有名な話なのでご存知の方も多いでしょう。登場人物の父は神さまで、子は私たちを指しています。兄息子は品行方正、真面目で父に仕えていました。ところが弟息子は出来が悪く、好き放題に生きていました。

 それが高じて、ある時弟は父に掛け合い、まだ父が生きているにもかかわらず財産分与の話を持ち出します。しかし父はそれを聞き入れ、身代を兄と弟2つに分けてやりました。すると、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ちます。そして、放蕩の限りを尽くし、湯水のように財産を使ってしまいました。そしてその後、追い打ちをかけるように大飢饉が起こり、弟は食べるにも事欠くようになりました。   

 悩みの中で、弟は父のもとへ帰ることを決意しました。父のところには、パンのあり余っている雇人が大ぜいいます。自分も雇人の一人としてもらおう、そう考えたのです。彼は、父のもとへ向かいました。すると、まだ家からは遠かったのにもかかわらず、父は彼を見つけ、走り寄って彼を抱き、口づけをして迎え入れました。

 弟は言います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」ところが父は「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言い、彼を愛する息子として再び無条件で受け入れてくださったのです。    

 ルカの福音書1910節に「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」というイエスさまのことばが挙げられています。私たちは例外なく罪の縛りの下にあるものです。失われた人です。しかしその私たちを取り戻すためにイエスさまは世に来られたのです。イエスさまは私たちの代わりに十字架にかけられ死んでくださいました。そして神の大能の力によって三日目によみがえられ、ここに救いが完成しました。   

 こういう訳で今や神は、あなたがご自身のもとに帰ってくるのを待っておられます。父が弟を愛し迎え入れたように、神はあなたのことを愛しておられます。迷子になった羊が見つかったように、失くした銀貨が見つかったように、その日、失った子が見つかったのです。神はご自身のもとへ帰ろうとする弟を遠くから見つけ、弟を取り戻してくださいました。同様に、私たちもまた失われた人でしたが、主イエスという代価を払って買い戻されたのです。それゆえ父なる神に帰りましょう。神はあなたを愛する子として迎えてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2022年5月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年5月9日月曜日

リバイバル

 あまり知られていませんが、日本は多くのキリスト教の殉教者を出した国です。生かさず殺さずを旨とし、本人もまた見ている者も、ともに棄教させようとあの手この手で残忍な責め苦が与えられました。少し前に遠藤周作の『沈黙』が映画化され、そこで撮られた迫害の残忍さが、世界中の話題となりました。

 信仰を持った当初、私は九州を中心にいろんな殉教地を訪ねまた殉教を調べました。調べれば調べるほど、とても耐えられないと震えあがりました。老人や乳飲み子にも容赦なく迫害の手は伸びていて、サタンの関与を考えないと、とても説明がつかないほど残虐な責め苦が編み出され、多くの者が迫害の中で殉教の死を遂げていきました。

しかし、迫害殉教は日本に限ったものではありません。現代でもイスラム社会では、キリストを信じる者は死刑に処せられます。まず家族の長が責任を持ってその者を殺さなければならないと法に定められています。彼らにとって信仰に入ることは命がけの選択です。というのも、クリスチャンになれば自分だけではなく家族の命までも危険にさらすことになるからです。情に訴え命を的にする迫害が今も続いています。

キリストの名のゆえに苦しみを受け殉教したクリスチャンは世界中にいます。その殉教の最たるものは、ローマで起こった皇帝ネロによる迫害でしょう。ネロは、ローマ市民が見る中、見世物として、コロッセオでクリスチャンたちを引き出し、腹の空いたライオンに彼らを食らわせ殺してしまいました。使徒パウロもまたこの時に殉教したと言われています。多くの者が無抵抗のまま殉教して行きました。

伝承によると、人々の去ったコロッセオで、ネロが死体を検めに来たといいます。そこでネロはひどく当惑します。というのも、顔が残った死体があちこちにあり、その顔が穏やかで喜んでいるように見えるのです。それも一人や二人ではありません。死を前にした苦しみや恐れなど微塵も感じさせません。彼らは何を見て喜んでいたのだろうか、ネロは疑問を感じたと言います。殉教者たちはこれから行こうとする天を、主イエスを、見ていたのです。

今、コロッセオには一本、何の飾りもない鉄の十字架が建っています。当時を証しするものは今はこの十字架だけです。ここから多くの者が天に帰って行きました。ネロによる迫害の歴史は刻まれましたが、この後歴史は大きく反転し、AD392年にテオドシウス帝によってキリスト教はローマの国教に定められました。

私たちの間では、殉教者の血はリバイバルの種だと言われています。ローマで流された殉教者の血が、キリスト教をローマの国教とする大逆転を生みました。日本にも、やがて時が来て大逆転が起こるでしょう。流された殉教者の血はリバイバルの種です。時が来れば芽が出、広がり、主が来られるその道を用意するものとなるでしょう。

私たちは世の終わりに生きるクリスチャンです。日本のリバイバルは世界を巻き込む後の雨リバイバルだと言われています。私たちには四十年来の約束の言葉があります。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書23節)というのがそれです。

 いよいよ時が満ちてきました。

MIKOE NEWSから転載」 2022年5月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年5月2日月曜日

 ハンナ

 女の戦いというのは醜いもので、容赦がありません。聖書の古いところでは、婚姻は一夫多妻制で、妻たちにとっては、夫をめぐる戦いは熾烈極まりないものでした。有名なのはヤコブ(イスラエル)です。彼の内からレアとラケルとそれぞれ二人の女奴隷によって、イスラエル12部族が出ました。しかし、彼らの年月は、夫の取り合いの歴史だったといっても過言ではないでしょう。  

 ハンナは、それからしばらく後の人物で、預言者サムエルの母です。ところが、ハンナはサムエルを生むまでは長く不妊の女であったのです。彼女の夫はエルカナで、ぺニンナというもう一人の妻がいました。本当の所は、エルカナはぺニンナよりハンナをより愛していたと思います。それが分かるので、ぺニンナはハンナに子が無いことを苛立たせては毎年シロで礼拝する度に、彼女を泣かせていました。エルカナは、私はお前にとって10人の息子以上のものでないのか、とハンナを慰めます。しかし、募る憂いはもはや限界に達していました。  

 彼女が向かったのは、主の宮です。聖書には「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」(サムエル記第一110節)と書いています。祭司エリはハンナが酒に酔っているのだと思いたしなめましたが、ハンナは言います。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。(中略)主の前に、私の心を注ぎだしていたのです」エリは「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」とハンナに言って下さいました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」と聖書は記しています。   

 数年前「ウォールーム」という映画が話題を集めました。自宅のクローゼットを祈りの部屋に変え、神と祈りの格闘をするというのがそのあらすじです。実はマタイの福音書にその土台となる一節があります。

 66節に「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」と書かれています。

 父なる神さまは隠れた所におられ、隠れた所で私たちを見ておられます。その報いもまた確かです。それを知って後ろの戸を閉め、この隠れた方のみ前に、私たちもまたハンナのように心を注ぎ出して祈ることができるのです。

 救いとは、出会いであると思います。神に出会うことが試練の目的であり、解決であり、勝利です。ルカの福音書1910節には「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです」という一節があります。主はあなたを探しておられ、あなたを救おうとされています。あなたに募る思いがあるなら、主はすべてをご存知です。ハンナのように神のもとに行きましょう。  

 その時、あなたは自分の人生に起こったすべてのことを悟り、またすべてが益となって行くことを知るでしょう。

 神はあなたを愛しておられます。

MIKOE NEWSから転載」 2022年5月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/