2017年11月23日木曜日

たましいの安らぎ

 誰が最初に言ったのかは知りませんが、世の中は戦場、日々戦いの連続です。老若男女を問わず、皆等しく、それぞれ戦うべき自分の問題があります。そして、その問題は、時折、大きな重荷となって私たちにのしかかってきます。さらに、その問題の大きさ故に、疲れ果ててしまった人も大勢います。
 そんな私たちにイエスさまは聖書を通して、こう語られました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます」(マタイの福音書112829節)というものです。
 イエスさまは、私たちの問題を知ってくださっています。そして、休ませてくださると約束してくださっています。また、くびきとは畑を耕すにあたって牛馬の首に当てた横木のことで、これにつながれたらその方向からそれることができなくなります。イエスさまのくびきは、イエスさまの行かせようとする方向に進みます。イエスさまは、私たちをご自身の道からそれることがないよう守られ、祝福の道へと進ませます。
 さらに1220節にはこう書かれています。「彼はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともない」。
 彼とはもちろんイエスさまのことです。たとえあなたがいたんだ葦、くすぶる燈心であったとしても、イエスさまは、弱い者を支え、また、ともしびを守られます。辛うじて立っているものを支えこそすれ、倒すことなどないのです。イエスさまはこんなにもあなたのことを愛してくださっています。主のもとで安きを得ましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年11月26日号(第964号)より転載—

2017年11月16日木曜日

 

 幼い頃、祖父の家にある仏壇がたとえようもなく恐ろしかったです。幼い私に、仏壇は「死」を強く意識させるものでした。私の家は、宗教的な家ではありませんでしたが、それでもご飯や水を供えたりして仏壇に仕えていました。
 仏壇の中央には位牌(いはい)があり、死んだ祖母の「死後の名前」(戒名)が刻まれています。死んだおばあちゃんはここに(仏壇に)いるからね、と言われて、仏壇や位牌の中にいるおばあちゃんに向かって祈ることを教えられました。しかし、きらびやかな仏壇がより一層死を暗示していて、怖くて仕方がありませんでした。
 仏壇にあるのは戒名で、死んで1年になると、仏教では、祖母は仏になったと言われます。しかし、暗くておどろおどろしいこの仏壇にあのおばあちゃんがいるわけはない、と私は違和感を覚えました。皆そうだと思います。そして無意識に、おばあちゃんなら、きっと子孫を守ってくれるに違いないと思いました。
 仏壇を守ることは、先祖供養を重んじる日本人の一般的な考えです。そして将来、自分が死んだ後も、仏壇を介して自分が生き続けていくと信じる人もいるので、仏壇の問題は一筋縄ではいかないのです。
 しかし、私たちは仏壇の中身こそ知っておくべきです。残念ながら、そこには、あなたの愛する人はいないのです。人の生き死には、全て神の手の中にあります。聖書から見るなら、仏壇にいるのは悪霊です。それ故、仏壇に手を合わせることは偶像礼拝になります。
 ヨナ書に、「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます」(2章8節)と書かれています。仏壇はむなしいものです。しかし、イエスを信じるなら、あなたに与えられるのは永遠のいのちです。イエスさまを信じましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年11月19日号(第963号)より転載—

2017年11月9日木曜日

奴 隷

 ローマ人への手紙の中でパウロは、奴隷という語を用いてキリスト教の奥義を語ろうとしています。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(61618節)。
 また注解を読むと、「人間は何にも支配されず、完全に自由になることはできない。必ず何かの奴隷になっている。それを大別すれば、罪の奴隷となるか、信仰によって神に服従する従順の奴隷になるかの、どちらかである」と書かれていて、さらに驚きました。
 奴隷になるということは、自分を無にして、自分が服従する相手に自分の一切をささげるということです。キリストを知らない以前、私たちは罪の奴隷であり、死を恐れながら待つよりほかにない者でした。
 しかし、全ては一変しました。罪の奴隷であった私たちですが、イエス・キリストを信じて義の奴隷となることによって、神は私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。
 私は最初、奴隷ということばにはあまり好感を持てませんでした。でも今は違います。義の奴隷となることは私たちを束縛するのではありません。むしろ解放します。人は皆必ず死を迎える死の奴隷です。しかし、キリストを信じることによって、この死から解放され、永遠のいのちを受けることができるのです。これが義の奴隷の報いです。罪の奴隷となるか、キリストを信じ義の奴隷になるかは、一人一人に任されています。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年11月12日号(第962号)より転載—

2017年11月2日木曜日

信 仰

 ユダヤ人の一般的な考えでは、幽霊はしばしば海上に現れると言います。それで、マタイの福音書14章で、イエスさまが暴風雨のガリラヤ湖の上を歩いて来られた時、弟子たちは幽霊だと思い、恐ろしさのあまり、叫び声を上げました。
 イエスさまはすぐに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださいました。それに力を得て、ペテロはイエスさまにこう言いました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
 イエスさまは、「来なさい」と言ってくださいました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスさまの方に行きました。奇跡が起こったのです。
 ところが、ペテロは風を見て怖くなり、沈みかけました。彼は、「主よ。助けてください」と叫びました。イエスさまは、すぐに手を伸ばしてペテロをつかみ言いました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」。二人が舟に乗り移ると風はやみました。
 信仰は現実に打ち勝ち、奇跡を生みます。信仰とは神のことばを信じることです。「来なさい」と語ったイエスさまのことばを最後まで信じることです。波や風など「現実」に目が行き、神のことばを見失うなら沈みます。
 イエスさまはペテロに、信仰の薄い者だとも、なぜ疑うのかとも言われました。神のことばではなく現状に目を向けさせること、これは「疑い」です。「疑い」はくせもので、信仰の真逆を行きます。しかし、信仰は、神の語られたことばにとどまることです。
 信仰に立つなら、ペテロに起こったことと同じような奇跡が私たちにも起こります。イエスさまもまた、私たちがみことばに立てるよう助けてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年11月5日号(第961号)より転載—