2016年6月26日日曜日

 
へブル人への手紙11章に次のような一文があります。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(26節)というものです。
 エジプトの宝にまさる富という表現からすると、彼とはモーセでしょう。モーセはパロの娘の子として育ち、エリート教育を受けていました。帝王学です。エジプトはモーセの前に大きく開かれていました。
 にもかかわらず、モーセは成人した時、「パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(2425節)と言います。モーセは一体何を見たのでしょうか。それは、天の報いです。この世での収支を償ってなお余りある天の報いから彼は決して目を離しませんでした。
 日本での最初の殉教者となった日本二十六聖人も同様です。子どもを含めて26名が長崎の西坂において磔刑に処せられました。子どもたちはことに愛らしく、何とか助け出そうとされましたが、幼いながらも彼らの心は決まっていました。彼らもまた、天の報いから目を離しませんでした。
 たとえ世の命を失うことがあっても、イエスを信じる私たちには永遠のいのちがあります。命すら惜しまずに主に仕えることの報いを彼らは知っていました。次の世にあってもこの報いは付いていきます。
 私たちがどう生きるかは、一人一人に委ねられています。しかし、忘れてならないのは天の報いです。永遠に至るまことのいのちこそ真に価値あるものです。神さまはこれを下さるのです。天国にはあなたの席があります。神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月26日号(第890号)より転載—

2016年6月19日日曜日

 
 黙示録3章に、ラオデキヤにある教会に宛てた神の神さまの私信があります。そこには「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」(15節)と書かれています。
 クリスチャンになりたてのころ、私の内側は熱く燃えていました。問題の解決を求め熱心に祈り、求める手を下ろしませんでした。ところが、これといった問題も無くなると、その燃えるような神さまへの求めがなくなってしまうのです。これでいいや、と知らぬ間に安逸をむさぼっています。
 神さまが、約束の地カナンにイスラエルを導いてくださった時、最後まで聞き従ったのはヨシュアとカレブ2人だけでした。戦いの時にはイスラエルは日々神さまにすがりしっかりとつながっていましたが、カナンに入ると生活が一変したのです。
 カナンに入ると今までイスラエルを荒野で養った神のパン(マナ)が降らなくなり、民はカナンの地でとれたものを食べるようになりました。つまり、生活の安定を得たのです。民は、戦うことより、そこそこの生活で落ち着く方を選びました。
 神のみこころを行うという使命を生涯全うするというよりも、もうこれ以上苦労したくない、このままでいい、そっとしてくれ、これが本音でしょうか。信仰生活に妥協が入ってきました。
 歴代誌第二16章9節には「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」と書かれています。神さまの心をわが心とし、熱心に主の召しを全うする人生を求めていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年6月19日号(第889号)より転載—

2016年6月15日水曜日

富める若人
 マルコによる福音書1017節以降に、一人の青年が登場します。彼はイエスさまに走り寄って、御前にひざまずいて尋ねました。「先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」
 イエスさまは「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』」とお答えになりました。
 青年は、「先生。私はそのようなことはみな、小さい時から守っております」と言いました。
 イエスさまは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」
 すると青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去って行きました。聖書は「この人は多くの財産を持っていたからである」と記しています。
 財産が彼の献身の道、天に宝を積む道を阻みました。自分にとって良きものであるはずの財産がここでは害になっています。ソロモンは、伝道者の書で「金銭を愛するものは金銭に満足しない。富を愛するものは収益に満足しない。これもまた、むなしい」(5章10節)と語っています。
 生活してなお余りあるお金を持つことは確かに祝福です。決して悪いことではありません。しかし、それを正しく用いるかどうか試されます。富は主から与えられたものです。ですから、神の国とその義のために、そして神の栄光が現されるように用い、共に天に宝を積んで行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月12日号(第888号)より転載—

2016年6月7日火曜日

罪の赦し
 イエスさまは私たちの罪を赦してくださるお方です。イエスさまは、罪を赦す権威を持っています。私たち人間は罪過の中に死んでおり、自分であろうと他人であろうと、罪を赦すことなどとてもできるものではありません。こういう訳で、人の罪を贖うには、罪のないお方が死なれないとならないのです。
 イエスさまは神のひとり子です。何一つ罪のないお方です。私たちを救い贖うために、世に来られ、十字架で死んでくださり、三日目に復活を遂げられました。ここに神は、私たちの贖いを完成されたのです。
 ルカの福音書にはイエスさまが十字架にかけられた時に起こった様相を伝えています。イエスさまは、二人の強盗の真ん中で十字架にかけられました。群衆もその強盗もイエスさまを口汚くののしり、神の子なら自分を救ってみろと激しく糾弾しました。
 ところが、しばらくたつと強盗の一人が回心するのです。「お前は神をも恐れないのか。(中略)われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(234041節)、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(42節)
 これに対してイエスさまはこう言います。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(天国)にいます」(43節)
 これがイエスさまなのです。私たちを愛しご自分に身を避けてくるものを知っておられます。罪が支配する時代は終わり、今はキリストにより恵みと祝福が私たちのために用意されています。あなたもまたその全ての罪を赦していただけます。神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月5日号(第887号)より転載—