2014年9月27日土曜日

仏壇
 祖父の家に祖母の仏壇がありました。毎日お水を上げ、ご飯を上げ、チーンと
鳴らしては手を合わせます。しかし、ぎらつく仏壇や位牌は子ども心に も強く
死を意識させ仏間には怖くて近寄れませんでした。
 とはいうものの、仏壇を必要とする人間の心理は分からないわけではありませ
ん。私の伯母の所にも小さな仏壇がありました。乳母の家にも小さな仏 壇があ
りました。この二つの仏壇はそれぞれ子どもの供養のために設けられたもので
す。伯母は、子を7カ月で早産し、保育器で育てていたのですが停 電になり、
その子は死んでしまいました。また、乳母の赤ちゃんは、肺炎のため、生後わず
か3日で亡くなりました。殺してしもうた…、と今でも自分 を責めるおじさんの
言葉が私の耳に残っています。その深い悲しみは当人でないと決して分からない
でしょう。その子が生きた証しを求めたい一心で、 仏壇購入に至ったのならと
ても責める気にはなれません。
 しかし、ここには問題があります。ある人が言いましたが「先祖は敬う対象で
はあるが、拝む対象ではない」のです。仏壇がなぜいけないかそれは 「拝む」
からです。神の十戒にも、偶像を造ってはならない、それを拝んではならないと
書かれています。拝むべきお方は、神おひとりしかありませ ん。
 亡くなられた方のことは、真実、公平な神さまにお委ねください。そしてあな
たはその方を亡くしたことに対して、神さまからの慰めをお受けくださ い。先
祖を大切に思う気持ちは大事ですが、仏壇に先祖はおりません。拝んではいけま
せん。私たちを守り、祝福できる、唯一のお方である神さまだけ を拝み、この
主の救いを受けてください。       (イスラエル北野)

み声新聞2014年9月28日号(第799号)より転載—

2014年9月20日土曜日

同性愛
先日ニュースで、女子テニスの往年の名選手、マルチナ・サブラチロアさんが、
ガールフレンドのJさんに求婚したことが報じられました。
 驚きました。これは同性婚ではありませんか。近年、同性愛(婚)は、今まで
にない勢いで、社会に認知されるようになってきています。
 結婚は本来1人の男と1人の女、その両性の合意をもってなされるものです
が、同性婚は、男と男、女と女の間にも、同様な結婚を認めようとしてい ます。
 同性愛に関しては、聖書は罪に定めています。ローマ人への手紙1章に次のよ
うな一文があるのです。「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されまし た。すな
わち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然の用を
捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うよ うになり、こう
してその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(2627節)
これは、同性愛について語っているのです。
 さらに憂うことは、ここまで聖書がはっきり書いているにもかかわらず、神の
教会の中でも同性愛(婚)を認める教会が増えていることです。彼らの 土台と
するところは、もはやキリストとその言葉ではなく、人道主義・ヒューマニズム
と言えます。同性愛を認めないのは差別にあたる、と門戸を開き ましたが、神
の真逆を行くものです。
 人道主義ではなく聖書主義、これこそが神が推奨される生き方です。人は神を
恐れて生きて行くことが必要です。人を中心とした教えと、神を中心と した
教えは混同されますが180度違います。私たちのために命まで投げ出してく
ださったキリストこそ唯一の救いであり、真理です。 (イスラエル 北野)

み声新聞2014年9月21日号(第798号)より転載—

2014年9月13日土曜日

殉教
 中国のリバイバルまた迫害時代に用いられたママ・クワングさんは、殉教に対
して第二テモテ2章をその根拠として挙げました。
 そこには「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるように
なる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼 を否ん
だなら、彼もまた私たちを否まれる」(1112節)と書かれています。
 彼とはイエスさまのことです。誰でもキリストを否んだら、キリストもまたそ
の人を否まれるというのです。それゆえママ・クワングさんは、このみ ことば
から、たとい死ぬようなことがあってもでも主を否んではならない、と教えまし
た。聖徒たちはこのことばを守りました。多くの殉教者が出まし たが、そこか
らリバイバルが起こりました。
 歴史の中で、クリスチャンの信仰に恐れを抱いた政治指導者たちは少なくあり
ません。彼らクリスチャンたちは、死をも恐れずにその信仰を全うした からで
す。彼らは死に至るまで忠実でした。命を選ばず、殉教の死を選んだ彼らは、も
はや世にあっても世の人ではなかったのです。自分たちにではな く、神にのみ
服従する彼らに、世の指導者たちは脅威を抱きました。こういうわけで、私たち
は世に憎まれ迫害されます。またそう定められているので す。
 ヘブル人への手紙には「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見 て喜び
迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と書かれて
います。(1113節)天国にあずかる希望は何にもましてす ぐれています。
救いはイエス・キリスト以外にありません。イエスさまを信じましょう。 (イ
スラエル北野)

み声新聞2014年9月14日号(第797号)より転載—

2014年9月6日土曜日

強さと弱さ
 私は元来、強気で活発な人間でした。ところがイエス・キリストを信じ、献身
してから、ひと月ばかりのうちに試練が訪れました。病気で入院したの です。
東京の教会を後にして郷里の徳島に帰り、大学病院に入院しました。礼拝にもあ
ずかれず、送られてくるカセットテープを唯一の霊の糧としてし がみつくよう
に聞いていました。
 入院したことによって、私はもう、自分が強いだとはとても言えなくなりまし
た。歯を磨くのにもトイレにも介助が必要でした。心はもういっぱい いっぱい
で、これ以上一つでも何かが加わるなら、心のダムが決壊するところでした。
 おまえは弱い。おまえの友人のようにどうして強くなれないんだ、と父に言わ
れ、以来、弱さは私の苦味となり、父のいう、強くて成功している友人 たちと
は距離をあけるようになりました。
 なぜこんなことが起きるのですか、という問いかけに神さまは、コリント人へ
の手紙第二12章を示してくださいました。「その啓示があまりにもす ばらしい
からです。そのために私は、高ぶることのないように、私を打つための、サタン
の使いです」(7節)また「わたしの恵みは、あなたに十分で ある。というの
は、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(9節)と書いてあ
りました。
 強さ弱さに関しては、もし、私が友人のように強かったなら、決してイエスさ
まの元に来なかったと思います。弱かったからこそ、イエスさまを知り まし
た。私は弱いですがイエスさまが私の強さとなってくださるのです。弱くされる
ことは恵みです。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大い に喜んで
私の弱さを誇りましょう」
 (イスラエル北野)

み声新聞2014年9月7日号(第796号)より転載—