2022年2月28日月曜日

恐れと罠

  日本民族には、際立った特徴として、人を恐れるという傾向があるように思います。さかのぼれば江戸時代、幕府は五人組制度を作りました。治安維持のため、法度を守らせるため、年貢完納、キリシタン禁制などを連帯責任で遂行させるため5戸前後を一組として管理したのが五人組という制度です。

 一人でも咎めを受ける者が出たら、何事も連帯責任となるため、そこでは、他人に迷惑をかけないようにということがとにかく強く求められました。五人組は良いことも悪いことも互いに共有し、時には互いに見張りあう、社会の最小単位の組織として幕府によって作られました。そして、この幕府の思惑は当たったのです。徳川幕府が長く続いたのも、この五人組制度が組織されていたからだと私は思っています。

 さて、このような時代を経た私たち子孫は、骨の髄まで、人を恐れるようになりました。私が家族から受けた教育もまた、人を恐れよというものでした。「そんなことして、世間様がどう思うか分かっているのか」「笑いものになるぞ」こう言って叱られることは度々ありましたし、全てのことについて、人がどう思うかという事が最優先でした。罪悪感や劣等感を抱き、今から思えば、そこにはサタンが介在していたように思います。

 それでは聖書は何と語っているでしょうか。ソロモンは、その箴言でこう語っています。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(2925節)これが答えです。

 そもそも人を恐れること自体が罠です。人を恐れても、人があなたを庇ってくれるわけでなく、世間はあなたに同情のかけらさえも示さないでしょう。冷たくて厳しい現実があるばかりです。

 しかし、主イエス・キリストに来るなら、そうではありません。主は、愛なるお方、慰めの神、私たちに自由と解放をくださる救い主です。イエス・キリストを知ることによって、確かに主は、人や世の教え、しがらみから私たちを解放してくださいます。また、信じる者にはキリストの自由があります。イエスに信頼する者は神に知られており、神はその者をすべての道で守って下さいます。

 人はその恐れるものの奴隷となります。ですから、私たちはむしろ神を恐れましょう。どのような状況の中でも神に信頼致しましょう。神は、あらゆる罠からあなたを守ってくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2022年2月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2022年2月23日水曜日

祈りは聞かれる

  18歳の時に私は、イエス・キリストを救い主として信じ救われました。それから約40年、クリスチャンになって祈りが効かれたことは数知れず、多くの奇跡を見、いかに神が現実に働かれるかを知りました。そしてそれらは私の人生を間違いなく一変させました。

 祈りですが、事の起こりは教会の牧師の証しによります。牧師は、ある韓国人クリスチャンから、祈りが聞かれるという証を聞いて、早速ご自分でも祈ってみたそうです。ちょうど、教会に赴任したばかりで、机が必要なのでこれを神さまに求めることにしました。証しの中で、例を挙げて具体的に祈るのがよいとアドバイスされていたので、具体的に祈ったそうです。グレーの事務机が良いです。引き出しを開けるとググっと音がして、ファイルをそのまま仕舞える深い引き出しがついているもの、さらに椅子には滑車がついていて動きやすく、と具体的に条件を挙げて求めました。

 そして月日は流れ、そのことを祈ったことも忘れかけたある日、引っ越される方が一階から牧師を呼びました。「机、いりませんか? 2つあるのですが」そこで牧師は「良い方を置いていって」と答えました。そしてしばらくしてから下に降りていくと、何と祈った通りの事務机がそこにあったのです。

 これを聞いて私は奮起しました。救われたばかりの私でも神さまは祈りに応えてくださるだろうか。この一点が気になりましたが、私もこのような神の現実に与りたいと強く願ったので、祈ってみることにしました。ちょうど、教会に通うために自転車が必要になったので、自転車が与えられるよう求めることにしました。主にはこう申し上げました。自転車もほしいですがそれ以上に祈りに応えられるあなたを知りたいのです。祈り求めたことは誰にも言いません。ただあなただけにより頼みます。あなたが生きて働かれることを教えてください。

 みこころにかなう祈りは聞かれる、というのが聖書の教えるところです。結果として私の祈りは、祈り忘れてしまった一つを除いてすべて答えられました。私が祈った自転車は、このようなものです。鍵が2カ所以上あること、ライトがついていること、かごは黒のメッシュで、変速ギアがついていて、ブランド品であること、小柄な私でも安全に乗れる小さめの自転車で、色はオレンジかそのあたりの色で、と思いつく限りの条件を差し出しました。果たしてこんな自転車あるでしょうか。

 しかし、サタンの働きを許してしまいました。実は私はふたごころであったのです。私は神に自転車を祈り求めながら同時に自転車をくれそうな友人に当たっていたのです。そしてついにある人から譲り受ける約束がつきました。教会には、リクエスト通りではなかったけれど自転車は与えられましたと報告するつもりでした。偽りです。そんな中、約束を取り付けた友人から突然電話がかかってきました。ごめん。実は自転車が盗難にあった。それであげられなくなったというのです。神だ、と思いました。申し訳なさそうな彼女の声を遠くに聴きながら、深く神を恐れました。そしてそこからは、悔い改めに次ぐ悔い改めです。

 そうこうするうちに、私の保証人の方に引っ越したことを伝えなさいという思いがやってきました。そこで、電話をかけると向こうからこう言ってきました。駅から遠くなるなら私の自転車使わないか? それを聞いた瞬間、分かりました。まだ見てはいないけれどもそれは間違いなく私の注文通りの自転車なのです。その通り、日曜日の夕方、やってきた自転車は祈ったすべての要件を満たしていました。唯一つ祈り忘れていた新品というリクエストは反映されていないものの、すべて祈った通りの奇跡の自転車でした。

 神は生きておられます。現代でも聖書の時代と同じように祈りは聞かれ、神の現実を体験します。あなたもまた、神の民となり、神のもとに帰りましょう。「祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります」(マルコの福音書1224節)

MIKOE NEWSから転載」 2022年2月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2022年2月13日日曜日

神の至上命令

 若い頃、主に対する熱心さから、手当たり次第に福音を語りました。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われると聖書に書いているので(ローマ人の手紙109節)、友人知人を捉えてはイエスさまを信じるよう粘りました。あまりにもしつこいので、渋々受け入れてくれましたが、結果的には反発を買ったり、教会に結びつかなかったりで、それでも祈って心にイエスさまをお迎えしたのだから意味があるとは信じつつも、次第にそのような伝道はしなくなりました。

 しかし、それは霊的な眠りをもたらしたかもしれません。相手が不快な顔をするのを恐れて、あえて語ることをしなくなった私は、塩気が抜けた塩のようでした。

 以前にもお分ちしましたが、あるご夫婦がいました。ご主人は癌で余命いくばくもない状況で、ある時クリスチャンの奥さんに言ったそうです。「俺はもう長くはないから、今のうちに言っておくべきことがあったら言ってくれ」それを聞いて奥さんは、ちょっと考えてから、あの旅行は楽しかったねとか、良かったねとか話したそうです。ご主人は「そんなことか」といってその場は終わりました。

 やがてご主人は亡くなり、落ち着くと、奥さんはある時はたと気付きました。私は夫に福音を伝えていなかった。これこそ、夫に言うべきことであった。あの時がそのチャンスだったのだ、とはっきり分かったそうです。その悔いは筆舌に尽くしがたいものであると思います。

 私も同様な苦みを経験したことがあります。ある時私は、乳母のご長男さんご夫婦を訪ねました。定年退職をして悠々自適に暮らしているお二人ですが一向に幸せそうでないのです。話は弾まず、早々にいとまを告げました。

 それからしばらくして、ご長男さんが、手術のできない所にある癌に罹患していることを風の便りに聞きました。聞けば奥さんも糖尿病です。あの時、お二人はまさにイエスさまの助けを必要としていたのです。程なくして長男さんは亡くなり、四十九日を終えると奥さんも亡くなりました。

 あの時、お二人にイエス・キリストが必要であることに私は気づきませんでした。鈍い者です。お二人が救われる機会であったのにそれがまるで見えてなかったのです。嫌われても、疎遠にされてもイエス・キリストを救い主として伝えるという使命に堅く立つべきであったと後悔しました。

 神さまは、すべてのものを用意して、あとは私たちに委ねておいでです。救いは既に神によって完成しており、あとは宣べ伝えるだけです。もちろん、その人が救われるかどうかは神の働きです。しかし、その福音を語るのは、私たちの働きです。そしてそれを主は御使いたちにではなく、私たち人に任せてくださったのです。

 テモテへの手紙第二42節にはこう書いてあります。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」福音宣教は、神の至上命令です。このことを知り、いつでも語れるよう備えていきましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年2月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2022年2月6日日曜日

お金の話

 人が、一人前の大人として認められるその規準は、金銭を正しく取り扱うことができるという点にあると私は思います。それ程にまでお金の問題は、私たちに密接に関わってくる日々の課題であり、現実のものでありながらも極めて霊的なものであって、暴れた馬を乗りこなすような扱いにくさがあります。

 史上最高のお金持ちであったのはソロモン王です。しかしながら、伝道者の書でソロモンは「金銭を愛する者は金銭に満足しないこれもまた、むなしい」(210節)ということばを残しています。その通りで、富の追求は天井知らずで、もう十分ですとは決して言いません。そして、このゴールのない追求は心を病ませる一方で、落ち着くところがないのです。最も金銭を祝福されたソロモンでさえ金銭の追求が虚しいのなら、私たちの虚しさはなおさらです。

 良しにつけ悪しきにつけ、お金は人を変えてしまいます。お金があったことが、良いのか悪いのか判断できないケースは少なくありません。福音書によると、ある裕福な青年が、イエスに永遠のいのちを得るためには自分は何をすればよいかと尋ねました。イエスが律法を守ることを語ると、青年は、「そのようなことをみな幼い頃から守っています」と答えました。すると、イエスは彼をいつくしんでいわれました。「持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります.そのうえで、わたしについて来なさい」すると青年は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。この人は多くの財産を持っていたからである、と聖書は書いています。

 一般に、お金がある人は目減りを嫌い極力使おうとしません。しかしお金がない人は、返って使うことに大胆で、思わぬ祝福を受けることがあります。ですから、どちらかというと富やお金は必要以上に持たないのが幸いなのかもしれません。イエスさまもまた、去って行く裕福な青年を見て、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」とおっしゃいました。なまじ富を持っていたがために、青年はイエスに従えなかったのです。これは私たちへの警告です。果たして青年は、自分が最も大切なものを失ってしまったことに気付いていたでしょうか。

 お金の誘惑によって、人生を棒に振ってしまった人は大勢います。金銭を愛する者は金銭に満足しません。ですからお金の問題を正しく治めることができる人は、人生の成功者、社会における成人と呼んでもよいでしょう。そして、それには神の助けが必要なのです。

 お金に慣れてしまって恐ろしいことは、お金でしか動かない者になることです。何でもお金に換算してお金で動くようになることです。富は人を高ぶらせ、不正の利を追求させます。自分が損することは絶対やらない、そうなってしまったら最後、神が与えようとしている恵みや祝福を決して受けることができません。往々にして、損だと思えることの背後にこそ、神の恵みは隠されているからです。

 それ故、神を恐れましょう。そして、神が与えてくださるすべてのものを感謝し、神の子とされたことをまず、喜びましょう。なぜなら、神を持つ者はすべてを持っているからです。

MIKOE NEWSから転載」 2022年2月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/