2014年5月29日木曜日

名 前
 パッチワークの丘で有名な北海道の美瑛町には、でかでかと「武田信玄」「風
林火山」の看板が立っています。聞くところによると、このオーナー は、信玄
に傾倒して、養子縁組を繰り返し、自分の名をついに武田信玄に変えたそうです。
 私の友人のSさんは無神論者でしたが、赤ちゃんを産んだとき、良い名をつけ
ようと、姓名判断の本と首っ引きで頑張っていました。良い名前をつけ れば、
幸せな人生が来る、祝福が来る、そう思ったのでしょう。他にも名前を変えた友
人がたくさんいます。
 聖書にも、名前が変えられるという記述はあります。創世記17章5節には、ア
ブラムが99歳になった時、神さまが現れ「あなたの名はもう、アブ ラムと呼ん
ではならない。あなたの名はアブラハムとなる」と語られたことが書かれていま
す。多くの国民の父という意味の名前でした。同32章でヤ コブもまた、神と格
闘した結果、「あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名は
イスラエルでなければならない」(3510節) と語られ名前が変えられまし
た。名前が変わった彼らは神さまの大いなる祝福にあずかり、その実質の現れを
見ました。
 名前には大きな意味があります。芸能の分野においても、襲名披露という形
で、名前は重んじられまた継承されていっています。意味のない名は一つ もあ
りません。
 大切なことは、私たちを使命をもって、祝福しようとしてくださっている、真
実な神さま、イエスさまがおられること、そしてこのお方に聞くことで す。私
たちもまた主が下さる名前があります。イエスさまはどんな名前であなたをお呼
びになるか、耳を傾けて参りましょう。     (イスラエル 北野)

み声新聞2014年6月1日号(第782号)より転載—

2014年5月20日火曜日

マリヤ
 新約聖書には、マリヤという名を持つ3人の女性が登場します。一人は受胎告
知を受けたイエスの母マリヤです。もう一人は、イエスさまのお話に聞 き入っ
ていた、マルタとマリヤ姉妹の妹であるマリヤで、3人目は、イエスさまに七つ
の悪霊を追い出していただいたマグダラのマリヤと呼ばれるマリ ヤです。復活
の主は真っ先に彼女に現れてくださいました。
 カトリックでもマリヤが語られていますが、マリヤを特別な存在にしてしまい
ました。受胎告知を受けたイエスの母マリヤを無原罪のマリヤと呼び、 礼拝の
対象にすらしています。幼少の頃、私は、カトリックの聖母幼稚園に通っていま
したが、教室ごとに安置されている白く大きなマリヤ像が、美し くもなぜかと
ても恐ろしかったことを覚えています。聖書には、イエスの母マリヤが無原罪で
あるとか、礼拝するように、とか書いてある箇所は一つも ありません。
 新約聖書の、イエスの母マリヤはむしろ素晴らしい信仰の人です。ルカの福音
書1章をお読みください。受胎告知の際に、御使いの語る言葉がどうい う意味
なのか、マリヤはよくは分かっていなかったと思います。しかし彼女は御使いに
こう言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どう ぞ、あなたのお
ことばどおりこの身になりますように」(38節)。
 神のことばの前にへりくだり、「おことばどおりこの身になりますように」と
告白する、ここに彼女の純粋な信仰を見ることができます。そしてこの 信仰こ
そが尊く、また目を留めるべきものであると私は思います。私たちもまた神を知
り、すべてを神に明け渡す、この信仰者マリヤの信仰に習うもの でありましょ
う。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月25日号(第781号)より転載—

2014年5月17日土曜日

心に革命を
 「親という商売があるなら、さっさと辞めてしまいたいものですわ」父がよく
お客さんに語っていた言葉です。
 言われた当人である私も親となり、子育ての苦労を知りました。この道を進ん
でくれたらと思い、精いっぱい用意しますが、親の心子知らずで、みす みす
チャンスを逃がすことも数知れず、悔やむことも多いです。子どもはたくさんの
無駄を重ねながら育つと言いますが、ああすればよかったと、悔い ることもま
た多く、心が重くなります。しかし、神さまはそこから私を救ってくださいました。
 ローマ人への手紙8章28節に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に
従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として くださ
る」ということばがあります。
 すべてと書かれていますが、このすべてとは、当然悪いことも含んでいます。
悔やむような悪いことも益としてくださると神さまは約束してくださっ ている
のです。救いある言葉です。
 先ごろ天に召されたマーリン・キャロザース氏は、私たちに歌を教えてくださ
いました。神は私の益のために今働いてくださっています、という歌で す。不
思議なことに、この歌を歌ううちにいつしか心は信仰を取り戻し、すべてのこと
が益となるという約束を信じられるようになるのです。
 サタンは私を悔いにつなごうとしましたが、神さまへの感謝と賛美はそれを断
ち、今や私の問題は私の手を離れ、神さまが担ってくださっています。 そして
神さまはすべてを益にし、そればかりか最高のものを与えてくださいます。それ
ゆえ私たちは今日、心に革命を起こしましょう。たとい何が起こ ろうと神さま
を賛美すると決意するのです。       (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月18日号(第780号)より転載—

2014年5月6日火曜日

奇跡を信じる
 私が所属する教会は、今でも神さまはいやしをなされるという立場に立ってい
ます。マルコによる福音書には「病人に手を置けば病人はいやされま す」(16
18節)と書かれていますし、イザヤ書には「彼(イエスさま)の打ち傷によっ
て、私たちはいやされた」(535節)と、神癒の根拠 さえ示されています。こ
のみ言葉を信じ行った結果、教会では毎日のようにいやしが起こっています。
 先日も、教会のTさんが、頭部を強く打ち意識不明、けいれんまでおこす事故
が起こりました。ご両親と教会の祈りの手が一斉に上がる中、祈り始め るとピ
タッとけいれんが止まり意識が回復しました。みな口々に奇跡だの声があがり、
大いなる栄光が現されました。
 教会には癒やしがあります。イエスさまは今でも、ご自身のみからだなる教会
に満ちておられ、信じる者たちを通していやしやさまざまな奇跡をなし てくだ
さいます。それ故、私たちには、どのような困難のなかにあっても希望があるの
です。この希望は、信仰とともにあります。
 では信仰とはいったい何でしょう。ローマ人への手紙4章11節に「彼は望みえ
ないときに望みを抱いて信じました」と書かれています。これはアブ ラハムの
信仰のことを言っています。約束の子イサクさえ産まれていなかったにもかかわ
らず、アブラハムは空の星ほどの子孫を与えると語った神を、 その言葉を信じ
ました。望みえないときに望みを抱く、信仰はここから働きます。現実ではな
く、神のことばに立つ、これが信仰なのです。
 あなたもまた、神を信じるなら、生ける神の奇跡を見るようになります。そし
てこの希望は決して失望に終わる事がありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月11日号(第779号)より転載—

2014年5月4日日曜日

バベルの塔
 先日、ニュースを読みましたが、なんでも西暦2016年に中国の広州市に
111階建てのビルが建つ予定です。また中東では、高さ1000メート ルを
超えるビルが建設予定だそうです。
 とにかく、少しでも高い建物を建てようすることの始まりは、創世記の昔から
ありました。バベルの塔です。そのころは、全地は、一つのことば、一 つの話
しことばでした。彼らはこう言いました。「さあ、われわれは町を建て、頂きが
天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされる といけないから」
 その時、神は人間の建てた町と塔をご覧になるため降りて来られました。そし
て、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始 めたの
なら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて
行って、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが 通じないよう
にしよう」(創世記11章参照)と語り、神は人々を全地に散らされました。こう
いうわけでこの町は、バベルと呼ばれるようになりまし た。
 高い物を建てようとする私たちの習性は、このバベルから引き継いでいるのか
もしれません。バベルの時代では、その心がいけなかったのです。自分 たちの
名をあげよう、という動機が神さまの前に高慢であり、反抗的であったのです。
しかしながら私たちは、天に達し、神さまの近くに居たいという 純粋な憧れも
持っています。
 神さまに近づくために必要なことは、高い塔を建てることではなく、むしろ内
面的なものであり、低くなること、へりくだることです。私たちが神さ まの前
にへりくだる時、神さまは私たちに近づき、また私たちをご自身に近づけてくだ
さいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年5月4日号(第778号)より転載—